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「親父、見てたかな」
考えていたことをズバリ口に出され、若島津は思わず手にしていたスティックシュガ
ーの中身を全部コーヒーの中にぶちまけてしまった。
「怖いことを言わないでください、兄さん」
「そうか?」
テレビ局の喫茶室はちょうど昼どきとあってけっこうテーブルが埋まっていた。若島
津剛は流れるBGMに無意識に足先を動かしながらホットチョコレートのカップを口に
運んでいる。
「大体、兄さんこそいいんですか、あんな滅茶苦茶なこと言っちまって」
「だって嘘は言ってないぜ」
「そりゃまあ、そうでしょうけど…」
思わず語尾から力が抜ける。嘘ではないとしても明らかに誤解を増幅させる意図で発
言したのは誰なのだ。
芸能人の思考回路なんぞとても理解できない、と言ってしまいたいところだが、問題
はこれが実の兄であり、さっきの騒動で報道陣にもみくちゃにされてカメラやマイクに
囲まれたのが自分自身だという点である。
「大丈夫さ、これもサービスのうち♪」
にっこり笑う剛の笑顔に、はす向かいのテーブルの女子職員たちが見とれている。そ
の笑顔の奥にあるものを知らずに喜んでいられるとは幸せなもんだ、と、そちらを目の
端に止めつつ若島津はため息をついた。
「おまえは家にいないから家族の取材なんかが来てもおまえだけ顔が知られてなかった
んだよな。ま、これでテレビデビューできたんだ。よかったな、健」
「良かありませんっ! 何がデビューですか!」
周囲に聞かれないように思い切り声を落としての反論である。その分、目つきに凄み
が増す。もちろんそんなものでは兄はビクともしないが。
「これを機会に本当にデビューしちまったらどうだ? でも歌はだめだぞ。俺のライバ
ルが増えるのは困る…。うん、俳優とか?」
外見の見ばえはともかく性格のほうがとても芸能界向きとは言えない弟は、その言葉
を目いっぱい無視してコーヒーをごくりと飲んだ。思わずその甘さに引きつる。
「そうか、おまえはテレビは今さらだったな。サッカーやってんだから。こないだの夏
は衛星中継までされてたっけ。しかしおまえ、テレビ映りはもっと考えないと」
「余計なお世話です。スポーツ選手がテレビ映りを気にしてどうすんです!」
「いやいや、そーゆーこと言ってるから日本はいつまでたってもサッカー強国になれな
いんだ。サッカーももっとパフォーマンス性を追及しなきゃ世界レベルには追いつけな
いぞ」
沈黙が流れた。一方は反論する気力を失ったため、もう一方はホットチョコレートを
口にするためである。と、その沈黙の中いきなりぬっと姿を現わした人物があった。
「ワカシマヅ!」
その名に該当する二人が顔を上げると、そこには無表情なドイツ人キーパーが立って
いた。普通の人間にはまったくわからなかっただろうが、こう見えて彼は血相を変えて
駆けつけてきたのだ。表情の変化の乏しさにかけてはお仲間でもある若島津はすぐにそ
れを読み取ったようである。
「ヘフナー、どうしたんだ!?」
確か新宿の病院からここに来る話にはなっていたが。
「モリサキが、連れ去られた!」
「なに!」
若島津は立ち上がった。
「今俺がちょうどこの建物の前に来た時に、例のオースチンがいてモリサキが押し込ま
れるとこだったんだ。急いで追いかけたんだが間に合わなかった…」
「若林には?」
「すぐ伝えた。だが、モリサキからの返答はないそうだ」
「返答が…ない?」
既に早足で喫茶室を出ながらの会話である。剛も黙って後を追ってくる。
「どういうことだ、それは…」
「わからん。そっちはワカバヤシに任せるしかないしな」
「ね、勢至は?」
背後から剛が呼びかけてきた。若島津が事情をヘフナーに伝える。
「ワゴン車はいなかったか? 兄貴の仲間が一緒にいたんだが」
「ああ、ドライバーだな。それなら無事だ。車はそのまま待っててくれるように頼んで
おいた。なんか俺を見てびくついてたようだったが」
気の毒に、と若島津は心の中でつぶやいた。あんな外国人の追っ手に襲われてさぞ怯
えていただろうに、そこにさらにこんなのが現われたのでは心臓に悪かったことだろ
う。
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