a cup of day 3−2                              






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 ドイツが誇る高速道路網アウトバーンはスピード制限なしが長い間売りだったが、近年 さすがに事故の多さから速度の制限がされるようになった。だがドライバーたちの意識は どうも急に変えられないようで、車の性能ギリギリまでスピードを上げている様子だ。
 若林もそんな現地ドライバーたちに負けない飛ばし方で西を目指して走り続けていた。 ハンブルクからブレーメンを経てエッセン、さらにその先の国境へと。
 出発の時にガソリンスタンドに寄っている暇がなかったため、ここらで給油が必要とな ってきた。標識を確認してエッセンの手前あたりでサービスエリアに入る。
『すみません、日本人ですか?』
「はぁ?」
 給油を終え支払いを済ませて出てきたところで声を掛けられた。英語でわざわざという ことは、若林が何者なのかには気づいていないようだ。
『実は困ってまして、助けていただけないかと…』
『どうしたんですか』
 一応付き合って英語で答える。実はドイツ語ほど上手というわけではないので見た目は しっかり東洋人なのとあいまって、これは現地人扱いされないのはしかたがないだろうと いう判断からだった。
 声を掛けてきたのは男の二人組。配送関係らしきユニフォームを着ている。若林がこの ままベルギー国境に向かうことを確認した上で申し訳なさそうに切り出した。
『急ぎの荷物を届けるところだったんですが、同僚が事故に遭ったという連絡があって 我々は戻らなくてはなりません。この先のサービスエリアまで荷物を預かって行っていた だけませんか。そこで会社の者が受け取るように手配してありますので』
『ふーん』
 若林は何食わぬ顔で男たちをさらに観察した。こんな話を簡単に信じるわけにはいかな いのだ。
 地元に不慣れな旅行者をだまして違法な物品の運び役をさせる、という手口は実は珍し いものではない。日本人と見込まれたあたりが何よりも怪しい。その筋の業界ではだまし やすいランキングの上位に日本人が入っていることは常識なのだ。
『その荷物というのは?』
『あっ、はい。これなんですが』
 簡単に乗ってきたと喜んだ男たちは、ワゴン車の荷台から小振りの段ボールの箱を出し てきた。
「なるほどね」
 両手で受け取ったその箱に、若林はじっと視線を止めた。
「おやおや、こいつは国外には持ち出さないほうがいい代物ですね。2個入ってますけど ハンザカップのほうは来週さっそく必要な物ですよ。早く協会に戻さないと」
「うっ…!」
 驚いたあまりよろけてしまって一人は車体に背中をぶつけている。若林がさっきからも うドイツ語に戻していることさえ気づいていないようだった。
「俺も先を急いでるんでこれは警察に任せたほうがよさそうだ。これ、確かに預かりまし たから、一緒に警察に行きましょう」
「ま、待て、おまえ!」
 若林が自分の車にその箱を積もうとするのを見て男たちはようやく我に返ったようだっ た。血の気が引いていた顔が、一気に紅潮する。
「なんで中身まで知ってるんだ!? こら、返さないか!」
「俺は一応このトロフィーの関係者になるからな。まあ、声を掛けた相手が悪かったな」
「くそっ」
 説明になっていないがとにかく男たちは逆上する。自分たちで渡しておいて、今度はそ の箱を取り返そうと襲い掛かってきた。
 自分の顔を知らないということはサッカー通ではないのだろう、と判断した若林は、そ れなら金目当て?といぶかりながら男たちの手を振り払った。
「金目当てってなあ。これがそんなに金になるのか?」
 どこかで自分のクラブの監督が似たようなことを言っていたのはもちろん知らない。
「動くな!」
 一人が拳銃を向けていた。もう一人が急いで取って返して車から持ち出したのは小型の サブマシンガンではないか。
「なんとまあ、物騒な配達屋だな」
 状況は相当緊迫しているのに、若林のほうは、こういう厄介な連中はどうやれば手間を かけずに警察に引き渡せるかなあ程度のリアクションである。その人を食った態度に男た ちは一気に切れてしまったようだ。
「なめやがって。穴だらけになりたいか!」
「職業柄、それは遠慮したいな」
 ちらりと視線を周囲に投げて、ガソリンスタンド内だけでも数台の車が来ていることを 確認する。ここで乱射でもされたら大惨事になってしまうだろう。若林はそう判断した。  どこか別の危なくない場所でならなんとか対処できる…と考えた若林は、男たちの脅し に屈した振りをしてワゴン車に押し込まれる。
「騒ぐなよ。騒ぐと命はないぞ」
「ああ、騒がない騒がない」
 でも急いでるんだがなあ、と若林は急発進するワゴン車の窓越しに置き去りにされてい く自分の車を振り返った。
「――なに!?」
 と、そこで目をみはる。乗用車が一台、若林の車に突っ込みかける勢いの急ブレーキで 止まったのだ。そしてそこから飛び出したのはなんと、カール・ハインツ・シュナイダー ではないか。
 仁王立ちになってこちらを睨みつけ、シュナイダーは何かを大声で叫んでいる。しかし 男たちはそれには反応せず、すべてを無視してサービスエリアを後にした。
「マリー、だって…?」
 視界からその姿が消えた後で若林はそのシュナイダーが叫んでいた言葉に思い当たっ た。
「どういうことだ、あいつ…」
 しかし、身に覚えのない若林にはさっぱりわけがわからなかったのだった。





