四章−1




第四章 GOOD NIGHT BABY







「親父、見てたかな」
 考えていたことをズバリ口に出され、若島津は思わず手にしていたスティックシュガ ーの中身を全部コーヒーの中にぶちまけてしまった。
「怖いことを言わないでください、兄さん」
「そうか?」
 テレビ局の喫茶室はちょうど昼どきとあってけっこうテーブルが埋まっていた。若島 津剛は流れるBGMに無意識に足先を動かしながらホットチョコレートのカップを口に 運んでいる。
「大体、兄さんこそいいんですか、あんな滅茶苦茶なこと言っちまって」
「だって嘘は言ってないぜ」
「そりゃまあ、そうでしょうけど…」
 思わず語尾から力が抜ける。嘘ではないとしても明らかに誤解を増幅させる意図で発 言したのは誰なのだ。
 芸能人の思考回路なんぞとても理解できない、と言ってしまいたいところだが、問題 はこれが実の兄であり、さっきの騒動で報道陣にもみくちゃにされてカメラやマイクに 囲まれたのが自分自身だという点である。
「大丈夫さ、これもサービスのうち♪」
 にっこり笑う剛の笑顔に、はす向かいのテーブルの女子職員たちが見とれている。そ の笑顔の奥にあるものを知らずに喜んでいられるとは幸せなもんだ、と、そちらを目の 端に止めつつ若島津はため息をついた。
「おまえは家にいないから家族の取材なんかが来てもおまえだけ顔が知られてなかった んだよな。ま、これでテレビデビューできたんだ。よかったな、健」
「良かありませんっ! 何がデビューですか!」
 周囲に聞かれないように思い切り声を落としての反論である。その分、目つきに凄み が増す。もちろんそんなものでは兄はビクともしないが。
「これを機会に本当にデビューしちまったらどうだ? でも歌はだめだぞ。俺のライバ ルが増えるのは困る…。うん、俳優とか?」
 外見の見ばえはともかく性格のほうがとても芸能界向きとは言えない弟は、その言葉 を目いっぱい無視してコーヒーをごくりと飲んだ。思わずその甘さに引きつる。
「そうか、おまえはテレビは今さらだったな。サッカーやってんだから。こないだの夏 は衛星中継までされてたっけ。しかしおまえ、テレビ映りはもっと考えないと」
「余計なお世話です。スポーツ選手がテレビ映りを気にしてどうすんです!」
「いやいや、そーゆーこと言ってるから日本はいつまでたってもサッカー強国になれな いんだ。サッカーももっとパフォーマンス性を追及しなきゃ世界レベルには追いつけな いぞ」
 沈黙が流れた。一方は反論する気力を失ったため、もう一方はホットチョコレートを 口にするためである。と、その沈黙の中いきなりぬっと姿を現わした人物があった。
「ワカシマヅ!」
 その名に該当する二人が顔を上げると、そこには無表情なドイツ人キーパーが立って いた。普通の人間にはまったくわからなかっただろうが、こう見えて彼は血相を変えて 駆けつけてきたのだ。表情の変化の乏しさにかけてはお仲間でもある若島津はすぐにそ れを読み取ったようである。
「ヘフナー、どうしたんだ!?」
 確か新宿の病院からここに来る話にはなっていたが。
「モリサキが、連れ去られた!」
「なに!」
 若島津は立ち上がった。
「今俺がちょうどこの建物の前に来た時に、例のオースチンがいてモリサキが押し込ま れるとこだったんだ。急いで追いかけたんだが間に合わなかった…」
「若林には?」
「すぐ伝えた。だが、モリサキからの返答はないそうだ」
「返答が…ない?」
 既に早足で喫茶室を出ながらの会話である。剛も黙って後を追ってくる。
「どういうことだ、それは…」
「わからん。そっちはワカバヤシに任せるしかないしな」
「ね、勢至は?」
 背後から剛が呼びかけてきた。若島津が事情をヘフナーに伝える。
「ワゴン車はいなかったか? 兄貴の仲間が一緒にいたんだが」
