三章−3 病院











「わっ、消えた!」
 ヘフナーの熱心さにつりこまれてつい一緒に画面に見入っていた病室内の面々が一斉 に声を上げた。トップのゴーに迫る勢いで健闘していた2人の一般参加選手が、突然プ レーイング・ステージから姿を消したのだ。
「なんだ? ここで脱落か?」
「あんなに調子がよかったのに惜しいよなー。何かミスったみたいには見えなかったけ ど」
 口々に残念がる患者たちをよそに、画面ではついにフィニッシュを迎えたようだっ た。電子音のファンファーレが鳴り響き、ずっとトップを守り続けてクリアしたゴーの 最終スコアがでかでかと画面いっぱいに躍る。ヘフナーはテレビ画面から目を離して若 林に呼びかけた。
――ワカバヤシ。
――何だ?
――やつらが消えた。呼んでみてくれ。
 若林は密かにため息をついた。
 複数の医師による検査がようやく終わって重症患者ぶっておとなしくしている状況か らやっと解放されたところだったのだ。全身打撲によるショック状態と頭部強打による 意識障害、という診断で、つまりは一言で言えば絶対安静の容態ということなのだが、 外傷のほうはほとんどなく肩と足に軽い挫傷がある程度で、骨にも内臓にも異状は特に ない。医師たちは知らないことだったが、走行中の車から脱出しようとしてそのまま首 都高速の高架から下の道路脇に墜落したにしてはあまりにも丈夫な体だった。もちろん その時普通でない能力を行使したことが衝撃を半減させたなんてことは教えられない が。
――おまえな、人使いが荒すぎだぞ。ケガ人つかまえて。
――まあ諦めろ。おまえがコントロールタワーなんだから。体はゆっくり休めろと言っ たが、「力」のほうは使ってもらうぜ。
 若林は目を閉じた。ヘフナーと言い争いをしてまともな結論を導けるならとっくにそ うしている。常識の基準というか、価値観のギャップというものを考える限り、これ以 上の反論は無駄であると、若林はこれまでの付き合いからしっかり学んでいた。
 呼びかけると今度はすぐに二人の返事があった。
――若林さん!
――さっきは悪かったな。取り込んでて。
 取りあえずは元気な反応だ。若林は続けた。
――おまえら、テレビに出てたんだって?
――ああ、もう飽きるほどな。
――新宿まで来るって話じゃなかったか?
――あの後また追っ手に見つかっちゃったんです。で、逃げ込んだ先がテレビ局で…。 ――よりによってそんな厄介な所に…。ああ、そう言えばヘフナーが、若島津の兄さん がどうとか言ってたが、何だ?
――ヘフナーが? どうして兄貴のことなんてわかったんだ。いや、何の因果か芸能人 やってるんで、この際利用させてもらおうと思ってな。
――追っ手のほうは?
――一応まいたつもりだが、どうかな。今の番組を見られてたら最悪だしな。
――でも若林さん、あいつらって一体何なんですか。若林さんの命まで狙ってるとか聞 いたんですけど。
――俺たちまでもな。
 森崎と若島津に畳み掛けられて、若林は言葉を選ぶかのように一息間を置いた。
――簡単には説明しにくいんだがな。もともと俺自身とは関係のない事件だったし。
――親の会社のほうか。例の日独合弁話の件で?
 若林は一人で苦笑した。
――ヘフナーに聞いたのか。まあ、この手の話はあいつの専門だからバレるのはわかっ てたが。
――しかし関係ないといっても実際にはそれだけの関わりを持ったからじゃないのか、 狙われるまでされてるんだから。
――俺は親父の仕事を継ぐ気はまったくないぞ。今までも一切ノータッチだったんだ。 それがたまたま今度の件がドイツでのことだったんで俺に話が回ってきてな。合弁話に 何か裏があるっていうか、こいつにからんで不穏な動きがあるから、現地の代理店とは 別に裏の窓口として手伝ってくれってことで。ここんとこの鉄鋼不況で生き残り競争の 激しい所へ日本企業と合弁と来れば他社の妨害も当然起きてくる。そして実際、最初の 合弁プロジェクトは事前にスパイされちまって、あの株価暴落を招いたってわけだ。
 若林は一度言葉を切る。家業には無関心と言いつつも事情には通じているようだ。若 林家は先祖代々の財力と地位を基盤に現在は金融界を中心に本家分家ひっくるめた一族 で手広い分野で事業をしている。本家の人間としては三男坊とは言っても未来の実業家 の道を進んで当然というところだろうが、なにしろ小学生の頃からスポーツの英才教育 を受け10才にして少年サッカー界にこの人ありとうたわれた天才ゴールキーパー若林 源三だ。その後ドイツに渡ってプロへの道をまっしぐらに進んでいる今、確かに家業と は無関係と言い切ってしまえるだけの状況にある。
 そんなサッカー三昧の生活をしている息子にいかにも気軽な協力要請をしてきた父親 がすべての原因を作ったわけだが、若林にとっての疫病神は実はもう一人いたのだ。
――一度はそうやってつぶれかけた合弁話を立て直すために新たにプロジェクトを組む ことになったらしいんだが、その連絡をいきなり俺によこしてきたのが、三杉でな。し かも、ロンドンから。
――えーっ? み、三杉?
