a cup of day 6−1                              







 ≪6≫ 





◆ 





「事故か!」
 大声でそう叫ぶ。まず視界が開け、それから全身のリアルな感覚が戻ってくる。思考は 一番最後だった。
 車体は、前輪が宙に浮いた感じの非常に不安定な角度のまま止まっている様子だ。顔を 上げると運転席の男が呻きながら体を起こすところだった。もう一人はと言えばスライド ドアを必死に開いてその隙間から外に出ようとしている。
 若林が意識を別次元に飛ばしている間に何があったと言うのか。しかしそれは、開いた ドアから外が見えてすぐに判明した。そこに、問題の乗用車が停まっていたのだ。
「シュナイダー! 追いついたのか…?」
 そこは緩い下り坂の一般道。その側壁にワゴン車は突っ込んでしまったようだった。シ ュナイダーの姿を捉えようと身を乗り出すが、その上から怒鳴り声を先に出た男に浴びせ られた。
「おまえは動くな! 荷物が先だ!」
 まだ縛り上げられたままだと信じての指示だったらしいが、あいにく若林は自由に動け る。男が引っ張り出そうとしたトロフィーのケースを、横から手を出して奪い取ってしま った。
「なにっ、お前いつの間に…!?」
「こいつは俺たちが大会でいただくことに決まってるんでな」
 ケースを抱えて、若林は乗用車に駆け寄った。
「シュナイダー! ドアを開けてくれ――」
「……」
 が、その手前で足は止まった。運転席が開いて、シュナイダーがこちらを睨みながら降 り立って来たのだ。
「駄目だ、お前は降りるんじゃない! すぐ逃げないと!」
「マリーは」
 シュナイダーの耳には何も届いていないようだった。おそらく自分が引き起こしたこの 惨状も目に入っていないのだろう。
「マリーはどこだ」
「だから、それは後でいいから早く乗せてくれ、逃げるんだから!」
「マリーは」
 果てのない押し問答だった。その間に男が追いつき、背後から体当たりをしてきた。そ の勢いでもつれながら若林をシュナイダーの車に押し込める。もう一人も走って来て、こ ちらは運転席に飛び込んで占拠した。
「おい、マリーは!」
 さっきと逆に自分一人が車外に残されてシュナイダーが怒鳴る。自分の車を奪い取られ たことよりもこちらのほうが彼にとっては最優先なのだ。
「――あっ、おい、おまえはいいんだ、来るな!」
 エンジンをかけようとしていた男があせって叫ぶ。しかし誰の命令も聞かないシュナイ ダーはドアに手を掛けてそのまま力づくで運転席に割り込んできた。
「う…うわああっ」
 シュナイダーは男の上を乗り越えて結局助手席に座り込んだ。そんな妨害の中、乗用車 はよろよろと発進する。
「バカ野郎、見ろ、おまえのせいで逃げ損ねただろうが! しかもおまえまで自主的に人 質に参加してどうする!」
「――マリーはどこだ、ワカバヤシ」
 助手席からさらに後部座席に向かって身を乗り出して、シュナイダーは同じ質問を繰り 返す。若林はつくづく呆れて肩を落とした。
「なんで俺の周りはこういう理屈の通じない奴ばっかりなんだ」
 シュナイダーも、森崎も。
 でも、今度ばかりはそこに関連があったんだよ。