◆ 





 時差ボケ対策は海外遠征には欠かせない。そのためと理解していても、到着したその日 にいきなり練習――しかも夜まで――という目にあった選手たちは、翌朝もちょっとスト レスを持ち越していた。
「あさってにはもうベルギー出るんだろ。買い物の時間ってないのかな」
「ははーん、彼女に土産を頼まれてるとか?」
 朝食の場でもどうも現実逃避した話題が聞こえてくるあたり、それが窺える。
 でなくても寝起きの悪さでは定評のある若島津がそんな中、無愛想にぬーっとダイニン グルームに姿を見せた。
「おー、若島津、おまえなかなか起きないから先に来ちまったぜ」
 手を振り回して呼んでいる松山のほうへ反射的にふらーっと引き寄せられたのか、同じ テーブルに座る。松山はもちろん、他の者たちもほとんどが食べ終わっているようだ。朝 食後にこのままコーチを加えてミーティングに入るため、食事後も皆残って時間をつぶし ている様子だった。
 若島津はコーヒーを口に運びながら目だけで周囲を見渡した。
「――森崎は?」
「あれっ」
 言われてやっといないことに気づかれるのもちょっと悲しい。
「ああ、そう言えばあいつまだ部屋にいたよ。俺、一応覗いてみたんだ、降りてくる前 に。起きてはいたけどなあ」
 森崎はこの宿舎では一人部屋だった。部屋割りのくじ引きで若林を当てたので、若林が 合流するまでは一人のままなのだった。証言したのは隣の部屋の高杉だ。
 若島津は半分飲んだコーヒーをカタンと置いた。音もなくふらーっと立ち上がる。
「おいおい、それだけかよ、朝メシ」
「いや、森崎を見てくる…」
 ちょっと変わっているという評価が既に浸透しているので、その場の者たちもそれ以上 口は出さずに見送る。声を掛けたのは一人だけだった。
「おまえな」
 カウンターの脇でコーヒーサーバーを手に立っていた日向が前を通り過ぎようとした若 島津をぎろりと鋭い目で呼び止める。
「まだあいつに未練があるのか」
「なんです、未練て」
 日向のカップから立ちのぼる湯気が、二人の間で不気味にうねった。
「……冗談だ」
「そうですか」
 それだけ言ってその場を去っていった若島津を見送りながら、日向は一瞬緊張してしま った自分に気づく。
「いけないねえ、笑えないジョークというのは」
 カップを持ってくるりと向き直ったそこに笑顔が二つ並んでいて、日向はまたもギクリ とする。
「冗談一つにも危険をおかしてしまえるのが小次郎のいいとこだよ。ね?」
「う、うるせえ」
 若島津とは全然別の意味で人間凶器になりかねない三杉と岬の二人は、同じカウンター に積み上げてある追加の果物を取りに来たようだ。
「またいつかのように勝手に消えて行かれては困るな、キーパーが打ち揃って」
「でなくても今は二人きりだしさ。ねえ、翼くん」
 席に戻って来た二人からリンゴとオレンジを受け取りながら、翼はにこにことうなづい た。
「大丈夫だよ。だってキーパーってもともと苦労人だもん」
 そうさせている張本人が断言するのだから間違いはなさそうだ。
「でも、翼の話が本当だったとしたら…」
 そんな会話とはまったく別のところで若島津は階段を上っていた。
「森崎が、辛そうだなんて――」
 指摘されてはじめて気づいた小さな違和感が少しずつ膨らんでくるような、そんな予兆 があった。
 部屋の前まで来てノックをするが返事はない。すぐにドアを押し開けた。
「……あ〜あ、何やってんだ」
 そこには床の上に座り込んで頭だけをベッドにコトンともたせかけて眠り込んでいる森 崎の姿があった。ジャージの下だけ着替えて、上は片腕を通した途中で止まっている。
「おい、起きろ!」
 近寄って肩を揺すぶる。森崎ははっと目を開いた。
「あ、あれっ?」
「おまえ、昨日も練習の休憩中に居眠りしてただろうが。やっぱり何かヤバイんじゃない のか?」
「それは…ないと思うけど」
 またも失態を見られてしまって少々照れたように森崎は立ち上がった。まだどこか目覚 め切っていないようでぼーっとしている。
「こんな時によりによって一人部屋てのは問題だな」
 いっそ自分が代わって同室になったほうが安心か…と考えながら若島津が振り返ると、 さっき起き上がったはずの森崎が今度はベッドの上に横ざまに転がってまた寝入っている ではないか。
「こら、寝るな!」
 引き起こそうと森崎の腕をつかんだ瞬間、若島津は視界全体がぐらりと揺れた気がして 驚く。
「今、何か…?」
 声も聞こえたような。そう思った時には部屋の中が一面霧に包まれたように白く薄れ始 めていた。
「そうか、これは森崎の夢だ。また引っ張り込まれる…!」
 そう思ってもどうすることもできなかった。光だけの白い空間にあっという間に閉じ込 められる。
「おいっ、森崎! こういうのはほどほどにしろって言っただろうが!」
 何の夢を見ているにしろ、巻き込まれる身には自由はきかないし消耗はするし…。
 そう思った途端、ちょうど自分の前がぽっと灯をともしたように明るくなった。その一 握りほどの光が何か形を取り始めているようだ。若島津は一歩近寄る感じでじっとそれを 見つめる。
『にゃー』
「にゃー、だって?」
 唖然とする。
 そう、そこにはふわふわした長い毛の白猫がちょこんと座ってこちらを見ていたのだっ た。





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