a cup of day 6−2                              






◆ 





「あれ、森崎どうしたの」
 地面にぺたんと座って空を見上げている森崎を見つけたのは通りかかった翼だった。
「若林さん、ほんとに来てくれるのかなあ」
「え?」
 若島津が抜けて一人になってしまったとは言え、一応練習中だ。あの生真面目な森崎が それをさぼってこんな寝ぼけたことを言っているなんて。翼はそんな顔をする。が、森崎 は続けた。
「俺、頼り過ぎじゃないかな、若林さんに。ふだん一緒にいない分、気持ち的に寄っかか り過ぎなのかも。ここ一番の困った時にはどうしても若林さんになんとかしてもらおうっ て思うんだから」
「どうしたの、急に。そんなこと言うなんて珍しくない?」
 翼はちょっと考えてから側に一緒に腰を下ろした。
「うん――答えてくれなくて、若林さんが。俺にもっとしっかりしろって意味で返事しな いのかなって思って」
 何にどう答えないのかは翼には言えないが、とにかく若林はいくら呼んでも答えて来な かったらしい。不通の原因が実は自分のほうにあるとは森崎は知らないのだ。。
「それはないよー。あの若林くんから見れば誰だって頼りなく見えるはずだもん、森崎の こと今さらそんなふうに思わないって」
「きついなあ」
 苦笑する森崎はやっといつもの顔に戻ったようだ。翼は横から覗き込んで小さく笑う。 「だって森崎、それ弱音に聞こえないよ。逆に自信の表われ?」
「えっ、まっまさか!」
「俺にはそう見えるけど? 自信がじわじわって顔に出てる。――でもどことなく寂しそ うでもあるんだよね」
 そう言いながら翼は森崎の頭をなでなでした。もちろん、森崎は驚いて目を丸くしてい る。
「翼、何を言い出すんだ」
「ずっとさ、森崎は寂しそうだったよ。俺ちょっと心配だったんだけど、そうか、それな らいいや」
「はぁ?」
 一人で納得して翼はぴょんと立ち上がった。
「なら、若林くんの代わりに俺が付き合ってあげるよ。ね、俺たち子持ちコンビだし」
 腕を引っ張り上げて森崎を強引に立たせてしまう。
「一人になっちゃった森崎のためにシュート錬しよう!」
「いいのか、翼。おまえ向こうの練習があるのに」
「いいからいいから。紅白戦で一人人数がはみ出したからあっち行ってろって言われたん だ」
「――それって、もしかして休んでろって意味じゃ? だったら駄目だよ。まだ故障が残 ってるんだから」
「大丈夫大丈夫。もうパーフェクト。さ、やろっ!」
「そうはいかんぞ」
 いきなり背後から手が伸びて翼の襟首をつかむ。
「油断もすきもねえんだから、おまえはよ」
「気になるから医務室に行ってみればまんまといないんだもんねえ。駄目だよ、翼くん」
 日向はともかく、岬に睨まれては翼も反論できないらしく、へへへ、と照れ笑いでごま かす。
――森崎!
 そこに割り込んだ声。
――聞こえるか、森崎!
「若島津?」
 足元からざわざわっと緊張の震えが来た気がした。
「どうした、森崎」
 翼を連行していこうとしていた日向がその表情の変化に気づいた。
「いや、ちょ、ちょっとごめん、俺」
 森崎は駆け出す。一人だけ、宿舎の事務所方面に向かって。
「電話を…電話をかけなくちゃいけなくて。ごめん」
「怪しーい」
 岬に腕を取られながら翼が最後までそれを見送る。
「森崎、全然怪しいよぉ」
「おまえの日本語のほうが怪しいだろーが」
 などという騒ぎを背に、森崎は建物の陰に回って足を止めた。
「翼って妙に鋭いことがあるから注意しないと…」
 それは小学生時代に若林に教え込まれたことの一つだったりするのだが。
――あいつには俺たちみたいな能力はないが代わりにもっと強力な直感があるからな。
「まあ俺はマークされるような力なんてないからいいんだけどね」
 翼たちからは見えなくなっていることをもう一度確認して、それから改めて「会話」に 戻る。
『若島津、今どこ? いきなりいなくなったりして』
『どこなんだか』
 少々自棄になっているようだ。無理もないが。
『時間も空間もごちゃごちゃになっていて――でもおまえの意識の一部とも直接繋がって る。若林によればな』
『えっ、それどういうこと…?』
『俺にわかるもんか。若林とはさっきまで話せてたんだが今は不通だ。あいつはあいつで 取り込み中だからな。一応俺たちチームのほうに向かってるそうだが。どっちにしても今 は通信は全面ストップだ。おまえがナビゲートしてくれないか』
『ど、どういうこと? 俺なんかが…』
 ついうろたえてしまう。が、そんな森崎に若島津はじれったそうに続けた。
『だからおまえだからこそ頼んでるんだ。俺の体のほうはおそらくケルンにある。そこに 着くまではたぶん実体だったはずなんだ。ここには兄貴と、あとなぜかヘフナーとヘルナ ンデスもいるようだから、やつらと連絡が取れると助かる』
『って言われても…』
 事情が一切わからずに森崎はそろそろパニック寸前だった。
『とにかく急いでくれ。俺は猫殺しの犯人に捕まって、今バスケットに入れられちまって るんだ。三味線にされる前に元に戻してもらわないと』
「は?」
 パニックも思わず引っ込む謎の発言に森崎の目は点になったのだった。





