a cup of day 4−1                              







 ≪4≫ 





◆ 





「306号室があの猫の住まいだったわけですか?」
 剛さんに声を掛けられても、アパートの所有者カウフマンはまだぼんやりとしたまま で、まだショックから立ち直れない様子だった。目だけが泳ぐようにドアに向けられる。 「――サバランが、あの猫が戻って来るはずは…」
「カウフマンさん?」
 助け起こす手に、カウフマンはようやく我に返ったようだった。そして驚いたように剛 さんを見返す。まだ顔色が悪い。
「ここが無人になる前ってことですね」
「…そう、10年前だ」
 うなづいてから、カウフマンは何かためらうふうだった。
「この部屋に、一人暮らしの女が猫と住んでいた。だが女はその後死んだし、猫も死んだ んだ、確かに!」
「猫って言っても似てるだけかもしれませんよ」
 ジノがそう口をはさんだが、所有者は頑固に首を振った。
「いや、あの窓を開けて出て行くのをあんたたちもさっき見ただろう。あの芸当はサバラ ンだ。一ヵ所だけ止め具が緩い窓があるのをあいつは知っていて、子猫の頃から必ずそこ から出入りしていた。まさにあの窓だ」
「10年ね。猫の寿命としてはありえない数字じゃないけど」
 ジノがつぶやく。その横から剛さんが切り出した。
「その女性と猫については興味深い話が聞けそうですね、カウフマンさん。あなたの長年 の作り話よりずっと」
「えっ…!?」
 カウフマンは絶句した。剛さんはその反応を見て深々とため息をついてみせる。
「やっぱりそうかぁ。せっかくの企画だったのにいきなりボツじゃヘコむなあ」
「作り話…!?」
 ジノは目を見開いて剛さんとカウフマンを交互に見やった。ヘフナーも黙って腕を組 む。
「動揺しているところにつけ込んで誘導尋問とは、ゴーも悪党だな」
 昨日からの怪しい態度から推察して何かあるのはわかっていたものの、推察を通り越し た大胆な当てずっぽうでカウフマンがここまで顔色を変えるとは、けっこう近い線を突い ているということだろう。
「日本人留学生と娘の幽霊って話、こっちはあなたが10年前にわざと流した噂だったん だ。アパートの住人がそれに怯えて逃げ出すようにか、それともアパートの評価額を下げ て自分が買い取りやすくするのを狙ってか…」
「――両方だ」
 剛さんの言葉を呆然と聞いていた所有者は、やがてがっくりとうなだれた。
「噂はあった。幽霊のじゃなく、私が聞いたのは全然別の噂だ。それを知ってぜひここを 買い取らねばと思ったんだ――どんな手を使ってでも」
「そっちはあまりロマンティックな話じゃなさそうですねえ」
「おまえは黙ってろ」
 日本、ドイツ、イタリアという奇妙な組み合わせの3人を前に、カウフマンはしぶしぶ と口を開いた。
「昔、小さいメッキ工場を経営する男がこのアパートに住んでいたことがあって――」
 所有者が話し始めたのはある盗難事件だった。いつも借金に追われていたその男が、あ る時を境に急に羽振りが良くなり、借金は全部返すわ郊外に家を買うわで周囲が怪しみ出 した矢先に逮捕された。仕事の依頼先のカジノに出入りしていた間に、そこの金庫から金 塊をくすねていたと言う。盗んだ分は鋳溶かしては使って、逮捕された時には全部使い切 った後だったとされたが、一方ではまだかなりの金が隠されているのではないかという噂 が立った。カジノ側もどうやら裏社会の収入が絡んでいて肝心の被害額があいまいだった のが噂の元だった。もちろん警察も周囲の人間も血眼になったが結局何も見つからずじま いで、男が服役中に病死してしまった後はすっかり忘れ去られていたと言う。
「が、私は噂を耳にした。その男がここに住んでいた頃に親しくしていた女性がいて問題 の金塊はその女性に与えたか預けたかした可能性があるというんだ。だが表立って探せば また騒ぎになる。住民がみんな出て行ってしまえば思うままに探せると踏んだんだ」