「ああ、ドライバーだな。それなら無事だ。車はそのまま待っててくれるように頼んで おいた。なんか俺を見てびくついてたようだったが」
 気の毒に、と若島津は心の中でつぶやいた。あんな外国人の追っ手に襲われてさぞ怯 えていただろうに、そこにさらにこんなのが現われたのでは心臓に悪かったことだろ う。
 ヘフナーの言った通り、剛’sクルーの楽器運搬用のワゴン車はさっきと同じ場所に 停まっていた。もちろん今日は演奏をしたわけではないので積荷はなかったのだが。
 三人が駆け寄って行くと運転席の勢至はびくっとして振り返り、そこに剛の顔を認め てやっとホッとした表情になった。ドアを開けて身を乗り出す。
「剛〜、どうなってんだよ、これー」
「何があったんだ?」
「ほ、本物の銃だったぜ、あれ! ここんとこから突きつけられたんだ…」
 勢至は窓を指して声を震わせる。
「外国人2、3人で――あの男の子だけ引っ張ってったんだ。あ、それでこいつを押し 付けてった…」
 二つに折り畳んだ紙片が剛の手に渡された。それを開いた剛はすぐに弟を振り返る。 「ドイツ語だ」
 若島津のさらに背後からヘフナーが手を伸ばしてそれを奪い取る。勢至の顔色が変わ ったのを見て若島津が急いで言った。
「こいつは俺のサッカー仲間です。大丈夫ですから」
 何が大丈夫かよくわからないが。
「――ひょっとしてグスタフ・ヘフナーくん?」
「え、兄さん、なんで名前を?」
「うちの留守番電話に、3曲もドイツ民謡を歌ってくれたんだよね、メッセージと一緒 に」
 難しい顔で紙片を眺めていたヘフナーが顔を上げた。剛と目を合わせると無言でニヤ リと笑いを浮かべる。剛もにっこりと手を差し出し、握手を交わしながら剛はそのまま 左手でヘフナーの背中をぽんぽんと叩いた。
「いやあ、なかなかすばらしいバリトンだったねえ。今度一緒に歌おうな」
「テレビで見てすぐにわかったよ。あんたのドイツ語もすばらしい出来だったぜ」
 そばで勢至が頭を抱えた。心当たりがあるらしい。留守番メッセージをわざとドイツ 語で吹き込み、『ご用件のある方は一曲お歌いになってからメッセージを…』などと入 れる冗談くらい日常のことであり、彼自身も何度その手のイタズラの被害を受けたこと か。もちろんその冗談を真に受けるかさらに冗談で返すかはその相手の人間性次第とい うことになるが。
 若島津はヘフナーがその後者であると知っていたから、話題を変えた。
「で、そのメモはなんだったんだ?」
「間抜けな奴らだよ。モリサキと引き換えにもう一枚のディスクをよこせだと。当の本 人を人質にするとは」
 ヘフナーは冷笑を見せた。若島津は小さくため息をつく。
「引き換えね。命をとられたくなければ、ってやつか」
「まあ定番だな」
「場所は?」
「シンジュクだ。公園の名前が書いてある」
「…新宿?」
 二人は顔を見合わせた。
「まさか若林の居場所がバレたとかじゃないな?」
「そうならないように俺がこっちに出向いたんだ。尾けられないように。俺たちは逃げ られるがあいつは動けないんだから」
 二人は同時に口を閉ざした。若林に呼びかけるために。
 が、返答はない。しばらく間を置いて試したが結果は同じだった。
「どうしたんだろう」
「受診中かもしれんが…ちょっと嫌な感じだな」
「よし、じゃあ手分けしよう。俺は森崎のほうに行くからおまえは若林を頼む」
 ヘフナーはうなづいた。若島津はワゴン車に近づくと、先に乗り込んでいた助手席の 兄に声をかける。
「兄さん、こいつを乗せてってくれませんか。どこか適当なところまででいいですか ら」
「かまわないけど。適当って、どこだ?」
「彼の鼻任せですよ」
 弟の言葉に剛はきょとんとした。そして笑い出す。
「そいつは面白いな。事情はわからんが困ってるようだし協力するぜ。これはいよいよ 俺の好みだ」
 隣で、そういうのが全然好みではない相棒が嫌な顔をしているのにも気づかず、剛は にこにことヘフナーを車の中に招き入れた。先程のこともあるので若島津は釘を刺す。 「駄目ですよ、さっきみたいな協力は。それからヘフナーをスカウトするのも禁止で す」
