a cup of day 5−2                              






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「いったい兄貴は今度は何をやろうとしてるんだ」
 女性に案内されて乗ったタクシーの中で、若島津はどんどん不機嫌になっていった。
 日本の芸能界に戻って以来、剛さんはまさにマルチタレントとしてドラマからバラエテ ィー、時にプロデュースや企画にまで手を伸ばしていた。剛’sクルーの再結成アルバム の時の騒動を最後に、弟を巻き込むようなことも特になく、彼にとっていい意味で平穏な 関係が続いていたのだ。
「これが脚本です」
 そんな若島津に、走る車中で女性は1冊ならぬ1枚の紙を渡した。
「えっ、脚本って…。それに、これだけ!?」
「15分ほどの再現ドラマです。あなたの台詞は2ヶ所だけですから、今からでも覚えら れますよ」
「いや、そうじゃなくて…」
 誰が俳優なんてOKするもんか、と直接本人に怒鳴りたい気分だったろうが、このドイ ツ人コーディネーターさん相手にはそうもいかない。
「第二次大戦前の古めかしい感じ、あなたならうまく出せると思いますよ。それにモデル にもよく似てらっしゃいますし」
 冷静で折り目正しい日本語で語られると、どうにも反論がしにくかったりする。なんと か逃れる方法はないものかと、今さらながら焦っているのだが。
「ロケ先はケルン市内のアパートです。あと1時間少々で着きますから」
 その静かな声を聞きながら少しうとうとしたらしく、若島津がはっと目を開くとタクシ ーはもう市街を走っていた。ベルギーからドイツへの移動と言ってもやはり出入国審査す らなく、噂通り隣町へ行くくらいの感覚なのか。
 タクシーを降りると、そこは静かな通りだった。煉瓦造りの黒ずんだ建物が通りに沿っ てどこまでも連なっている。いつの間にか小雨が降り始めていて、時刻のわりには薄暗く 感じられた。
「すみません、先に上がっていていただけますか。3階です」
「はあ」
 ホールに入ったところでコーディネーターさんと別れて一人で階段を上がる。この上に 剛兄が待っているのかと思うと少し気が重かったが。絶対に嫌だと思いながらも断ること ができずにここまで来てしまったことがずしーんと自己嫌悪になる。
「変だな、ほんとにここか?」
 言われた通りに3階に上がったがしーんとするばかりで人気はまるでなかった。階段の 吹き抜けをもう一度覗いてみても、途中の階も含めて誰もいる様子がない。
 もしやどこかの部屋の中かと思い、廊下を先に進んでみた。古めかしい窓が風に揺れて いるのかカタカタと鳴っている。
「あれは…?」
 その廊下の先に小さな白いものが見えた。足を止めるとそれはもぞもぞと動き、こちら に向かってにゃーと声を上げる。猫だった。
「どこかで見たぞ、この猫」
 この猫も撮影に関係あるのだろうかと思った時、一つ向こうのドアが開いた。中から出 て来たのは若い女性だった。若島津を見てはっと驚いた顔をする。
「あなた、どうしてここに! もう帰って来てくれないかと思ってたのに…」
 女性の口から震える声が漏れた。ぽかんとしていた若島津は、それがさっき見せられた 脚本の台詞であることに気づいてあわてて自分の台詞を思い出そうとした。
 でも、いきなり始めるってどういうことなんだ、と訝る。これはリハーサルか何かだと いうのか…。
「――そうだよ、帰って来たんだ」
 我ながら棒読みだと思いながらも自分の台詞を言う。相手の真剣な表情に思わず引き込 まれた形だった。
「君に言わなくちゃいけないことがあったから、ローザ」
「……」
 女性がたまらずというようにこちらに駆け寄ろうと動いたその時、その姿がなぜかいき なり霞んだように見えた。
 いや、彼女だけではない。廊下も、その他の光景も、すべてが薄闇に溶けていく。
「おい、やめろ…!」
 今朝の現象を思い出して若島津は必死に抵抗しようとした。が、叫んだつもりのその声 すら出せないままに、再び悪夢に閉ざされていったのだった。