◆ 





「くそー、またパス出されちまった!」
 ワンツーパスだったら許さん…と自分でボケてみせても空しい。
 今の衝撃が何であれ、自分の意思ではない移動を繰り返しているのは確かだ。さっきま で会話をしていた若林も同じく弾き出されたのかもはや姿はない。
「森崎のせいだって…?」
 その若林との会話を思い出す。
「あいつ個人の力が俺だけじゃなくいろんな人間の意識を引き寄せていたとはな」
『俺たちがそれぞれ持ってる特殊能力だが、森崎の場合何だと思う? 時々キレては自覚 のないまま爆発させてるが、そっちはメインじゃない気がしてな』
 若林はずっと考えていたのだと言う。それは「共鳴」ではないかと。
『シュナイダーの八百長疑惑事件の時もそうだったが、森崎は人が無意識に発するSOS を感じ取って共鳴して、その相手の気持ちに直接触れることができるんだ。逆に言えば、 そういうつらい気持ちや悲しみの心が森崎に寄って来てしまう。駆け込み寺並みにな』
 確かに思い当たるところはある。だが、それなら俺はどうなるんだ…と若島津は反発を 感じる。
「森崎と一番共鳴させられてる俺は、だとしたらひっきりなしにSOSを出してることに なっちまう」
 そんなはずはない。若島津としてはそこは譲れない。仮に若林の言うことが合っている にしろ、自分だけは例外にしてもらわないと困る。
 そう考えているうちに移動は終わったようだった。
 またどこか新しい場所にいるらしい。足元がしっかりした現実の場所にいる実感があっ た。しかし視界は暗いままで、周囲の状況はまったくわからない。
「何かの中…か、ここは」
 若島津は感覚の及ぶ範囲を順に確認した。
 目だ。目を開け。――そう命じてようやく前方が明るくなる。まぶしい光が一面にあふ れる。
 ここは…?
「やあ、起きたのか、サバラン」
 目の前に人の顔がある。穏やかな声が自分に向けられる。
 ――が、それが誰なのかわかった瞬間、若島津はさーっと血の気が失せそうになった。 「また、これかー!」
 兄の手が自分に触れる。さらに撫で回される。
 耐えられなくて身をかわしたが、剛さんの手は振り払えなかった。逆にしっかりとつか まって抱き上げられてしまう。
「さあ、おとなしくして。いよいよ撮影するから」
 撮影だって? その言葉で思い出したのがさっき行った廊下のシーンだった。
「俺の役は、日本人留学生…とかだったな。あれをまたやってるのか?」
 ライトがまず目に入り、カメラを担いだスタッフも少し離れて立っているのがわかる。 剛さんは猫を定位置に下ろして自分もそのカメラマンに並んだ。
「はい、本番、テイクワン行きまーす」
 剛さんが手を上げたのを合図にドアが開いた。地味なドレス姿の女性が出て来る。つい で足を止める。
『あなた、どうしてここに! もう帰って来てくれないかと思ってたのに…』
 女性の台詞はあの時に聞いた通りだった。なら次はこちらの台詞の番だ、と背後を振り 返る。
『――そうだよ、帰って来たんだ』
 そちらから声がして、えっと固まる。
『君に言わなくちゃいけないことがあったから、ローザ』
『私も、会いたかった!』
 女性が駆け寄って二人はしっかりと抱き合う。
「え…えっ――?」
 唖然と見上げると、少しの間を置いてからその二人がぱっと顔を上げた。
『はい、オッケーでーす。――こんな感じで、どう?』
 抱擁を半分やめたところでカメラマンを振り返ったのは、さっきキューを出した本人、 剛さんだった。
「な、なんで剛兄が…!?」
 ライトの位置を少し移動する指示を出し、スタッフと改めてチェックしているようだ。 『俺じゃ陰影が足りないよなあ。もっと暗めなイメージで。でも適役がいないんだから仕 方ないか。健はきっぱり断って来たし』
「なんだって?」
 若島津は耳を疑った。いつ自分が断ったと言うのだ。そもそも剛さんの依頼など来ては いない。いきなり連れて来られてリハーサルのようなものまでさせられたのだ。
「おい、違うぞ。この女優、あの時の相手じゃない…」
 剛さんの指示を受けながら再びスタート位置についた相手役の顔を、若島津は信じられ ない思いで見つめた。
「どうなってるんだ、これは――」
『はい、サバラン、君もなかなかいいよー。あともう少しこっちまで歩いてくれると嬉し いんだけど。もう一回、ね』
 剛さんの手でまた元の位置に戻される。
「なら、あの時はいったい何だったんだ…」
 夢か現実か、それとも未来を見たのか。すべてが混乱する。
 自分をここに連れて来たあの女性スタッフ。一緒に演技をした相手役の女性。そのどち らもこの場にはいない。
『それがなぜなのか、教えましょうか』
 声に驚いて若島津は振り返る。猫の視界は閉ざされてまた闇に戻っていたが、それには 気づいていない。
 そこに、あの女性が微笑んでいた。






◆ 





『私は女優でもスタッフでもありませんよ。私は――』
 静かに微笑むその表情を見て、若島津は突然理解した。
「本人だ、そうだな? ローザって名前の…」
『ええ、私は昔ここに住んでいました。ここで彼と出会い、そして別れたんです』
 発音は心許ないがはっきりした日本語。それはかつて恋人だった日本人留学生に習った ものなのだろう。
「じゃ、演技してたほうと…俺を連れて来たほうと――」
『ええ、どちらも私です。彼の帰国の後、ずっとここに住んでいましたから――猫と二人 で』
 女性の顔を微かに暗い色が横切った。
「猫? この猫、あんたのだったのか」
『いいえ。私の猫は死にました。殺されたんです、あの男に。あなたはその兄弟猫にあた ります。同じ名前の』
 女性の声に憎悪の響きがあった。あの男――それが誰のことを言うのか若島津にはわか らなかったが。
『私はずっと待っていました。ここに残された私の声を聞いてくれる人を。あなたが、彼 にそっくりなあなたがこうして来てくださって、本当に嬉しかった…』
「いや、別に聞きたくて聞いたわけでは…」
 最初に猫になってやって来た時に見込まれてしまったらしい。だからと言ってわざわざ 迎えにまで来るとは。
『あの男はアパートの住人を追い出すためにありもしない幽霊の話を持ち出しましたが、 私はとり合いませんでした。当然でしょう、その話の当事者が私自身なんですから。彼の 幽霊が出るならむしろ歓迎したいくらいでしたよ。でも、どうしても出て行かない私にし びれを切らしてあの男はサバランを連れ出して殺してしまったんです。私の唯一の家族だ ったのに』
「俺に代わりに復讐しろとでも?」
『いいえ』
 女性は――ローザは不思議な微笑みを見せた。
『あの男にはもう罰が下っています。あとは、あなたに会えただけでいいんです。会いた かったあなたに…』
 残響の中に、姿は消えていた。若島津ははっとする。
 呼ぼうと思ってもどうすることもできなかった。最後にこれだけは聞いておきたかった のに。
 ローザが会いたかったのは――若島津が身代わりを務めたのは――恋人? それとも、 猫?
 それともその両方だったのだろうか。
 そう思った時、周囲に光が戻り、若島津はまたアパートの廊下にいた。
 振り返ればシーンが変わったのか、スタンドライトなどの機材を担いでスタッフがぞろ ぞろと移動している。ローザ役の女優も、そして剛さんも一緒にスタッフたちと何かを打 ち合わせているようだった。
「さて、俺はどうするかな。いい加減に人間の体に戻りたいんだが――うわっ!?」
 立ち上がったその瞬間、いきなり上から大きな布が降ってきた。押さえ込まれて声も上 げられない。
「何するんだ、この野郎!」
 じたばたしたがどうすることもできず、狭い場所に押し込められた。
「静かに。おとなしくして。今朝みたいに引っかかれちゃたまらんからな」
「くそっ、バスケットなんかに閉じ込めやがって! 俺は猫の子じゃないぞ…」
 暴れても鳴いても無駄だった。実際に猫でしかない彼には。





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