「う〜ん、惜しい。ウチのメンバーにしたかったのに…」
 勢至の顔がパリパリとこわばる。冗談とわかっていても油断ができないのが剛である と知っているだけに。冗談もいつ本気にすり替わりかねないのだ。何より、剛’sクル ーの誕生そのものがそうだっただけに。
 走り去るワゴン車を見送ってから、若島津は地下鉄駅のほうへ足早に向かって行っ た。
 一月一日の東京の空は厚い雲天井に覆われて、寒々とした町並みに薄ぼんやりと光を 落としている。相変わらずの異常乾燥注意報が連続記録を伸ばしていた。






――も・り・さ・き。
「…はい」
 自分の返事ではっと目を覚ます。目を上げると走る車の中だった。隣に座る大柄な外 国人がじろりと見下ろす。
――そうだ、捕まっちゃったんだ。また昨日のホテルに連れてかれるのかなぁ。まさ か、今度こそ殺されるなんてことは…。
 ぼんやりと考えているうちにまたまぶたが重くなってくる。
――なんでこんなに眠いんだろう。二日続けてあまり眠ってないからかな…。そうだ、 さっきの声って若林さんかな。…若林、さん……。
 森崎はまたそのまま眠りに落ちていった。後部座席の男が肩をすくめる。
「何なんだ、こいつ。騒ぐどころかさっきからウトウト眠りこけやがって。自分の立場 がわかってんのか?」
「えっ、昨夜はお楽しみだったみたいだからな。疲れてんだろ、まったく!」
 助手席の金髪の男がいまいましげに応じる。何だかんだと手こずってばかりで、すぐ に片がつくはずの仕事は予想外に難航している。もう今日あたりにはすべてすませて帰 国のはずだったのに。
 首都高速はいつになくすいていた。黒のオースチンは目的の場所を目指してやがて高 速を下りていった。






 電話回線の向こうの人物はヘフナーが名乗ったとたんに声を荒げた。ヘフナーは急い で言葉を挟む。
「待ってくれ! ワカバヤシがいないって? ――違う、俺は連れ出したりなんか …!」
 公衆電話のボックス越しに、車の中からこちらを見ている剛と視線を合わせる。
「…もちろん。でなきゃ、こうして電話なんてするはずないだろう。いついなくなった んだ、あいつは!」
 看護士の答えを聞いてヘフナーは腕時計を見る。たった20分ほど前――彼が最後に 若林と話したすぐ後くらいになる。
「わかった。じゃ、こちらでも捜してみます」
 病院側があわてるのも無理はない。なにしろ昏睡状態からようやく覚めたばかりの重 症患者なのである。完全看護下にあった彼がわずかな隙に姿を消したとなると、知人だ と言ってずっと付き添っていたヘフナーがまず疑われたのは当然だったのだ。
 ボックスから出るとヘフナーは選定された裸のポプラ越しに空を見上げた。若林はあ の連中に連れ去られたのか。
 いや、ヘフナーの勘はそれを否定していた。それをもう一度確認するかのようにぐる りと体を回して四方の気配を嗅いでからヘフナーは再びワゴン車に戻った。剛が物問い たげに助手席から振り返る。ヘフナーは座席に深くもたれ、一回深呼吸してから口を開 いた。
「今から迷子探しをするから、俺の言う方へ走らせてくれないか。一緒に外を見ていて ほしいんだが。特徴は、黒のレザージャケットを着た15才くらいの坊やだ――」
 剛が興味津々で瞳を輝かせるのにはあえて応えず、ヘフナーは窓の外の流れる街並み にじっと集中しながら化石のように動かなくなってしまった。






「俺の相棒を返してもらおう…」
 凄んでいるつもりはないのだが、背後には黒いオーラが渦巻いている。
「ほう、来たか。きれいな顔してなかなか気丈なねーちゃんだ。例のものを先によこし な」
