a cup of day 4−2                              






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「やれやれ、一体どこへ連れて行かれるんだ?」
 意識がふわふわと溶けていく中で若島津はそんなことを考えていた。こういう目に遭う のが初めてでないだけにパニックは起こさない。それはいいことなのか悲しむべきか。
 森崎の夢に、またはその無意識の中に引き込まれてしまったらしい、と若島津は考え る。共鳴、といつか若林が言っていたが、自分と森崎の間ではどうやらそれが起こりやす いらしい。だがそう教えられても、だからどうなんだと言うしかない。原因も対策も自分 では立てられない以上。
「俺の予知夢と同じってわけか」
 自分ではコントロールできない特殊能力。便利どころか厄介でしかない気がする。そ う、ちょうど自分の感情を持て余すのと似ている。
『こっちおいで』
 何か聞こえなかったか? 若島津はそう思って周囲に注意を向けた。さっきから森崎を 探そうとしているのだが、今の声はどうやら森崎ではなく、聞いたことのないものだっ た。
 あいまいなイメージのようなものが彼の周りで交錯している。明るくなったり暗くなっ たり、クラクションが遠くに聞こえたかと思うと大きな猫がこちらに駆け寄って来たり。 「猫? そうだ、猫だ」
 ここに来て最初に見たのが猫だった。見覚えのない白猫。しかしそれでも何か記憶に引 っかかるような気もした。
『さあ、そこは危ないよ。おいで』
「…誰だ、あんた」
 声はするが何も見えない。そう思った時には体が強い力に引っ張り上げられていた。抵 抗しようとするが自分自身の体に実感はなく、その声もまた頼りなげに遠のいていく。
 代わりに、意識を包み込むような柔らかな圧力を感じた。懐かしくて心地よい香り。若 島津はそれが誰か「人」だと直感した。ここに、確かに誰かがいる。
 あなたに会いたい、愛するあなたに、もう一度だけでも――。
 それは言葉ではなく、直に光を浴びるように体にしみこんでくる感情だった。愛しく、 そして悲しい想い。
 そう感じた次の瞬間、若島津の意識はその気配から引き離された。まさに力づくで。
 視界がやたらとぐるぐる回る。と思ったらそれははっきりと焦点が合って一つの風景を 形づくる。室内だ――壁と天井が動いている。いや、動いているのは自分のほうか。
「今度は何だ…?」
 世界が抽象から現実へと、唐突に具体化した気分だった。
『よーしよし』
 その声はまさに「言葉」だった。聴覚を通して直接脳まで届く。若島津はそしてその声 に覚えがあることに気づいた。首をそちらに向ける。と、そこには――いきなり顔があっ た。
 すごく、すごくすごく知っている顔だった。
「に、兄さんっ!?」
 若島津剛さんの屈託のない笑顔がすぐ目の前で自分を覗き込んでいる。
 悪夢だ――。
 自分がその兄の腕に抱き締められていることに気づいた瞬間、若島津は意識が真っ白に なりかける。いっそそうなったほうが幸せというものだった。
 が、続いてそんな彼の目にもっと驚くべきものが映った。剛さんの側に立って会話をし ている二人――それはあのグスタフ・ヘフナーとジノ・ヘルナンデスではないか。
「た、助かった…のか?」
 反射的に安心しかけた若島津だったがどうも何かおかしい。こういう事態において事情 をわかってくれる仲間であるはずの彼らなのに、こちらには一向に気づいていない様子な のだ。剛さんとしきりに言葉を交わしているのだが。
「トロフィー? そんな話はいいから、おい、ヘフナー、ヘルナンデス! 俺がわからな いのか!」
 叫んでみるが二人は反応しない。代わりに剛さんがまたぎゅっと抱き締めてさらに頭ま で撫で回されてしまった。完全に力が抜ける。
「なぜ話が通じない。目の前にいるのに。…もしかして、テレパシーでないと無理だとで も?」
 そうなると別口の助けが必要ということになる。あまり進んで接触したくない相手だ が、気を取り直してこちらを試してみることにする。
「若林、聞こえるか、聞こえるなら返事しろ! この悪夢から抜け出したいんだ!」
 ギリギリの妥協ということになる。ここがベルギーなのかドイツなのかははっきりしな いがヘフナーたちがいる場所なら、どちらだとしても若林もそう離れてはいないと踏んだ のだ。
「あれっ――?」
 しかし救いの手は思わぬ方向から差しのべられた。
 叫ぶと同時にまたぐるりと視界が一転する。そしてそこに別の顔が現われたのだ。
「森崎…か?」
「大丈夫、若島津?」
 不思議そうな、そして心配そうな表情が彼を見つめている。それが今度こそ実体である と気づいて、若島津は思い切り安堵の息を吐いた。
 森崎の背後に青空と日光がある。そして風の音、芝の感触…。
「え、ここ…グラウンド!」
「若島津、どこか打った? 平気?」
 自分が地面の上にいることがわかって若島津は目を見開いた。サッカーのグラウンド。 ウェアを着てグラブもはめて、そして腕にはボールも抱え込んでいる自分。
「何やってんだよ、おめえはよ」
 森崎の肩越しに別の顔が近づいてきた。やっと起き上がった若島津を見下ろして不敵な 笑みをよこす。
「俺のシュートを端から止めやがって、挙句にひっくり返ってんじゃねえよ。頭に来る ぜ」
 そう言って若島津の手からボールを取り上げると、回れ右してドリブルして行ってしま う。一応心配はしてくれたらしい。
「今日の若島津、すごいよね、ずっとこの調子だもん」
「特に今のは人間離れしてたよ、あの高いジャンプにあのじゃれつくみたいなキャッチの しかた。猫そっくりだったね」
「うん、バク宙着地するし猫パンチするし顔洗うし…」
 こちらは完全に野次馬だった翼と岬である。やはりドリブルしながら隣のピッチへと戻 って行く。どうやら何グループかに分かれてミニゲーム練習だったようだ。立ち上がった 若島津を見て森崎も安心したように側に立った。
「休まなくていい?」
「――俺は、どうしてたんだ?」
 見上げれば日は高い。朝、森崎の部屋に行った後の記憶が完全に消えている。これはシ ョックだった。
「どうって、練習中じゃないか。今、キャッチしたはずみに倒れたけど。どこも痛くない なら大丈夫だな」
 森崎はにっこりして自分のゴールに戻って行った。朝、あの後どうなったのだろう。部 屋で眠りこけていた森崎。そしてその眠りに引き込まれたはずだった自分。
 しかも、である。
「猫そっくりってのは何だ」
 むっとした顔で、若島津はゴール前に立ち尽くした。





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