a cup of day 8−3                              






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 3人が走って行く方向から、不穏なざわめきが伝わってきていた。
「警察が来たようだね」
 まだ興奮を残しつつもそこに安堵の気配が入っていることに気づいた彼らの足はゆっく りになり、そして歩きに変わった。向こうからやってくる通行人たちとすれ違いながら、 彼らの会話が耳に入る。
「ドロボウ? それともひったくりだったのかな、あれ」
「うん、捕まってよかったよね。でもひどい匂いがしてなかった? 催涙ガスかも」
 催涙ガス?
「あのさ、犯人を取り押さえたヤツってなんか見覚えなかった?」
 などという意見もあり。
 3人は目でうなづき交わし、それぞれにほっとした表情になった。
「道に迷わずにちゃんと追跡できたんだね、彼も」
「標的を追う分には迷わないんだろうさ」
 ジノとヘフナーの会話にはこれまで彼らが受けてきた実害分の実感があった。
「で、その取り返したハンザカップ。例の純金製の、なのかな」
「さあな。鑑定すればすぐにわかるだろうが――」
 二人の会話は先へと遠ざかって行き、その背後で若林が一人足を止めた。
 引き止めたのは、その気配。
「森崎…!」
 通りの風景は消え、その瞬間そこは異空間に切り替わっていた。
 そこで、若林と顔を見合わせていたのは――。
『えっ、若林さん――!?』
 まずはぽかんとし、それからあわてたように森崎は自分の周囲をきょろきょろと見回し た。若林に駆け寄ろうとしたがどうもそこに見えない壁か何かがあるようで、そこに突き 当たってそれ以上近づけないらしい。
 その森崎の不安げな表情を見て若林は苦笑した。誰のせいでこういうことになったのか やっぱり自覚がないとは。
『あんなにゴチャゴチャいろんなものを巻き込んでたくせにな』
『え…?』
『今は何も残ってないな。全部片がついてそれぞれの場所に戻ったってことか。――で、 おまえも嫁さんには会えたのか?』
『あっ、は、はい』
 すべて納得している顔の若林にちょっと戸惑いつつも、森崎はうなづいた。そして笑顔 になる。
『あのっ、さっき若島津がここを通って行きました。なんか、猫を抱えてましたけど。後 で会おうって言ってました』
『そうか』
 若林も表情を緩めた。
『ならおまえも早くそこから戻って来い。待ってるぞ』
『はい。――あれっ、若林さん?』
 うなづいたと同時に森崎の姿がすっと薄れた。きっと、どこかで目覚めたのだろう。夢 は、いずれにしてもいつか覚める。
 自分が立っていたそこが、ただの石畳の通りに戻っていたことに気づいて、若林は肩の 力を抜いた。そうしてまた歩き始める。ほんの一瞬ほどの邂逅だったらしく、先を行くヘ フナーとジノからはまだそれほど引き離されてはいなかった。
 追いつこうと足を速めたその時、彼らの前にパトカーが1台停車した。
「シュナイダー!?」
 中から降り立ったのはその話題の主だった。もちろん犯人逮捕の後で帰り道がわからな くなって送ってもらうところだっただけなのだが。
「ワカバヤシ、おまえに話がある」
「え?」
 いつになく重い雰囲気を漂わせたシュナイダーに、ジノが何かぴんと来たようだった。 「じゃ、僕ら子供たちのこともあるから先にね」
 とヘフナーを急かしてパトカーに乗り込み、去って行ってしまう。
「ヘフナーの弟? 今、あいつらが子守りをしてるってのか?」
「…ああ、両親が留守だからと聞いたが」
 他人のプライバシーに反応するのも珍しいことだ、と若林は思った。そう言えばこのシ ュナイダーも森崎の夢に紛れ込んでいた一人だった。さっき見た限りではその姿はもう消 えてしまっていたから、彼のSOSも解除になったということか、とも考える。
「俺は――」
 若林が黙ったままなのでシュナイダーは自分から話を始めた。
「父親と一緒に暮らせることを願いながら子供時代を過ごしたから、あいつの気持ちはわ からない。あいつの中では最初から存在しないんだ、親も、兄弟も。動物にしたっていつ かは死に別れることを前提にしている。距離を置いているんだ、すべてのものと」
「シュナイダー?」
 若林は虚を突かれる。まさかシュナイダーがこんなふうにヘフナーをしっかり把握して いたとは。
「だが、俺はあいつを子供の頃から知ってる。なぜああいった考え方をするのかも、共感 はできなくても理解はできる。――だが、おまえはそうじゃないんだ、ワカバヤシ」
「えっ…?」