 言っておくが、このドイツから来た男たちは目が悪いわけではなく、それなりに実戦 を経験してきたプロフェッショナルなのだ。しかしこれだけの身の丈、たくましい肩 幅、筋肉がまさっているたくましい胸も、実は彼らの故国では女性が一般に持っていて 違和感のないものだったことが判断を狂わせていた。しかも若島津はその長髪に女顔、 さらに声まで細いと来ているから、ここで迎えた兄さんを笑うことはできないのだ。
 幸か不幸か二人は互いに母国語ではない英語で会話をしていた。男の英語はナマリが 強くて若島津にはその10%くらいしか通じていない。対抗上、こちらも日本語で答え る。
「俺は外国語については善意で聞くことにしてる。つまり、耳に入ってくるのは俺にと って都合のいい部分だけってことだ」
 ちなみにドイツ人の兄さんも日本語はごくごく基本のあいさつくらいしか知らない。 従って双方でいくら凄みを利かせた会話をしても、話が通じているとはとても言えない 状態だった。
「まさか持って来ていないって言うんじゃないだろうな。…おい、色男さんよ、彼女の お迎えだぜ。せめて顔くらい見せてやれ」
 足元の植え込みを靴先でつつく。こんな所に連れて来られてなおすっかり眠りこけて いた森崎がゴロンと転がり出た。そのままぼーっと目を開いた森崎は、数メートル先に 仁王立ちになっている空手キーパーの姿に気づくとぱっと起き直る。
「わ、若島津!!」
 それを見て若島津はずいっと一歩を踏み出した。
「そいつは、俺の大切な日向さんが執心の翼が責任を持っているキーパーだ。おまえら に好きにさせるわけにはいかん」
「だめだ、来るな!」
 こちらも負けずに叫び返す。
「俺は大丈夫だから! おまえは俺の敬愛する若林さんが目をつけてる日向の古女房 だ。おまえに何かあったら俺の立場がないしっ!」
 共になかなか過激でなおかつまわりくどい関係を吐露し合う。が、それさえもドイツ 人たちにとっては愛の告白に見えただけだった。
「フン、見せつけてくれるじゃないか。そんなに一緒にいたいなら、二人揃ってあの世 に送り届けてやるぜ!」
 スーツの下のホルスターからオートマチック銃を取り出してゆっくりとサイレンサー を装着する。それを見た若島津がすぐに反応して身構えた。が、飛び掛ろうとするその 動きより一瞬早くその足元でバシュッと鈍い音をたてて銃弾が地面をえぐった。
「…と、いうことだ。いかに気丈な姉ちゃんでも素手でどうこう手出しのできる状況じ ゃないぜ」
「…素手で、だと?」
 若島津のにわか仕立ての善意は今の挑発で彼方に吹っ飛んだらしかった。おかげで理 解不能だった相手の言葉の理解率が50%にまではね上がってしまった。
「空手の有段者の素手はすなわち凶器と見なされるのを知らんのか…?」
 若島津の根暗い笑みと、万国共通後である「カラテ」の一言にやや動じた兄ちゃん は、ずいっとさらに一歩近づこうとした若島津の足先にまた一発打ち込んだ。
「それ以上寄るな! 俺は女は撃たないことにしてる。だがそれ以上動くならケガをす ることになるぞ!」
 若島津の眉がぴくっとつり上がり、目に鋭い光が宿った。
「女は撃たん? おまえ、男女雇用均等法を知らないようだな」
 じりっと足が動く。
「それに俺は――男だ〜〜っ!!」
 叫ぶと同時に若島津の体が宙を舞い、男の頭部に蹴りが炸裂した。…と思われたがさ すがはプロ、一瞬の差で体を回してかわしたので、代わりに彼の背後にあったスズカケ の立木の太い枝が派手な音をたてて砕け散った。ついでに高いこずえからスズカケのト ゲトゲの実がいくつも降ってきて、さっきまで男が立っていた敷石の地面に当たって跳 ね返る。
「…男? だと?」
 殺し屋の兄さんは銃を構えたまま、若島津の位置から数メートル離れて立ちつくして いた。顔が微妙に引きつっていく。
「…じゃ、ゆうべ…ホテルで、おまえら…するってーと」
 一言口に出すごとに彼の価値観がガラガラと音をたてて崩れていくのが見えるようだ ったが、若島津はその様子を面白がることにかまけて男が次に言おうとしていることま では考えていなかったため、そのセリフはみごとに直撃となってしまった。
