≪8≫
◆
家に向かって走るヘフナーの目に、裏庭に面したキッチンのドアが半開きになっている
のが映った。
「ちっ!」
しっかり戸締りしておけばよかったんだ。そう思ってももちろん遅い。
中の物音に耳を澄ませてからキッチンに飛び込む。それを合図にしたかのようにぱたぱ
たと足音が駆けて来た。
「グスタフ〜」
それはパジャマ姿のユールとクルトだった。半ベソでヘフナーにしがみつく。
「大丈夫か、二人とも」
「うん…」
クルトは安心してか、しゃくり上げ始めた。
「知らない人が急に部屋に入ってきて、コワイ顔のおじさんとコワイ顔のお兄さんが大き
な声でケンカを始めて――」
「二人で箱を取りっこしてるうちにおじさんがトビーを捕まえて…」
「それで、また走ってっちゃったの」
ヘフナーは愕然とする。
「トビーは、連れてかれたのか?」
「うん、お兄さんは僕たちに逃げなさいって言ったんだけど、トビーは眠ってて…」
「くそ、子供をさらうなんて最低だ!」
ヘフナーは二人に部屋に戻って待つように言い、すぐに飛び出した。
銃を持っているような男の手に幼い弟が捕まっているなんてことは一瞬でも考えたくな
かった。シュナイダーが追い続けているとは言え、安全の保証はないのだ。
「どこへ逃げたんだ…」
必死に見回していると、アパートのドアからジノが合図をしているのに気づいた。
「グスタフ、あいつは上だ。トビーも一緒に上の階に。なんとか追い詰められそうなんだ
けど――」
「トビーがいるからうかつに手を出せないんだな」
中に駆け込むと、吹き抜けを通して怒鳴り合う声が響いてきた。子供を返せという若林
の声、近づくと子供は殺すというヒステリックな犯人の声――。
犯人を少しでも刺激しないように、あえて近づかずに階段途中で様子を窺っていたジノ
に追いつく。
「ワカバヤシがなんとかしてくれるとは思うけど」
「ああ…」
手すりをつかむジノの指が食い込みそうなくらいに白い。若林の力を信じてはいるが、
やはりこの状況では不安のほうが勝ってしまう。
「しかしあいつはなぜ自分から追い詰められるような逃げ方をしたんだ? それに、シュ
ナイダーは…?」
「まさか?」
ジノも同時にその可能性に思い当たる。
「オトリだ、こっちは!」
叫んだその時、表にパトカーのサイレンが響く。犯人は――? ジノとヘフナーはあわ
てて吹き抜けに身を乗り出した。
「やめろ!」
若林の叫びだ。警察の到着にあせった犯人はついに最後の手段に出てしまった。
「子供を渡せ!」
あとわずかまで近づいていた若林にいきなり体当たりをして強引に逃げ道を作ろうとし
たのだ。
「ワカバヤシ――!?」
銃口が若林に向けられたのが彼らからも見えた。が、男の顔が次の瞬間苦痛に歪み、そ
の手から力なく銃が落ちていく。見えない力が男の体を上から押さえつけ床に這いつくば
らせる。そうしておいて若林が子供を取り返そうと手を伸ばしたその一瞬…。
「トビーっ!!」
男は最後の抵抗で体をねじり、抱き込んでいたトビーを押し出す。吹き抜けの手すりの
間から、その何もない宙に向かってトビーの小さい体がふわりと転がり出た。
「くそっ!」
若林はすぐに身を翻して手を伸ばす。が、そのわずか先をかすめて、トビーは吹き抜け
を落ちて行った。
「な…あれは?」
全員が凍り付いたその瞬間だった。何か大きな影がその空間に飛び出す。
「――若島津!?」
最上階の手すりから若林が下に向かって身を乗り出し叫ぶ。その叫び声の中、落ちてい
く子供に飛びついたその人影はなんと空中でくるくるくるっと前方宙返りをして中二階の
踊り場にすとんと着地を決めた。子供を、両手で胸にしっかりと抱え込んだまま。
「なんとまあ…」
ちょうど目の前でその離れ業をしっかりと目撃したヘフナーとジノは一瞬絶句し、そし
て互いに顔を見合わせた。
「あっちがワカシマヅなら――こっちが、サバランなわけ?」
「ワカシマヅの体で、中身が猫…!?」
若林がそこにものすごい勢いで駆け下りて来た。二階には、剛さんをはじめとする撮影
隊の一行が声すら出せずに凍り付いている。
「いやあ、あっぱれあっぱれ!」
大きな声は剛さんだった。
「飛んで来るものは何でも捕まえようとするのがキーパーの本能とは言え、よくぞあんな
真似までなあ」
「な、何がどうしたってんだ、一体…」
若林もそこで足を止めると呆然とつぶやく。
果たしてトビーは無事なのか?と皆が注目する中、若島津がそっと腕を開き、トビーが
きょとんとした顔で現われた。
自分の目の前のお兄さんを不思議そうに見つめ、そしてにこっと笑う。
「にゃんにゃん」
「――おい、おまえら」
それを聞いた途端に声を殺して吹き出したジノとヘフナーを若林は睨みつけた。
「どういうことだ、説明しろ!」
「いいけど」
笑いをこらえながらジノが振り返った。
「追跡はまだ終わってないよ。トロフィーは別のヤツにバトンタッチされたらしい。シュ
ナイダーはまだそっちを追ってるんだ」
「なに?」
「こっちはオトリだったんだ。行くぞ!」
もう一度トビーの無事を確認するように振り返ってからヘフナーも裏口へと向かう。別
の応援が来たのだとしたらそれはギュンター家で二手に分かれたに違いなかった。
「さあ、早く追いつかないと、なにしろシュナイダーだから」
「その通りだ」
一歩後れを取った若林がまだ不服そうな顔をしているのには構わず、追跡は再開された
のだった。
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