◆ 





「な、なんだ!?」
 全身が総毛立つ感覚が若林を襲った。走り続けるワゴン車の座席で思わず目を見開く。 デュッセルドルフ方面、と記された青い標識が視界の端を過ぎていくのを見ながら、若林 はかろうじて意識を現実に繋ぎとめた。正体のわからない大きな力の波。そのことがつま りそれが何であるか、半分は物語っていると言えた。
「こいつらには全然伝わっていないってことは、やっぱり…」
 この不本意なドライブ旅行のパートナーとなっている二人の男を反射的に見やってその 反応を確認する。シュナイダーの悪鬼のような追跡もようやく振り切ることができて後は 目的地を目指すだけとばかりに安心している様子だった。若林がとっくに縄などほどいて しまっていることにさえ気づかずに、無抵抗な人質だとすっかり油断してしまっているの だろう。
「あいつらに――何かマズイことが起きたのか?」
 ずっと連絡が取れないまま、というだけで既に異常事態なのだ。そして彼らにだけ共鳴 する衝撃波がここに届いたということは、その二人との関連を疑わざるを得ない。
 まだ余波が残っている。若林は再び目を閉じて相手の波長に合わせるべく意識を集中さ せた。――何かが、見えてくる。
 無意識という空間。そこに踏み出す。
 若林の前に静けさが広がった。音のない、そして正体のわからない不安定な力の揺らぎ だった。
 ゆっくりと回る渦。
 無意識の世界を何か危うい力が支配している。危険、と若林は直感した。近寄ってはな らない、と。
『――答えてください…答えて…答えてください…』
 声が呼んでいる。揺れて、ぶれて、重なりながら、その声は若林を呼び続けていた。
『若林さん…答えて……ください』
「森崎か!?」
 渦の向こうに人の影のようなものがあるのを若林は見た。顔もわからない不確かな影。 が、それが誰なのか若林にはわかった。
「くそ……」
 だが若林は近寄れなかった。あまりに強大で危険なその渦を前にただ立ち尽くす。
 声は途切れつつもその渦から聞こえ続けていた。
 必死に呼べば呼ぶほどそれが影響を及ぼしていく。この空間に、時間に。
 おそらくこの向こう側にいる森崎はそうとは知らずにこの歪みを作り上げているのだ。 若林は自分からも声に応えようと呼び掛けるが、やはりそれに対する反応はない。
「いろいろ呼び寄せちまってるな」
 渦は何もかもを巻き込み内側へと引きずり込む。はっきりとは見えないが、森崎以外に もさまざまな人影がいくつも浮かんだり消えたりしているようだった。
「――てことは、あいつもいるかも」
 そう、森崎ともっとも共鳴しやすいあの男。若林は相手の周波数に意識を定めて再びテ レパシーを試してみる。
『にゃー』
 呼んだ若島津の代わりに妙な返事があった。大きな白い猫の姿がぼんやりと通り過ぎて 消える。
「何だ? 若島津はどうしたんだ。この猫、いったい…」
『サバラン、どこなの? こっちにいらっしゃい』
 少し離れて別の声が重なった。若い女性の声だ。目をこらすと古めかしい服装をした女 性の影が見える。不安そうに、何かを探している姿…。
 それがさっと宙に消えると、今度は一度にたくさんの気配が混ざった。どれも見覚えの ある顔で、若林は唖然とする。
「えっ、マリー!? ――それにこっちはシュナイダーじゃないか。それにしづさんに剛さ ん、あと…ギュンターもいなかったか?」
 頼りなげな薄い影が重なりすれ違うようにめいめいの方向に消えるのを見送ると、今度 は何か空間に重い圧力が加わり始めた。
 何か、来る。
「うわっ!?」
『――いてて』
 いきなり若林の前に転がり出るように姿を現わしたのは、さっきからずっと呼んでいた 相手――若島津だった。他のイメージたちと違ってはっきりと輪郭がある。頭を抱えて、 顔をしかめ…そしてもちろん口もきく。
『いい加減にしてくれ、まったく…』
「よう、やっと通じたか」
 若林が声を掛けると、相手は露骨に不機嫌そうな顔でじろりとこちらを見上げた。
『今度はおまえか。まったくあっちに転がしこっちに放り出して――俺はフィールドのボ ールじゃないんだからな!』
「何を怒ってるんだ。俺のせいだって言うのか?」
 若島津の身に何が起こっていたのかまったく知らない若林であるから、これは本気で驚 いているのだが。
「剛さんのロケ現場だって? そこからここに飛ばされて来たってのか」
『ああ、どちらにしても不愉快な場所だが』
「妙だな」
 いきなり呼びつけられてベルギーからケルンの撮影場所に向かったこと、剛さん自身か らは何の説明も受けていないことなど、朝からの苦難も含めて説明を聞いた若林が首をひ ねった。
「俺はただ森崎と連絡を取ろうとしてみただけなんだがな。森崎から俺に何か呼びかけて る気がしたもんだから。でもそれが通じないから今度はお前を呼んでみたら…」
『やっぱりおまえのせいじゃないか』
 ふてくされたように手足を投げ出して座り込んでいた若島津は若林を睨み上げた。だが 若林はぶつぶつ言いながらまだ考え込んでいる。
「最初に森崎の夢に引っ張り込まれた時には剛さんの所に出たわけだな。そして次は剛さ んの所に出向いて森崎の夢に――ここの渦に巻き込まれたと、そういうことか」
『森崎の渦…?』
 若島津は不審げに周囲を見渡した。
「ああ、この空間自体が森崎が知らずに作り上げちまったものの可能性がある。あいつの 力のせいで何もかもがごっちゃに呼び寄せられて」
『どこに』
「いや、それが――」
 そう答えようとしたその時だった。
 二人の前で激しい衝撃が弾けた。耳をつんざくブレーキ音がこの異空間を一瞬のうちに 引き裂く。あまりに強引な、現実への帰還。
「くそぉ…。どっちが上だ!?」
 そしてその現実の世界では、ワゴン車が見事にひっくり返っていたのだった。





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