「で、幽霊の噂をでっち上げてまんまと追い出したわけですね。でもその様子だと見つか ったようには思えませんねえ?」
 剛さんにそう指摘されてカウフマンはぐっと詰まった。さらにジノもたたみかける。
「見つからないならそれで諦めるところを、10年もこのままにしてるってのも変じゃな いかなぁ」
 カウフマンの顔がますます渋くなったその時、彼らの会話をさえぎるかのようにゴトン という重い物音が響いた。全員の視線が一つのドアに集まる。
「この部屋の中から、じゃなかったかな?」
 耳を澄ませるがそれ以上は物音は聞こえて来ない。剛さんはカウフマンに向かって手を 伸ばした。
「鍵、お持ちですよね。中を見せてもらえますか」
「――い、いや、それは」
 じりっと後退りしようとして、背後に立つヘフナーにどしんとぶつかる。所有者は肩を 落とした。諦めたようにポケットから鍵束を引っ張り出す。
「おーっ、こいつはすごいな」
 306号室のドアが開かれた瞬間、彼らは感嘆の声を上げた。撮影のために使った他の 部屋と造りはだいたい同じはずなのだが、ここはまったく様子が違っていた。家具もすべ て残されていて、つまり人が住んでいた当時のままになっていたのだ。
 彼らを驚かせたのはそれだけではない。台所と居間を兼ねたその部屋は、棚という棚に テーブルや暖炉の上に至るまでぎっしりと多数のトロフィーで埋め尽くされていたのだ。 「なんですか、これは。これがその女性の住んでいた部屋なんですよね」
 10年近く誰も住んでいなかったにしては人の出入りしている気配が感じられる。特 に、一部のトロフィーやカップはまだ新しいようで結ばれたリボンやパネルには最近の日 付が入ったものまであった。
「ああ、さっきの音はこれが床に落ちた音だったんだ。ねえ、カウフマンさん、あなたは 最初この部屋にいたんですね。俺たちが上がってくる物音を聞いてあわてて出ようとし て、その時触っていたトロフィーを不安定な形で置いたかなにかしたんじゃないかな。そ のせいで今頃倒れたんだ」
 床に転がっていた大きなトロフィーを拾い上げて、剛さんはそれを丸テーブルの上に置 いた。そうして室内をしげしげと眺める。
「で、このたくさんのトロフィーは誰のものなんですか?」
「……」
 カウフマンは力なく息を吐いた。ここまで踏み込まれては誤魔化しきれないと思ったの だろう。
「作ったのはメッキ工場の経営者、デザインを任されていたのがここに住んでいた女。そ して所有者は――バラバラだ」
「ふうん」
 剛が笑顔になる。
「さっきのお話にはまだ続きがあるようですね。聞かせてもらえますよね? せっかくは るばる日本から来たのに空振りじゃあんまりですもん。心霊紀行が二時間サスペンスにな っちゃってもいいから取材だけはしとかないと。『血塗られた愛憎劇・ラインの黄金連続 殺人事件!!』ってね」
「おいおい」
 日本のテレビ事情に詳しくなくても、剛さんのこの悪ノリぶりはヘフナーにもよく伝わ っていた。ちなみにラインの黄金とはワーグナーの楽劇に登場する神話の秘宝である。
「さ、殺人だなんて! 断じて違う!」
「まあそれはさておき」
 こちらはそんな剛さんの性格も知らない上にそれを察する余裕さえない男だった。ジノ が楽しそうにそれをなだめている。
「幽霊って言っても殺されたとは限らないよね。要は恨みある死に方をしたかどうかで。 女性のほうか猫のほうか、どちらにしても」
 カウフマンはその言葉にびくっとしたように身を固くして部屋をゆっくりと見回した。 さまざまな形のトロフィーが無言のまま彼らを取り囲んでいる。普段は締め切ったままの 室内はいぶされたようなホコリ臭さに満ちて、薄暗い中で静まり返っていた。
 廊下に、その時何かが近づいてくる音が響いた。コツ、コツ…と足音のような。
「――おや?」
 3人が顔を見合わせたのと、カウフマンが顔色を変えて部屋を飛び出したのが同時だっ た。もちろん彼らも野次馬としてすぐにその後を追う。