「おまえら男同士でヤッてたのか――っ!!」
「なんでそーなるんだっ!! あれはおまえが勝手に想像しただけだろーが!!」
 いや、つい冷静さを失ってしまったようだ。
 こういう誤解は実はしょっちゅう受けている若島津ではあるが、普段は自分でそうい う誤解を仕向けて楽しんでいるフシがあった。しかしそれらはすべて特定の人物が相手 を想定したものであり、よりによって森崎相手に言い立てられては不本意を通り越して 情けない。
「ひえ〜っ」
 一方の森崎も、情けないどころか既に死活問題である。もしこんなことがあの日向小 次郎の耳に入りでもしたら…。彼にはその先を想像する勇気がなかった。とにかく今度 こそ翼のいない普通の高校で普通のサッカーをする予定なのだ。なのに翼がいない代わ りに別の意味で日向に付け狙われることになったら…。
 年明け早々になんという事態だろう。一年の計は元旦にあり、とも言うし。…いやい や、とんでもない!
「わ、若島津、今の話、ここだけってことにしとこうな、頼むから――」
「当たり前だ! じゃ手始めにこのおっさんの口封じだな」
 仮にもその道のプロを前にしてその口封じを公約する中学生って…。しかも、言い終 わらないうちにもう行動に出ている。
 銃口をこちらに向けている相手に向かって、若島津は再び攻撃態勢に入った。
 まだショックから立ち直れずにいたドイツ人は、しかしさすがにプロだけあってその 若島津の動きに反応して我に返った。
「ディスクを渡さないというのならしかたがない。おまえ達には余計なことまで知られ すぎたからな。最初から口を封じるつもりだったんだ」
 男は銃を構えて照準をぴたりと若島津の額に合わせる。まだへたりこんだままだった 森崎が青ざめた。
「待てっ、ダメだ! 若島津、本当に殺されるぞ!」
 若島津は表情を変えなかった。いったん足を止めはしたが、相手を見据えたまま、さ らに一歩を踏み出そうとした。それを押しとどめたのは…。
「やめろーっ! 森崎は俺だっ!!」
 全身を震わせて振り絞った叫びは、文字通りその場を凍りつかせた。男はびくっと体 を固くして振り返る。そしてゆっくりと一言ずつ区切って質問を口にした。
「おまえが、『モリサキ』…だと?」
 膝をついた姿勢から森崎も静かに立ち上がった。そして相手の目をじっと見つめ、や はり一語一語はっきりと繰り返した。
「そうだ。俺が森崎だ」
「…おまえっ、何てこと言うんだ!」
 若島津が声を荒げる。名を伏せている限り森崎は単なる人質としてのみ扱われるはず だったのだ。それが今名乗ったばかりに、彼らが追っている機密のカギのありかを知ら せてしまったことになる。
「…なるほどな。プロジェクト名はおまえの名前だったのか。なら、おまえを消すのが いちばん手っ取り早いってことだな」
 男は再び銃を持つ手を上げ、森崎にピタリと狙いを定めた。森崎は一歩後退りする。 それを見て男がせせら笑った。
「今さら逃げられると思うのか。俺はプロだぜ」
 『プロ』という言葉を耳にして、森崎ははっと表情を変えた。
「プロ? …プロと言ったな、今」
 ひとりつぶやくように言ってから、Gパンの尻ポケットから練習用のキーパーグラブ を引っぱり出し、それを両手にはめた。その唐突な行動に、男も、そしてこちら側の若 島津までが呆気にとられた。
「森崎…?」
 恐怖のあまりおかしくなったのかと若島津は駆け寄ろうとした。が、森崎はキッと振 り向くと厳しい声でそれを止める。
「若島津、今のうちに逃げろ。俺がこいつを引きつけてる間に」
「なっ…、何言ってんだ、おまえ?」
「いいか、俺みたいなヘボキーパーには、取ろうとすればするほどキャッチできないも のなんだ。相手が上手い奴ほどな」
「は?」
 若島津は目を見開く。何を、言っているんだ?
