a cup of day 7−3                              






◆ 





「なーんか、賑やかになっちゃいましたねえ、剛さん。救急車に警察にって」
「そうだね、これじゃ幽霊屋敷って雰囲気じゃないなあ」
 当惑気味のスタッフに対して剛さんはにこにこと応じる。サバランを抱いて本当に嬉し そうだ。
「いえ、幽霊らしさがないほうが僕はずっと有り難いですけどね」
 こっちは怯えて一度ひっくり返った前科の持ち主。このアパートの荒れ果て方はたとえ 何も出なくても迫力がある、というのが彼の主張であった。
「いや、死者の恨みよりも、現世の人間の欲のほうが怖いんだよね」
 などと謎の発言をしつつ剛さんは引っ込む。あとはスタッフに任せて待機する気のよう だ。
「さ、サバラン、そんなに嫌がらないでお兄さんと遊ぼうね」
 猫はなんとか腕の中から逃れようともがいていたが、こう見えても有段者の剛さんはし っかりと抱いて離さない。ついには諦めたのか、ふてくされたように動かなくなった。
「よしよし、いい子だ。撮影が全部済んだら一緒に飯を食いに行こうな」
 実は大変な猫好きの剛さんだった。
『あーもう好きにしてくれ』
 そのサバランの中にいる若島津は、やむなく目を閉じると自分の思考に集中することに した。
『森崎が早く来てくれるといいんだが。もっともあいつもどうすればいいのか全然わかっ てないみたいだったな』
 森崎の能力が共鳴なのだとしても、それは森崎自身にはコントロールできないものだ。 若島津の予知がそうであるように。
――なぜ俺はここまで森崎の夢に引っ張られる? 俺だけがこういう目に遭うってこと は、原因は俺のほうにあるのか?
 若島津はだんだん滅入ってきた。
 想いはいつも曖昧で漠然としたものだ。無意識にSOSを出す、と若林は表現した。自 分ではそうと気づかずに助けを求めていることもあるのだと。
――俺は悲しくもつらくもないぞ。悩みだってない。もしあるとしたら、それは「迷い」 だ。
 以前ならもっと悩んだことはあったし、それは多く迷いを伴っていた。自分の進むべき 道についてだ。交通事故に遭った時、父親と全国優勝を賭けた時。
 悩みが外からの要素で生まれるものだとしたら、迷いはむしろ自分の中にある。もしか すると最初からそこにある。
「うちでも猫を飼いたかったんだよね、子供の頃」
 剛さんの声が意識の外からゆっくりと割り込んできた。ぐるぐると堂々巡りをしていた 思考からはっと現実に戻る。
「でも親父が動物嫌いでどうしても駄目だったんだよ。だから弟や妹で我慢することにし たんだけどね」
 なんだと!
 若島津は今にして衝撃の事実を知った。
「うちはとにかく親父がすべてを決めるから、いいことも嫌なことも全部親父から与えら れるんだ。窮屈で窮屈で、結局まあ逃げちまったんだけど」
 剛さんのため息が聞こえて、若島津は思わず目を開いた。
「自分で選んだ道だからこそ自分が責任を持つんだって、そうやって逃げ出して初めてわ かってさ。まあ親父もあれで自分のやり方には相応の責任を引き受けてんだなって、今に なって思うわけ」
 猫が目を開いたのに気づいて、剛さんはまた笑顔を向けた。
「結局うちは妹を残して全員逃げたってことになるんだ。でも妹は、押しつけられたんじ ゃなくて自分でそれを選んだんだから、って言ってこれがまたタフなんだ、ほんと」
 手が伸びて、頭から背まですーっとなでられる。
「それに比べると健は可哀相なことしたかなあ。俺のせいで親父の期待があいつ一人にか かっちまって。ほんとに長い間背負わされ続けて、その影響から今でも逃れられずにいる ように見えるんだ。親父の手を離れた後のほうがその影響が大きくなってるみたいな」
 若島津はぎくりとした。父に命じられた道ではなく自分で行きたい道を行くと決めた 時、そこに気負いがありすぎたか、と。気負いは迷いの裏返しではなかったかと。
「剛さーん」
 廊下から呼ぶ声がした。
「ラストのコメントシーン、確認お願いします」
「おーし」
 猫を床にそっと下ろしておいて剛さんは上着を着た。短い顔出しナレーションのシーン でエンディングをしめることになっている。
――誰だ? 誰かが呼んでる…。
 若島津の意識がふわりと流れた。またあの厄介な空間に入り込んでしまう。これで元の 自分に戻れるだろうか。
 何もない場所で周囲を見渡す。
 でも、俺は、どこだ?






