a cup of day 5−1                              







 ≪5≫ 





◆ 





 午前の練習がようやく終わり、代表チームの面々は食事に引き上げてきた。
「なあ、松山」
「ああ?」
 ロッカールームの水道でざぶざぶ顔を洗っていた松山がそのまま振り返った。水しぶき が跳ね上がる。
「部屋を替わりたいんだが、いいか?」
 若島津が横に立って、ぼそりと言った。
「森崎の部屋に行きたいんだが」
「俺は全然構わねえけどよ」
 手を伸ばしてタオルをつかみ、松山はごしごしと顔をぬぐった。
「日向のやつが何て言うかだな」
「え?」
 思わぬ名前が出てぽかんとする。松山はそれをにやりと見やった。
「朝、俺に部屋を替われって言ってきてたからな。おまえが心配なんじゃねえのか。いつ もに増してぼーっとしてっからよ」
 失敬な。松山も日向も。そう心の中で舌打ちしてから、若島津は急いで頭を巡らせた。 「今夜だけだから日向さんのほうは気にしなくていい。どうせ明日は移動だし」
「おう」
 それだけで納得したらしく松山は走って行ってしまった。せっかちというより単純なだ けか、とそれを見送りつつ若島津は考えた。そういうやつから見れば自分がぼーっとして いるように見えてもしかたないのだろう。
「日向さんは心配ってよりも警戒してんだ、どうせ」
 そうつぶやきながら着替えにかかる。確かにちょっと行動が遅れがちかもしれない。他 の選手たちは次々と着替えてはダイニングに消えて行き、すぐに彼一人取り残されてしま った。
「――え?」
 新しいシャツからすぽっと顔を出した時、若島津は背後に誰かの視線を感じた。見れ ば、ロッカールームの開いたままのドアの前に現地の人らしい中年女性が立っている。
「あ、呼びに来てくれたのか。――すみません、すぐ行きます」
 一応英語で声を掛けて若島津はドアまで駆けて来た。宿舎の職員かと思ったのだが、そ れにしては制服を着ていない。
「あの…?」
「お願いしたいことがあります」
 母親より少し年配くらいのその女性は、なんと日本語を口にした。たどたどしくはあっ たが正確な話し方である。
「ゴー・ワカシマヅの依頼で、来ました」
「はあ」
 がくんと力が抜ける。兄がドイツに来ているらしいことは今朝の夢でもわかっていた。 あれが夢であるとして、だが。
「一緒に来ていただけますか?」
「でも俺はこっちの――サッカーの遠征中で勝手に抜けるわけには…」
「許可はいただきましたから。それにすぐに終わります」
 まっすぐに真剣なまなざしを向けてくるこの女性に、若島津はふと覚えがあるように思 った。
 どうしても思い出せないのがもどかしい。
「来ていただけますね」
「――おーい、若島津」
 その直後、待ちくたびれた日向が呼びに戻って来た。
「…おい?」
 しかしそれはすれ違いとなってしまったのだった。






◆ 





「この先キーパーは1人でやっていくってわけかよ!」
「…ごめん」
 つい謝ってしまう森崎だった。若島津の行方も何も知らないのは彼も同じだったのだ が。
「まあそう暴れずに」
 そう日向をとりなしながら三杉はコーチ陣のほうを見やる。監督の見上は苦笑気味にう なづいた。
「確かに、家族から緊急の呼び出しがあって…という連絡はあったそうだ。受付の係員に よると。私は後からそれを聞いたからねえ、何とも困ったことだが」
「家族から緊急でって、まさかお姉さんの出産のこととか?」
「それなら若島津じゃなく森崎を連れてくはずだろ。こっちのほうが当事者なんだし」
 囁き合う声に森崎は不安そうに顔を上げた。実はさっき、この話を聞いて急いで大学の ほうに問い合わせたのだ。しづさん本人とは話せなかったが、体調に異常もなくいつも通 り元気に研究室にこもっているとの確認は取ってある。
「じゃあ山ごもり特訓か何かに行っちまったとか? 若林さんが合流する前に勝負に備え て…」
「まさかぁ、日向さんならともかくあいつはそこまでマメじゃないよ」
 同じ東邦出身者としての反町の証言だったが、当の日向に睨まれてすぐにこそこそと人 の陰に隠れてしまった。
「ああ、そうだ…」
 午後の練習は30分遅れで始まった。一人でキーパー用ウォーミングアップをしながら 森崎がふと思いついて手を止める。なぜ忘れていたんだろう。
「若林さんに頼めば『連絡』がつくんだ」
 普段はその能力を使う機会もないだけに思いつくのが遅れたらしい。まして、向こう側 で若林がその森崎からの通信をじりじりして待っていることなど知る由もなかった。
『若林さん――返事してください』
 目を閉じて、心の中で呼び掛ける。
 その通信が、時間軸の歪みに入り込んでさまざまな影響を与えるとはもちろん思いもせ ずに。