「だからこいつがプロだと言うのなら俺には絶対に取れない。つまり、逃げる代わりに 取ろうとすればいいんだ。そうする限り、俺には絶対に弾は当たらない!」
 きっぱりと宣言する森崎に、若島津は今度こそ頭を抱えたくなった。
 さすがに伊達に南葛でサッカーをやってきていない。荒唐無稽なプレイにさらされ続 けて、思い込みが完全にズレている。冷静に客観視すれば絶対にありえないことでも、 集団心理の勢いだけで周囲にも自分たちにも納得させてそして実現さえしてしまう。つ まりは翼の方法論がすっかり身になじんでいるのだ。4年間どうしても南葛に勝つこと ができなかった理由が今見えたような気がした。まさに、思い込みは地球を救う…の境 地である。
「くそっ、訳のわからんことを…。これが最後だ!」
 二人の日本語の会話がわからない殺し屋には、単に追い詰められて開き直ったように しか見えなかったようだ。正面で身構えている森崎に向かっていきなり発砲した。
「森崎―っ!」
 若島津の叫びが響く中、森崎は表情を引き締めた。自分に向けられた銃弾に真剣に向 き合い、真剣にそれを「追おう」とする。弾道に必死に反応をし、そしてその健闘空し く弾は後方にそらしてしまった。
「さすが、プロ」
 森崎の賛辞を、自分を馬鹿にしていると受け取った男はさらに逆上し、続けざまにま た発砲する。しかし標的のほうは逃げることもせずに今立っている場所で左右に数歩ず つ動いて手を伸ばすだけで、すべて避けてしまうのだった。男の顔が怒りのあまり蒼白 になる。相手が実は銃弾を避けているのではなく逆につかまえようとしているのだと知 ったら、おそらく倒れてしまうことだろう。
「こっ、この野郎っ…!」
 立て続けに飛んで来る銃弾は、しかし最初こそ森崎の狙いとはまったく違う方向にそ れていたが、しかしわずかずつ体ギリギリにかすめるほどになってきていた。森崎の理 論には入っていなかったが、いかに射撃の腕を誇るプロフェッショナルでも平静さを失 えば狙いも狂う。それと、あまり信じたくないことだったが、何発もの銃弾に真剣に対 しているうちに森崎のその必死さゆえか、次第に反応が鋭くなってきているような…。 「森崎、もういい! もういいからやめろ!」
 若島津はそのことに気づいて愕然となる。しかし森崎の耳にその声は届いていないよ うだ。逃げる意志が最初からないのに加え、狙撃手のほうが理性を失って立て続けに発 射するせいでその矢面から一歩も動けないでいるのも事実だった。
「あっ!」
 その瞬間だった。
 伸ばした森崎の右手の指先が弾丸を受け、グラブが背後に弾け飛ぶ。衝撃で森崎の体 も半回転し、バランスを崩してよろめいた。
 が、彼にとって幸運だったのは今のがちょうど14発目、つまりカートリッジ最後の 弾丸だったということである。男は舌打ちをして新しいカートリッジに交換しようとし た。
「くらえっ!」
 そこに空を切って飛んで来たのは靴だった。狙い過たず男の顔を直撃する。若島津が スキを見て自分の靴を投げつけたのだ。しかも中に砂、土、小石がぎっしり詰めてあっ たのでその重さとパワーも倍化され、スピード、コントロール共に申し分のない若島津 のスローは見事に男の不意を突いた。さらに中身が弾け出て頭上からありったけ撒き散 らされた。
「うわっ、畜生! 目に…!」
