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時差ボケ対策は海外遠征には欠かせない。そのためと理解していても、到着したその日
にいきなり練習――しかも夜まで――という目にあった選手たちは、翌朝もちょっとスト
レスを持ち越していた。
「あさってにはもうベルギー出るんだろ。買い物の時間ってないのかな」
「ははーん、彼女に土産を頼まれてるとか?」
朝食の場でもどうも現実逃避した話題が聞こえてくるあたり、それが窺える。
でなくても寝起きの悪さでは定評のある若島津がそんな中、無愛想にぬーっとダイニン
グルームに姿を見せた。
「おー、若島津、おまえなかなか起きないから先に来ちまったぜ」
手を振り回して呼んでいる松山のほうへ反射的にふらーっと引き寄せられたのか、同じ
テーブルに座る。松山はもちろん、他の者たちもほとんどが食べ終わっているようだ。朝
食後にこのままコーチを加えてミーティングに入るため、食事後も皆残って時間をつぶし
ている様子だった。
若島津はコーヒーを口に運びながら目だけで周囲を見渡した。
「――森崎は?」
「あれっ」
言われてやっといないことに気づかれるのもちょっと悲しい。
「ああ、そう言えばあいつまだ部屋にいたよ。俺、一応覗いてみたんだ、降りてくる前
に。起きてはいたけどなあ」
森崎はこの宿舎では一人部屋だった。部屋割りのくじ引きで若林を当てたので、若林が
合流するまでは一人のままなのだった。証言したのは隣の部屋の高杉だ。
若島津は半分飲んだコーヒーをカタンと置いた。音もなくふらーっと立ち上がる。
「おいおい、それだけかよ、朝メシ」
「いや、森崎を見てくる…」
ちょっと変わっているという評価が既に浸透しているので、その場の者たちもそれ以上
口は出さずに見送る。声を掛けたのは一人だけだった。
「おまえな」
カウンターの脇でコーヒーサーバーを手に立っていた日向が前を通り過ぎようとした若
島津をぎろりと鋭い目で呼び止める。
「まだあいつに未練があるのか」
「なんです、未練て」
日向のカップから立ちのぼる湯気が、二人の間で不気味にうねった。
「……冗談だ」
「そうですか」
それだけ言ってその場を去っていった若島津を見送りながら、日向は一瞬緊張してしま
った自分に気づく。
「いけないねえ、笑えないジョークというのは」
カップを持ってくるりと向き直ったそこに笑顔が二つ並んでいて、日向はまたもギクリ
とする。
「冗談一つにも危険をおかしてしまえるのが小次郎のいいとこだよ。ね?」
「う、うるせえ」
若島津とは全然別の意味で人間凶器になりかねない三杉と岬の二人は、同じカウンター
に積み上げてある追加の果物を取りに来たようだ。
「またいつかのように勝手に消えて行かれては困るな、キーパーが打ち揃って」
「でなくても今は二人きりだしさ。ねえ、翼くん」
席に戻って来た二人からリンゴとオレンジを受け取りながら、翼はにこにことうなづい
た。
「大丈夫だよ。だってキーパーってもともと苦労人だもん」
そうさせている張本人が断言するのだから間違いはなさそうだ。
「でも、翼の話が本当だったとしたら…」
そんな会話とはまったく別のところで若島津は階段を上っていた。
「森崎が、辛そうだなんて――」
指摘されてはじめて気づいた小さな違和感が少しずつ膨らんでくるような、そんな予兆
があった。
部屋の前まで来てノックをするが返事はない。すぐにドアを押し開けた。
「……あ〜あ、何やってんだ」
そこには床の上に座り込んで頭だけをベッドにコトンともたせかけて眠り込んでいる森
崎の姿があった。ジャージの下だけ着替えて、上は片腕を通した途中で止まっている。
「おい、起きろ!」
近寄って肩を揺すぶる。森崎ははっと目を開いた。
「あ、あれっ?」
「おまえ、昨日も練習の休憩中に居眠りしてただろうが。やっぱり何かヤバイんじゃない
のか?」
「それは…ないと思うけど」
またも失態を見られてしまって少々照れたように森崎は立ち上がった。まだどこか目覚
め切っていないようでぼーっとしている。
「こんな時によりによって一人部屋てのは問題だな」
いっそ自分が代わって同室になったほうが安心か…と考えながら若島津が振り返ると、
さっき起き上がったはずの森崎が今度はベッドの上に横ざまに転がってまた寝入っている
ではないか。
「こら、寝るな!」
引き起こそうと森崎の腕をつかんだ瞬間、若島津は視界全体がぐらりと揺れた気がして
驚く。
「今、何か…?」
声も聞こえたような。そう思った時には部屋の中が一面霧に包まれたように白く薄れ始
めていた。
「そうか、これは森崎の夢だ。また引っ張り込まれる…!」
そう思ってもどうすることもできなかった。光だけの白い空間にあっという間に閉じ込
められる。
「おいっ、森崎! こういうのはほどほどにしろって言っただろうが!」
何の夢を見ているにしろ、巻き込まれる身には自由はきかないし消耗はするし…。
そう思った途端、ちょうど自分の前がぽっと灯をともしたように明るくなった。その一
握りほどの光が何か形を取り始めているようだ。若島津は一歩近寄る感じでじっとそれを
見つめる。
『にゃー』
「にゃー、だって?」
唖然とする。
そう、そこにはふわふわした長い毛の白猫がちょこんと座ってこちらを見ていたのだっ
た。
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