The March Hare And All Fools' Day






「あ、おかえりなさい、ジュリアン」 
 合宿所のエントランスにいたダニーが振り返って目を丸くした。今回の代表チーム最年少の彼はもと もとその大きな目が特徴なのだが。 
「明日、っておっしゃってませんでしたっけ」 
「あれっ、ジュリアン」 
 話し声に気がついて、その向こうのホールにいた数人が驚いた顔を見せた。 
「早かったんだな」 
「あ、うん。予定より早く片付いたし、それに」 
 縁台チェスならぬ食堂チェスを指していたフィリップとジョニーの言葉に、僕はごく簡単に応えた。 
「こっちに急ぎの用を思い出したから」 
「ふうん、そうか」 
 それですっかり納得してフィリップはまた盤に注意を戻す。遅いぞ、などとジョニーに文句を言われな がら楽しそうに長考に入ったらしい。こういう時でなくても、必要以上に他人に 詮索をしないのが彼の いいところだ。ジョニーに妙に甘えがちな点は置いておくとして。 
「やあ、ブルース」 
 そのさらに向こうにたまっていた何人かに近づきながら、僕はそう呼びかけた。 
「誕生日おめでとう」 
「お、おう」 
 一瞬なぜかぎょっとしたらしい反応を見せてから、ブルースは急におどけたような笑顔になった。 
「ジュリアンに言ってもらうとなんか照れるなァ」 
「そっか、おまえ、今日誕生日だっけか。忘れてた」 
「てか、知らなかったし」 
 ニューチームの面々は思い出して、それ以外の者は初耳という顔でそれぞれブルースに祝いの言葉 をかけている。 
 午後の練習は終わったばかり、着替えてくつろいでいる時間だけあって、ここにはおよそチームの半 分くらいが顔を出しているようだった。 
「で、トムはどこかな」 
「あ…」 
 ブルースは、ポールとボブとぱっと顔を合わせた。 
「ロッカーまでは一緒にいたんだけど…」 
 ポールがやや緊張気味に口を開いた。 
「どれくらい前?」 
「1時間…、いや、1時間半前だな」 
 思ったよりも長い時間だったことに、彼ら自身が戸惑っている。トムはいつもそんなふうに穏やかに彼 らの間に存在しているということだ。そこにいる時も、いない時もそれを感じさせないくらいに穏やか に。 
「台所かも」 
 ボブが言った。 
「マダムが手伝ってほしいって何人か呼んでたから」 
「そう」 
 僕はバッグはそこに残してすぐ隣のキッチンに向かった。なぜかポールもついてくる。 責任を感じるこ とでもないだろうに。 
「あれっ、ジュリアン」 
 ここでも驚かれてしまった。むしろ驚くべきは僕のほうなのに。 
「えらく早いご帰還だな」 
「マークも、なんだい、それは」 
 そこに立っていたのは、白いエプロンを無理やり腕まくりして着込んでいる怪力ストラ イカーだった。  「何って、ジャガイモだ」 
「いや…」 
 水を張った大きなボウルに向かって、彼はピーラーを実に見事に操っているところだったのだ。僕と話 しながらも手は止めない。 
「皮を剥いてるとこだ。この人数分だからな。ジャガイモだけで5ポンドはあるんだぞ」 
「すごいね」 
 いや、その手さばきの慣れた様子が。こうして見る限り、むき方の出来も繊細な仕上がりのようだ し。 
「この人は、年上の女性の言うことは断れないんでな」 
「こら、余計なことを言うな」 
 そこに音もなく現われたエドに墓穴を掘るだけの抗議をしている彼は、やはり不器用なのだろうか。  「君は力仕事専門かい?」 
「もちろんだ」 
 エドは運んできた段ボール箱をそこに置き、ティッシュペーパーを引っ張り出すくらいの感じでその封 をされた箱を一気に開いた。 