 目ばかりかそうやって叫んだ口の中にまで入ってあわてて吐き出す。男がひるんだの を見て若島津が駆け寄った。まだ呆然としている森崎の腕をひっつかんで駆け出す。
「おまえ、片足…」
「構ってられるか!」
「うん、俺のグラブも…」
 あっという間に二人はその場から走り去り、後に残るは片方の靴と片方のキーパーグ ラブ。
 まるでシンデレラである。そんなメルヘンなものではないが。






「だから! 一方通行が多いんだから、ここらは!」
 矢継ぎ早に背後から飛んで来るヘフナーの指示に、とうとう勢至が悲鳴を上げた。
「剛、そう説明してやってくれよ。おまえドイツ語選択してんだろ?」
「あいにく単位が取れるかギリギリのとこなんだ、欠席続きで。えーと、一方通行って なんて言うんだっけなあ…」
 首をひねりつつも楽しげな剛を横目に見て、勢至はいよいよこの状況から下りたくな ってしまった。彼はまだまだ常識の通じる平穏な人生への憧れを捨て去ってはいなかっ たのだ。しかしそこに立ち塞がる最大の障壁である若島津剛は、本業、副業、私生活の 全分野において行動を共にする間柄となっており、彼の希望は希望のまま潰え去る運命 にあるらしかった。
「左だ! そこの道――違うっ! おい、引き返せ!」
 最初のうちは不気味なくらい無反応のまま沈黙していたこのドイツ人キーパーは目的 地に近づくにつれ動きを見せ始め、新宿の西口側に周ってきた頃にはすっかりマシンガ ンと化していた。
「あのさ、ヘフナー君。あいにくONE WAYなんだ、この道は。…わかるかな?」  ヘフナーはこの2人に対しては一応ずっと英語で通していたが、興奮してくるとドイ ツ語の強硬な発音が混じり始め、そのマシンガンは実弾入りになろうとしていた。しか し首をすくめて小さくなっている勢至とは正反対に、剛のほうはそれを恐れる風もなく いたって鷹揚にヘフナーにそう解説をした。
 ヘフナーはその言葉にギラリと目を光らせて振り返ったかと思うと、座席の背後から いきなり勢至の両肩をぎゅっとわしづかみにした。
「ひっ!?」
 声にならない声を上げて勢至は硬直し、同時にブレーキを反射的に踏み込んでしまっ た。ワゴン車は人気のない路地でストップする。ヘフナーはそれを待たずにドアを開 け、身を翻して路上に降り立った。
 そして一瞬何かを確認するかのように一点を見つめたかと思うと、さっき曲がるよう に主張した脇道の方へと一目散に駆けて行った。
「一途だなあ…」
 的確なような的外れなような感想をのんびりと口にして剛がそれを見送る。そしてま だ我に返っていない相棒のほうを振り向いた。
「じゃ、行くか」
「…行くって?」
「ぐるっと周ってヘフナー君が向かった道へさ。あっちって郵便局方面だよな」
「剛、もういいだろう? おまえの弟が頼んでったのは、あいつの行きたい所まで送っ て行けってことだったんだぜ」
 勢至は完全に逃げ腰になっていた。剛は慰めるようにその肩に手を置くとにっこり笑 う。
「そう、彼を送る役はここまでで終わりだ。で、ここからは俺たちが彼のサポートをす る役目にまわる。はい、その先まで出て左折ね…」
「うう」
 勢至はがっくりと頭を落とす。ワゴン車は身震いするかのように発進し、勢至の悲痛 な声ごと走り去っていった。






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