◆ 





「あ、グスタフ、おかえりなさい。ジノ叔父さんは?」
 子供部屋は一度まるごと逆さにして振り回したとしか思えない散らかり方だった。
 アパートから戻って来ると弟たちは暇を持て余していたさなかだったようで、ヘフナー はまた大歓迎を受ける。
「静かにしてろ。トビアスはまだ具合が悪いんだ」
 両腕にそれぞれぶら下がっている上の二人を軽々とベッドに運び、無理やり毛布の中に 押し込める。
「おとなしくできるなら、いいものを見せてやるから」
「なに、なに!?」
 小さなクルト、ユールが目を輝かせた時、ジノが部屋に入って来た。トレイに昼食のス ープパスタと白身魚、それに薬びんが載っている。
「はい、これを食べて薬も飲んだらお客さんが来てくれるからね」
「お客さん?」
 朝よりさらに食欲が増した様子で弟たちは昼食を口に運ぶ。楽しみが待っているなら余 計にだろう。
「ああ、来た来た」
 ヘフナーが薬を飲ませている間にジノが窓から庭を見下ろして声を上げた。下に向かっ て手を振っている。
「こんにちは」
 しばらく待っていると階段を上ってくる音がして、ドアから剛さんが顔を出した。
「はじめまして。僕の連れと会ってもらえるかな」
「わーっ、あの子だ! あの猫だよ!」
「ほんとだぁ!」
 剛さんが腕に抱いた猫を見るなり二人は歓声を上げた。ベッドから飛び出しかけたのは ヘフナーに止められたが、それより先に剛さんが二人の前にやってくる。
「なでてもいい?」
「驚かせないように、そっとね」
 ジノもにこにこと覗き込んだ。
「サバラン、って呼んでごらん」
「そういう名前なの?」
「それで合ってるか、確かめないと」
 剛さんの手からベッドの上に下ろされた白猫は、ちょっときょろきょろしてから弟たち に歩み寄った。なでられても嫌がる様子はない。クルトの膝の上に乗ってごろごろと喉を 鳴らし始めた。
「サバラン? 返事してみて」
 猫は寝そべったままふさふさとしたしっぽをゆったり左右に振った。ジノはヘフナーを 振り返る。
「ほらね、サバランでいいみたいだよ」
「――名前も同じで芸も同じ事ができる。見た目もたぶんほとんど変わらないんだろう、 カウフマンが見間違えるくらいに」
「それでも別の猫だって言うんだね、グスタフ」
「ああ、年齢が違う」
 ヘフナーは目を細めて、弟たちに抱き締められている猫を見つめた。
「おそらく子供か、あるいは同腹の一族だな」
「そこまで言い切れるんだ。さすがはプロ」
 剛さんが目を丸くした。獣医にはまだなっていないヘフナーをそう呼んでいいかどうか は疑問だが。
「じゃあ俺は撮影に戻るよ。その子は出番になったら迎えに来るからそれまで可愛がって てくれ。大事なヒロインだからね」
 ハプニング続きで撮影のスケジュールも狂いっぱなしに違いない。しかしそんなことで めげる若島津剛ではないらしく、張り切ってアパートに戻って行った。
「で、さ」
 交替で猫をベッドに入れている子供たちを横目で見ながらさっそくジノが切り出した。 「さっきのワカバヤシの話、どう思う? やっぱりこっちのと同じクチなのかな」
 トロフィーの連続盗難などというのはそうあることではないだろう。小さな工場で1年 足らずの間にどれだけのトロフィーやカップ類が造られたか――それがヨーロッパ各地の どこに売られて行ったか、カウフマンとその共犯者たちは読み切れていなかったのだ。ア パートを買い取って捜索の拠点としてから十年が過ぎ、なのにまだ見つかっていない。
「カウフマンの共犯者がどこにいるのかわかっていないからな。ここが盗品の保管場所に なっているのは確かだが、アジトではない。それが国外である可能性も十分ある」
「盗まれたハンザカップが運ばれるはずだった所がそうかも、だね」
「もう1回あの男を締め上げてしゃべらせたほうがいいな」
 病院に運ばれたあの男である。剛さんの報告ではやはり片足を捻挫していたようで、あ と全身打撲でしばらくは動けないとの話だった。
「怪我もだけど、あのショックの受け方は相当だったね。あそこまで幽霊に怯えるってこ とはまだ何か隠してることがありそうだな。ローザってあの時呼び掛けてたけど…。あの 部屋に住んでた女性の名前かなあ」
「まったくとんだ幽霊アパートだ。こいつらの親父も厄介な所に家を買ったもんだな」
 あくまで自分の親でもあることには触れたくないようだった。そんなヘフナーにジノは 笑顔を向ける。
「でも、おかげでこうして楽しめてるんだから、ギュンターに感謝しようよ」
 やなこった、という表情を返して、ヘフナーは白猫のサバランに目をやった。今はユー ルの枕元で丸くなっている。
「ほんとによく慣れてるやつだ。誰に対しても警戒しないようだな。ただ、あの時だけは ――」
 ヘフナーが思い出したのは、カウフマンがパニックになった直後の、あの廊下に連れて 来られた時の猫の様子だった。
「ゴーに抱かれてしばらくはやたら神経質になっていた。毛を逆立てて。あれはどういう わけだったんだろう」
 ほんとに、どういうわけだったのだろうね。





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