「トムは、いないんだ?」 
 横からポールが口をはさむ。僕もキッチンを見渡すが、向こうで鍋を火にかけているマダムの他には 誰もいない。 
「ホリーなら知ってるがな」 
 またも墓穴になりかねないことをマークが口にした。 
「それなら聞かなくてもわかるよ。グラウンドだろう? 今日は、ベンジーと?」 
「いや、アランとだ。アッチは監督に引っぱってかれた」 
 同業者として淡々と証言するエドだが、不機嫌そうなのは隠せない。ホリーの練習後のシュート練習 に付き合うのが慣例となっているGK3人だが、果して迷惑なのか嬉しいのかどうやら微妙なところらし い。 
「そうだ、今夜は夕食の時、ブルースのためにキャンドルを用意しておいてくれないか」 
「追悼か」 
「違う!」 
 僕の言葉でエドとポールが漫才を始めたらしいが、気にせず一人でキッチンを出る。 
「…そらめでたいめでたい。こらいおたらなあかんな〜」 
 僕の後にホールに現われたらしい3人がブルースを囲んで騒いでいた。 
「ブルース、抜け駆けはズルイですよ。先に一つ年取るなんて」 
「俺はおまえより1年上なのっ、学年はな!」 
 よく表情の見えないサンディに向かってブルースはむきになっている。同じ年生まれだということをか らかわれているのだろう。実際、彼とブルースとは4ヶ月しか違わないわけだし。 
「どっちでもいいから、ケーキ、買って来ましょうよー。もちろんブルースのおごりで」 
 サンディと並んでからかいに加わっていたパトリックがこちらに気づいた。 
「あ、ジュリアンだ。ジュリアンはケーキは何がいいですか〜?」 
 どういう振りだろう。まあ、直感勝負で生きているようなパトリックにそれを聞いても無駄だろうが。  「ケーキならもうすぐ届くよ。注文しておいたから」 
「ひえ〜!」 
 ブルースは絶句している。 
「マジっすか!」 
「へへ」 
 嬉しさのあまりサンディに抱きつくパトリックに、大げさに手を振り回すラルフ。 
「なんでまたそこまでしてやんのや、ブルースの誕生日くらいで」 
「くらいって、こら、ラルフ…!」 
 こっちでも漫才が二組くらい始まりそうだったので僕はそこに置いてあった自分のバッグを取り上げ た。 
「いや、ただ今日という日に感謝したかったからね」 
「はい…?」 
 そこによく似た顔で棒立ちになっていたテッドとデリック兄弟の間を抜け、僕はホールを出る。 
「トムを探してたんじゃなかったのー?」 
 エントランスでスパイクを片手にぶら下げたエディとクリフォードに出くわした。 
「外で見たのかい?」 
「いや、居残りはワシらと後は…」 
「ホリーとアランだけ?」 
「うん」 
 そうか。となると考えられるのは…。 
「あのー、上は今誰もいませんでしたよ。夕食もうすぐだから呼んで来いって言われたんですけど、さっ き降りていった人たちで全部でした。どの部屋もカラです」 
 伝令までさせられていたのか、ダニーが階段の上に現われた。 
「そう。ならいいよ。僕は少し部屋で休むから。夕食はいらないよ」 
「はあ…」 
 ダニーにそう伝言を頼んで僕は2階の廊下を奥に進んだ。念のためにトムの部屋のドアをノックして開 いてみるが、ダニーの言ったとおり、シングルのベッドがぽつんとあるきりの部屋は何の気配もない。ど うやら、朝練習に出たきり戻っていない様子だ。 
 僕は鍵を出して自分の部屋を開けた。サッカー協会の雑用のせいで2日も留守にすることになった部 屋だ。 
 入ってすぐのクローゼットにバッグを置き、上着を掛ける。それからベッドに近づいて腰を下ろした。 
「君にはあきれるよ、トム」 
 ベッドカバーがかかったままのベッドには先客がいたのだ。 