◆ 





「しづさん、ほらほら、走っては駄目よ!」
 野森教授の声が廊下に反響する。教授の研究室の前であった。
「え、電話、今じゃなかったんですか?」
「だから、かかってきたのは午前中だって、そう言おうとしたのに」
 臨月のおなかを完全に忘れているのかもともと気にしていないのか廊下を走って来たし づさんは教授の前まで来て本当にがっかりした顔になった。
「じゃあ、何か伝言でも?」
「いいえ、事務室の話だとあなたの体の調子を知りたかっただけみたい。元気だって聞い てすぐ切れたらしいわ。ほら、取り次ごうにももう研究会が始まってたでしょ」
「そう、ですか」
 フランクフルト大学にかかってきた森崎からの電話は、またまたすれ違いになってしま ったのである。
「さあさ、入って座りなさいな。お茶を入れましょ」
 相変わらず散らかり放題の部屋だったが、教授は積まれた書類や本を脇に押しやってし づさんの座る場所を素早く確保してくれた。実験用バーナーで湯を沸かし、日本茶を入れ る。
「ほんとにいつまでも新婚さんね、あなたたちは」
 結婚して2年が過ぎたのに、と教授は笑う。
「私のほうが後だったのに、うちなんてとっくに馴れ合い夫婦よ」
 野森・質・エデル。ドイツに来てから電撃結婚した彼女のフルネームである。夫のクリ ストフはオペラ歌手としてヨーロッパ各地を回ることが多いため、こちらも単身赴任みた いなものだと教授はよくしづさんを慰めていた。
「あのね、そんなに会いたいなら会えばいいじゃない。旦那さんの邪魔をしたくないから ってあなたは言うけど、邪魔をして迷惑をかけて、それがなぜいけないの? 夫婦なんだ から、遠慮なく迷惑をかけ合えばいいのよ」
「え、でも…」
 しづさんの手が止まり、困った顔で教授を見つめる。
「そんなこと言ったら、最初からもう迷惑のかけ通しです、私。親に反対されたままいき なり押し掛けて行って、ご家族の好意に甘えてすぐに入籍できたし…それにこうして2年 間自由にさせてもらってて」
「あら、そこが立派だったんじゃないの。好きの一念でそれだけの行動ができたわけでし ょ。迷惑の大プレゼントをしたってことよ。そもそもあなたは自制心が強すぎるから、放 っておいたらいくらでも我慢してしまえるでしょ。それじゃ何にもできなくなりますよ」
 恩師の言葉にしづさんは目を伏せた。
「私に私のやりたいことがあったように、有三さんには今、大切なサッカーがあるんで す。自分だけ好きなことをやっておいて、有三さんの邪魔になるようなことはできないで す、先生」
 教授はそんなしづさんの表情を見て、手にしていた湯呑みをことんと机に置いた。
「いいこと、この際だから言うけど、あなたの遠慮っていうのは相手を思いやってるだけ じゃなくて自分が怖がってるせいなのよ。迷惑をかければ嫌われる、嫌われたらもうおし まいになる、って。そうやって遠慮しているうちはつまり他人行儀なの。極端に言えば ね」
「他人…なんですか、まだ私たち」
 呆然とするしづさんに、教授はうなづいてみせる。
「だから、それが新婚さんよ。まだまだこれからいろんなことができるって段階。他人か ら夫婦になるまでのプロセスよね。アツアツで、でも遠慮もしちゃって、ケンカだってす れ違いだって全部大事なの。肝心なのは正直でいることね」
「……」
 しづさんははっと顔を上げた。教授は真面目な表情でしづさんを見つめている。
「自分に正直になるってことは相手にも正直になることだと私は思うの。正直に自分の気 持ちを伝えてごらんなさいな。今どうしたいの、何が望みなの?」
「それって、わがままじゃないんですね。迷惑を、正直にかけるってことは」
「そうね、正直にならね」
 教授は嬉しそうにうなづいてしづさんの言葉を待った。
「私の正直な気持ち…」
 いつの間にかしづさんは立ち上がっていた。じっと考え込み、そしてまっすぐに教授を 見る。
「私――私、会いたいんです」
 まるで浮かされるようにしづさんは口を開いた。
「もうすぐ会えることになってるし、あと2ヶ月くらいで日本にも帰るけれど――先がど うなっていようととにかく今、今すぐ会いたいんです、有三さんに」
「そうそう、そういうことね」
 野森教授はにこにことうなづく。
「旦那さんにもそう言っておあげなさいな。あなたと同じくらいその言葉を待ってると思 うから」
「はい! ありがとうございます」
 あっという間にしづさんは部屋から飛び出していった。飲みかけのまま残された湯呑み を前にして、教授はこぽこぽと自分の二杯目を注ぐ。
「でもね、しづさん、その言葉を一番聞きたかったのはやっぱりあなた自身だったのよ ね、きっと」
 しづさんの2年にわたるドイツでの研究期間はもうすぐ終了する。大学にこのまま残る 野森教授とはこれで別れ別れになるのだ。
「かなりくさい説教だったけど、これも餞別ってことで」
 屈託なくそう独り言を言って、教授はお茶をおいしそうに飲み続けたのだった。





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