◆ 





「この先は行き止まりのはずだぞ」
 ヘフナーが叫んだ。若林はうなづいて耳を澄ませる。薄暗い廊下の先には何も見えず、 犯人とシュナイダーがどこへ向かったかはわからない。
「おまえ、あいつのモニターだけはできないって言ってたな」
「あいにく」
 苦い顔でヘフナーは認めた。このしょっちゅう行方をくらます若き皇帝閣下はあまりに 無色透明な精神の持ち主のためか、ヘフナーのレーダーにはなかなかかからないことが以 前から証明されていた。サッカーをしている時が唯一の例外だったが、それではモニター の意味はない。
「どうだい、そっちは」
 ジノが追いついて来た。
「警察にあの番号のことも伝えておいたよ。あれ、例のカジノのものだって」
「なに?」
 金塊の盗難に遭った、そもそもの被害者である。それが、なぜトロフィーの宝探しを先 導しなければならないのか。
「カウフマンにトロフィーの話を吹き込んだのも、ヨーロッパ各地でトロフィー集めをさ せていたのも、そいつらか?」
「最初の被害額に嘘があったんだろうな。警察には届けられない種類の金額が、おそら く」
 三人は顔を見合わせた。カウフマンは情報源の偽装に利用されただけだったのだ。
 と、今度はどこかでガラスの割れる音が響いた。彼らが駆けつけると、空き部屋の一つ の窓枠が壊れて外に落ちていた。ここから脱出したに違いない。窓の外を見るとそこはち ょうどギュンター家の庭に面した場所だった。そして生垣が一部崩れているのが目に入 る。ヘフナーの顔色が変わった。
「家にはあいつらがいる!」
 子供部屋で昼寝中の3人の弟。
 ヘフナーは窓をくぐって庭に飛び下りる。若林とジノはいったん廊下に戻って、逃走ル ートを両方から押さえることになった。





◆ 





 カメラマンが、ファインダーを覗きながらふと奇妙なことに気づいた。まだカメラは回 していない。向こうに立つ若島津剛さんはスタッフにピンマイクをせっとしてもらってい る。
「う…っ」
 声を出そうとしても動くことさえできない。指が震えて偶然スイッチが入ったことも、 彼は気づかなかった。
 剛さんが立つ廊下の一番奥。ちょうどドアの前でその影はふわりと形を取った。そう、 まさに人の形に見えた。揺れるように動いてから、ゆっくりとこちらに近づいて来る。
「や、やめろ……こっち来るな…」
 喉のあたりで詰まっていた声が一気に絞り出された。
「来るなぁあ!」
 どしん、と尻もちをついてカメラマンは我に返った。剛さんとスタッフがびっくりした 顔でこちらを見ている。
「どしたの?」
「い、い、今…、剛さんの後ろで白い人影がゆら〜って…」
「まさかぁ」
 剛さんは笑ったが、カメラマンのあまりの怯え方に、同じく幽霊苦手のスタッフたちが ビデオを見てみようと言い出した。皆で集まってプレイバックを確認する。
「ふーん、なるほど」
「…いや、剛さん、なるほどじゃないですよ。こ、これって…」
 一人を除いた全員が青ざめている。認めたくなくても、そこに映っていたものは故障で も錯覚でもない一つの現実だった。
「いやぁ、すごいよ。ほんとにこんなのが撮れるなんて俺もラッキーだ。ロスタイムでも らった決勝PKだ」
「ど…こ行くんです。もしもーし、剛さん?」
 誰もが動こうとしない中、剛さんはその謎の影が動いていた廊下の奥に向かってどんど ん歩いて行く。
「ここの部屋に、何かあるとか?」
「や、やめてください! 開けないで…!」
 スタッフの制止などもちろん聞くわけもなく、カウフマンから預かったこのフロア用の 鍵をかちゃかちゃと回している。注意深くドアを押すと、ぎーっと嫌な音を立ててドアが 開いた。
「おや、どういうことだ?」
 剛さんはそうつぶやいて、こちらに固まっているスタッフを振り返った。
「……何か、いたんですか?」
「うん。弟が、寝てる。丸まって」
 ぱたぱたぱたと小さく聞こえているのはカーテンが風にはためく音。中庭に面したその 窓がなぜか全開になっているのを剛さんは不思議そうに見る。そしてもう一度床の上の弟 に視線を投げて…。
「――おい、健? 何やってんだ、こんなとこで」
「声かけないでくださーい。やめましょー、もう、逃げましょーよー、剛さーん」
 実の弟を発見して声をかけた剛さんに罪はない。いたって当たり前の行動だっただろ う。それが、本当に、弟本人なら。
「にゃーっ!?」
 いきなり起こされて驚いたのだろう。健くんは悲鳴を上げてすごい勢いで後ろに飛び退 いた。悲鳴…にしては奇妙だったがとにかくその勢いのまま窓に駆け寄り、その窓から身 を躍らせる。これには剛さんも驚いた。
「健? ここ2階だよ。おい?」
 駆け寄った窓から急いで探したが、もうその姿はどこかに消えた後だったのである。





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