「昼寝なら、自分のベッドですれば? それに、どうやってここに入ったんだい?」 
「…いいよ」 
 ベッドの中から小さな声がする。ただし、返事になっていない。 
「いいよ、ってねえ」 
 枕の上まで毛布を引っぱり上げていてトムの姿はまったく見えない。僕は手をついて頭のほうから覗 き込んだ。 
「眠ってるの?」 
「…ううん」 
 これでは会話が成立しているとは言えない。 
「どうして誰にも眠ってるところを見せたくないんだか。人間なんだから、眠るのは当然だろ? 寝顔だ って可愛いのに」 
「…ん」 
 これはどうやら本気で眠っているらしい。少しでも意識があれば僕に食ってかかっているはずだ。 
「ねえ、僕も休みたいんだけど。今日中に君に言っておきたいことがあったから、昨日は不眠不休だっ たんだよ」 
「入れば?」 
 僕はちょっと考える。自分のベッドなのだから遠慮する筋合いはない。それにここにいるのはトムでは なくてただの眠りネズミだ。帽子屋のお茶会に三月ウサギと一緒にいたあのヤマネ。 
「じゃあ、そうさせてもらうよ」 
 狭いベッドにとにかく入る。トムの体温で、毛布の中は気持ちのいい暖かさだ。 
「しかし、狭い」 
 トムを押しのけるわけにもいかず、向き合って抱きしめてみる。これでは色っぽさも何もあったもので はない。子猫の昼寝か。 
 僕がちょっと動いただけで、トムはさらに丸まろうとした。僕に持って行かれた分の熱を取り戻そうとし ているらしい。しばらく楽な姿勢を模索してから僕はため息をつ いた。 
「じゃあ、おやすみ」 
 ネズミでも子猫でもいいから。 
「眠っちゃだめだよ」 
 …首の辺りに何かが触る。トムの感触だった。いつもの。 
「眠る前に、聞かせてよ」 
「え?」 
 目を開くと、トムの目がそこにあった。毛布の外の空気が一瞬ひやりとする。 
「僕に言いたかったことって、なに?」 
「ああ、それね…」 
 横になったせいか、この温もりのせいか、それともトムに抱きしめられているせいか、今度は僕がどん どん眠りに近づいていく。 
「今日は、4月1日だろ?」 
「そうだね」 
 トムは疑わしそうに僕を見ている。 
「年に一度、今日しか君に言えないことがあるんだよ」 
「何?」 
 トムが少しずつ不機嫌になっていく。目が覚めてきたんだ。 
「まさか?」 
 目が覚めさえすればトムはもうバカなんかじゃない。僕の言おうとしていることがわかったらしい。 
「うん。トム、愛してるよ。世界でいちばん愛してる」 
「……」 
 トムは黙り込んだ。ほら、早くしないと今度は僕が眠ってしまうよ。 
「それが君のとっておきの嘘なわけ」 
「そう」 
 トムは聞こえないように息を吸い込んだ。 
「…僕も、愛してるよ。ジュリアン、誰よりも愛してる」 
「うくっ」 
 僕は引きつった。これは効く。我慢できない。トムも同じだったらしい。 
「最悪だ」 
「…思った以上だね。もう1回言おうか?」 
「やめてよ! そんなことしたらボクだって言うからね!」 
 ふふふ。トムが素直だ。だって、年に一度だから。 
「どっちが先に降参するかな?」 
 その後、僕たちがこのとっておきの嘘を何回繰り返してダメージを与え合ったかは内緒だ。 
 夕食に届いたのがバースデーケーキではなく、僕が協会で苦心して組んだ海外遠征の日程スケジュ ールだったということも。 
 そして僕はもちろんトムまでがその日の夕食抜きになったのかどうかもね。

[ END }




★海外版C翼での名前で読むとこうなる企画。対照表は資料室にありますのでご参考に…★
念のためにモトネタはこちらです。「三月うさぎと四月馬鹿