 唐突に話題が自分に向けられたので若林はどきりとする。どこまでもマイペースな皇帝 閣下の思考回路だけに予測ができない。
「おまえの、他人との距離のとり方が俺には理解できない。日本人だからか、おまえ自身 の性格なのか知らんが。そいつがおまえだけのことなら俺は構わない。他人が口出しする ことではないからな。問題はマリーに対しての態度だ。こればっかりはおまえの勝手では 済まされない。説明を――釈明をしてもらうぞ」
「シュナイダー」
 そこまで聞いて若林はいくらか安心もし、そして別の困惑にため息をついた。
「まあ今はそいつはおいておいてだな…」
「俺が一番許せないのがそれだ」
 シュナイダーの目に、静かに氷の炎が灯る。
「マリーはあんなに真剣に、一途におまえを追い続けているというのに、おまえはいつだ って本心は見せずにそうやってのらりくらりと…」
「あぁ?」
 若林はきょとんとした。シュナイダーの意図が読めないのだ。
「おまえがそれを言うか? 俺を害虫扱いしてマリーに近づけないようにしてるのはおま えだぞ? けしかけたいのか追い払いたいのかどっちだ」
「俺は別にマリーに恋愛禁止令を出しているわけじゃない。マリーが幸せになるならどこ の誰を連れて来ても構わない。だが、おまえは許せん。おまえにだけは渡すわけにはいか ない」
「ほう?」
 若林は真顔になった。
「すると俺はマリーを不幸にするって言いたいのか」
「違う。おまえはマリーを不幸にしているからだ、既に、今!」
 ぴしりと指を向けて宣言したシュナイダーを若林も負けずに睨み返す。こうなったら理 屈は二の次、気迫の勝負だった。
 サッカーにおいての対決さえ凌ぐかと思われた火花散る睨み合いも、しかしそこまでだ った。もっと強烈な言葉が二人に浴びせられたのだ。
「バカじゃないの、お兄ちゃんも、ゲンゾーも!!」
 突然割って入ったその声に、シュナイダーと若林は凍り付く。同時に振り返ったそこに は、怒りの形相をした少女が仁王立ちになっていた。
「私は誰にも不幸になんてされないし、幸せにしてもらうこともないわ。私が自分で不幸 にもなるし幸せにもなるの。いい加減にしてちょうだい!」
「マリー!?」
 あまりの迫力に、シュナイダーも若林も呆然としている。特にシュナイダーは「お兄ち ゃん」という幼い頃にだけ使われていた呼び方をされたのが逆にショックを大きくしたよ うで、半分青ざめかけている。
「マリー、でもどうしてここに?」
 なんとか現実的な方向に話を向けて立て直しを図る。
「ゲンゾーを探してに決まってるでしょ。サービスエリアの駐車場にゲンゾーの車が無人 で置き去りにされているって警察からクラブに照会があったんだから。これは何かあった って思うに決まってるでしょ」
 マリーは厳しい顔のまま説明を続ける。
「それで日本チームの滞在先に問い合わせたらケルンじゃないかって言われてここに来た の。そうしたらケルン駅でモリサキさんが待ってて、ここだって教えてくれたのよ」
「…森崎が?」
 若林は、森崎の無意識空間の渦にマリーの姿もあったことを思い出す。森崎ともそこで 話したのだろう。とすればマリーもまたSOSを発信していた一人ということだ。
「どうせ大会の応援には行くつもりだったから、これくらいの寄り道はなんてことないし ね」
 いや、相当な遠回りですが。
「それに、モリサキさんの奥さんのことも聞いたのよね。赤ちゃんがもうすぐ生まれるっ て、知らなかった。感動ね」
 打って変わって無邪気な笑顔を若林に向けるマリーを見て、シュナイダーはまたさらな るダメージを受けたようだった。それでもなんとか最後の力を振り絞る。
「マリー、ほんとにこんな奴がいいのか? サッカーのことしか頭になくて、傲慢で人を 見下していて、自己中心的で、それに女好きだぞ」
「あら、それって全部カールと同じじゃない」
「俺は女好きなんかじゃない!」
 じゃあ、それ以外は認めるわけだ。
「俺だって女好き…ってほどじゃない!」
 こちらの主張は兄妹ともから黙殺されたが。
「それがいいの。どんな所も、それが全部揃ってゲンゾーなんだから。私が追いかけたい から追いかけるのよ」
 マリーはにっこり笑った。
「私が振り向いてももらえない可哀想な立場だなんて思ってるの? ゲンゾーが本気かど うかなんて関係ないわ。私のモットーは『攻撃は最大の防御なり』なんだから」
 その輝くような笑顔をもう一度二人に向けてから、マリーはさっさと先に立って歩き始 めたのだった。





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