a cup of day 7−1                              







 ≪7≫ 





◆ 





 しづさんは中央駅に急いでいた。タクシーの運ちゃんは大きなおなかの女性があわてて いるのを見て自分のほうがもっとあわてたが、行き先が病院でないとわかると安全運転で 駅のホームまで行ってくれた。
 フランクフルト中央駅。国の内外に向かう複数の路線を結ぶヨーロッパでも有数の巨大 ターミナルだ。20本以上ものホームがある大きな駅では迷うのも無理はなく、特にこれ まで一人で来たことのなかったしづさんには目的のホームはおろか案内所やチケットオフ ィスがどこなのかさえ見当がつかずに立ち尽くす。
「日帰りでベルギーのリエージュまで、ですか?」
 通り掛った乗降客にいきなりそれを言っても。とにかくその人にケルン乗換えだと教わ って、言われた方向に歩いて行く。煉瓦壁に沿って連絡通路がいくつも口を開けていてさ ながら鍾乳洞の分かれ道を思わせた。
「こっちかしら。たぶんそうね」
 表示板さえ見つかれば問題はない。しづさんはしかし、近道をするつもりでその表示よ りも手前で曲がってしまった。
「あらあら」
 ドーム屋根の下の広い空間から逸れただけで方向が見えなくなってしまった。さっきま でたくさんいた人の流れもいつの間にか途絶えてしまっている。ちょっと薄暗くさえある 通路に自分の靴音だけが響いて、しづさんは思わず足を止めた。
「引き返したほうがよさそうね」
 空気が変化していた。ただしづさんはそれに気づいていない。回れ右して元来たほうへ 向かっているはずが、もうそこは見覚えのない場所になっていた。
「どうしましょう。今日中に行かないとチームは移動してしまうし」
 次の移動先はフランスだと聞いていたが、そうなるとすれ違いになってまた改めて迷う ことになってしまう。
「早く会いたいのに――有三さん」
「はい?」
 思わず声に出した独り言に、いきなり返事があった。
「え?」
 振り返ると、そこにびっくりした顔の森崎が立っている。
「ど、どうしたんですか、しづさん! こんな所に一人で…!?」
「有三さんこそ…」
 驚くのは後回しで二人は駆け寄ってしっかり抱き合った。
「よかった…会えて」
「しづさん」
 しばらくそうしていた後、二人は異変に気づく。そっと体を離して森崎は目を丸くし た。しづさんも自分を見下ろして驚く。
「…あ、あらっ?」
 生まれる直前の大きな大きなおなかが消えている。10ヶ月前の、普通のおなかだった。 しづさんはしばらく呆然としてから顔を上げる。
「なあんだ、これ、夢だったの」
 笑顔が半分曇っていた。
「早く会いたい会いたいって思い過ぎて、また夢を見ているんだわ」
「しづさん…?」
 うつむいてしまったしづさんを、森崎はもう一度そーっと抱き寄せた。
――これって、若島津が言っていた、あれなんだろうか。
 森崎も、知らない間に不思議な場所に来ていたのだ。若島津を探そうとケルンに向かう 途中で。
 自分がいたベルギーと、しづさんのいるフランクフルトとが空間のねじれで繋がってし まったとでもいうのか。
――それに、さっき見た人たちも…。
 しづさんにこうして出会う前、この空間にさまざまな人影が浮かんでは消えるのを森崎 は目にしていた。その中の幾人かは森崎にもなじみの人たちで、中には彼を見て声を掛け てきた者さえいたのだ。
「でも、夢でもいいわ」
 森崎が考えを巡らせているとしづさんがそう言って顔を上げた。
「会えたのは同じだもの。それにとても実感があるし」
 実感というか、実体というか…。森崎は説明できないのがもどかしかったが、お互いの 体の温かさは確かに本物だと思う。
「それにしても不思議」
 しづさんはもう一度自分のおなかをなでてそうつぶやく。
「あんなに大きかったのに。もう慣れてたから変な感じ。私たちの赤ちゃん、どこに行っ ちゃったのかしら」
「もうすぐ、俺たちの前に来てくれますよ。生まれるんだから」
「ええ、もうすぐ」
 変な夫婦。
 もう少し驚くかうろたえてもいいのでは。
 しかし彼らはもう一度顔を見合わせてにっこりし、手を繋いで歩き出した。
「迷っちゃいましたね。夢だけど」
「本当。困ったわ。夢だけど」
 しづさんはくすくすと笑った。
「さっき思い出したの。駅の中で。有三さんは覚えてるかしら、初めて会った時の武蔵明 和駅」
 森崎が中学3年の正月。壮絶なバトルの現場からいきなりジャンプした先の若島津家の 門前でしづさんに出くわし、そのまま無断外出に付き合わされた時のことである。駅前の 飲み屋横丁でケンカに巻き込まれたのだ。
「からんできた酔っ払いを全部倒してましたね、しづさん」
 森崎も笑う。
「で、明るいほうにと思って逃げたのに駅はもうシャッターが閉まってて、しばらくそこ にいたんでしたっけ」
「そう、あの時の途方に暮れた気分――迷子みたいな感じが似てて。でも」
 しづさんはそこで足を止めた。そして森崎を見る。
「迷子なのに、不安より先に楽しい気分になるのって変かしら」
「さあ…。一緒に誰かいるか次第じゃないですか」
 森崎はふわっと笑顔になった。
「ほら、行くべき場所にたどりつけないのが迷子ですけど、誰かといればそこが行くべき 場所になってくれるでしょう? 少なくとも俺にとっては」
「だったら迷子とは言えないわね」
「はい」
 二人はそれ以上歩くのをやめてしまった。どこかに行こうとする必要はない。今お互い がいるここが彼らの目的地なのだったら。
「会えたらいろいろ話したいって思ってたのに、忘れてしまったみたい」
「じゃ、一緒にいるだけでいいですよ。ここにいましょう」
 キスを交わしてまたにこにこと見つめ合う。
「――ええ、目が覚めるまでずっとね」
 長い間離れ離れでいなければならなかった二人にとって、それを埋めるのに十分すぎる ほどの時間がそこには流れていた。





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