「まさか――あんたか、ローザ!」
 階段の吹き抜けの向こう、薄闇の中にその影はあった。天窓からの淡い逆光がベールの ように視界を遮ってはっきりとしないが人の姿なのは間違いない。ゆらりと揺れて、その 手からストンと白い猫が床に降りた。聞き覚えのある鳴き声。
 カウフマンはその時にはもう突進していた。
「危ない!」
 止めようとしたが、カウフマンはパニックを起こしていた。階段に逃げようとして踏み 外し、転がり落ちる。体が手すりに引っかかったかっこうで跳ね返り、下の階の廊下に落 下した。
「大変だ!」
 覗き込んで下の様子を確認し、一応無事らしいことに安堵する。
「…あ、あの〜」
 彼らの前で棒立ちになっていたのは撮影クルーの一人だった。
「猫が、下の部屋に紛れ込んで来たんで連れて来ただけなんですけどぉ〜」
 あまりの事態に半ベソ状態になっている。
「ああ、君のせいじゃないから、大丈夫。…なんだ、おまえも撮影を見たかったのか?  ん?」
 剛さんは寄って来た猫を抱き上げると笑顔を見せた。それからカウフマンが足をさすっ ているのを見てスタッフに救急車を呼ぶように指示する。
「骨折ということはないようだけど、気の毒だから病院で休んでてもらおう。見張り付き でね」
「おまえがあんな怪談じみたことを言うからだ」
 ヘフナーがジノを睨んだ。ジノも負けていない。にっこりと猫を見やる。
「君だって、この子が10才以上になんて見えないってこと黙ってたじゃないか。死んだ はずの猫が現われたとしか思えないようにって」
 どっちもどっちである。
「そのほうが口が滑らかになると思ったんだよな。ちょっとやり過ぎになっちまったけ ど。それに話も途中になったのは残念だなぁ」
 さらにもう一人も悪びれずに話に同意する。抱いた猫を撫でてやりながら二人に歩み寄 って来た。
「メッキ加工と見せかけて純金のトロフィーを一つ作ったってことなんだね。そいつを見 つけるために、その工場製作のトロフィーを各地から手当たり次第に集めてきてたってわ けか」
「純金のトロフィーねえ」
 ふう、とため息をついたジノである。
「まるでワールドカップだ。あの、永遠に消えてしまったジュール・リメ杯の逆バージョ ンかな」
 ヘフナーもその言葉にうなづく。ワールドカップの優勝国に授与されるカップは現在二 代目。初代のカップはジュール・リメ杯と呼ばれていたが、1970年大会で3度目の優 勝を果たしたブラジルが永久保持できることになった。しかし本国で盗難に遭い、犯人は 捕まったもののそれきり行方が知れなくなってしまった。18金製のカップはおそらく鋳 溶かされてもうこの世には存在しないはず、と言われている。
「問題は、彼一人の計画じゃないってことだね。おそらくかなりの人数が係わっている。 彼はむしろほんの下っ端だな」
 剛さんは聞こえてきた救急車のサイレンに窓の外を覗きながらつぶやいた。
「それだけの年月に各地に売られていったトロフィーを全部また集め直すなんて簡単なこ とじゃないよな。アパートの裏口がいつも開けてあったのも、仲間が出入りできるように だったんだろう」
「さっきだが」
 剛さんが先に下りていったのを待って、ヘフナーはジノを呼び止めた。
「猫を連れた人影、本当にあのスタッフだったか? 何か、別のニオイを感じたんだが。 姿を見せたあの時だけ」
「――どういう意味だい?」
 ジノも意味ありげな表情を見せた。
「あの一瞬だけ、生身の人間じゃなく本物の幽霊だったとでも?」
「さあな」
 ヘフナーはそれ以上は何も言わず、階段を降り始める。ジノはそれに並んだ。
「でも一つ教えてあげるよ。306号室で倒れたトロフィーの音、あれ僕がやったんだ。 カウフマンさんに部屋の中を見せてもらうためにね」
「…おい」
 ジノ・ヘルナンデスの隠された能力。それがサイコキネスだったことを今思い出す。
「呆れたヤツだ」
 それは今回に限り、褒め言葉だったようだ。





<< BACK | TOP | NEXT >>

MENU