――あの、三杉がか!
 スタジオ内のセット裏の物陰に身を潜めているはずの二人が、予想外の名前を聞いて 思わず声を上げてしまった。
――俺も驚いたさ。それまでまったく知らされてなかったんだが、やつは今度の合弁プ ロジェクトのブレーンの一人として最初から関わってたんだ。
――待てよ? じゃあ合弁相手の日本企業ってのは、三杉グループだったのか。
――そういうわけだ。ヘフナーにさえ嗅ぎつけられなかったくらい完璧に隠蔽工作をし てたってことになるな。もっともそのせいで、矛先が融資銀行である俺のとこだけに向 いちまったわけだが。
――今ロンドンって言ったな。なんだって三杉がそんなとこにいるんだ。
 若島津の指摘ももっともな話で、ドイツ在住の若林ならともかく、三杉淳はれっきと した日本在住の中学生である。本業、いや本分というものはどこへ置き去られてしまっ たのだろう。もっとも彼らの頭の中で、まああいつのことだから…という思いがよぎっ たのも事実だったが。
――12月に入った早々からロンドンに渡って今回のプロジェクトの妨害への対策に当 たってたって言うぜ。まあ、あいつの学校は私立だし、身体のこともあるから出席に関 しちゃ特別待遇なんだろうよ。
――だからってなあ…。
 森崎がすこぶる穏当な感想を漏らす。同じジュニアユース日本代表チームの一員とし て先だっての夏のヨーロッパ遠征でご一緒した折、同じベンチにいた者同士として森崎 も間近でその言動を目撃していた。しかし、同時にサッカー協会の命知らずな発案によ ってコーチの肩書きも得ていた三杉はその遠征において完璧と言える手腕を見せ、むし ろ日本チームの陰の参謀として背筋の凍るような才能を発揮したのだ。
――ま、やつは跡取り息子だからな。
 その点だけは三杉との立場の差を強調できる若林が言い訳めかして付け足した。
――じゃ、おまえがイギリスに行ったってのは三杉に会うためだったんだな。
――そうだ。飛行機じゃなくフェリーでってのもやつの指示だ。妨害の手が伸びてきた 以上、そのプロジェクトの修正案の存在を隠し通す必要があったから、三杉は動くわけ にはいかなかったんだ。その頃には三杉グループの在欧支店にはそれぞれ監視がついて ドイツはもちろんロンドンでさえ油断はできなかったようだ。電話もネット回線もすべ てチェックされる危険があったからな。そこで、同じサッカー仲間の中学生同士がたま たま旅先で顔を合わせたって形で無邪気な中学生二人が落ち合ったわけだ。
「どこが無邪気…?」
 これは若島津と森崎が期せずしてつぶやいた独り言。
――俺としちゃたまらん話だぞ。言ってみりゃ命がけの伝令役をするんだからな。そし て事実、ロンドンで1回襲われかけ、ハンブルクの家は吹っ飛ばされ、挙句に成田に着 いたとたんにとっつかまって車に押し込まれたんだ。都内に入ったところで逃げ出そう としたのがこのザマさ。
――それだ。ヘフナーとも話してたんだが、たかが企業同士の縄張り争いにしちゃ物騒 すぎるんじゃないのか? 話はそれだけじゃないだろう。
――ああ、お約束の黒幕がいるようだな。政界の大物だろうってところまでしかわから ないんだが、一部の大手企業グループとつるんでるのは間違いなさそうだ。
――じゃ、若林さん、俺たちが昨夜泊まったホテルの部屋って、その本人が来日してる ってことなんでしょうか。
――十分ありうるな。もっともそんな事情までは俺みたいな門外漢にはさっぱりだが、 三杉はそのへんも含めて調べをつけていると思う。
――思うって、やつは今どこなんだ。まだロンドンなのか?
――いやそれが、俺も気になって今朝ヘフナーに頼んで確認の電話を入れたんだ。そう したらやつまで今病院だっていうんだ。心臓の検査入院らしい。
 若林の口調には苦笑が含まれていた。自分の病気までも時と場合によっては手駒にし てしまうこの天才プレーヤーの常識度とは…。
――呆れたやつだな。
――しかしまあ、安全策としてはそいつが賢明なとこだろう。下手にうろうろしてみせ るのは危険だ。あいつの場合、いかに相手から逃れるかじゃなくその前にマークを外す のが優先なんだ。
 若林と違って、三杉淳は黙って立っていれば知らない者の目には年相応のおとなしげ なお坊ちゃんに見えるから、そこへもってきて病弱であるというのを強調すればターゲ ットにされることは避けられるだろう。もちろん、知らぬが仏とはこのことだが。
――で、おまえはその新プロジェクトってのを日本にまで持ち帰ったわけか。そいつを 追いかけてる連中までくっつけて。俺たちまで今追われてるのは、じゃあ俺たちも片棒 担いでるって思われてるんだな。
――いや、というよりだな。おまえらにバトンタッチしたって思われてるんだろう。
 若林はいくぶん気の毒そうに言った。
――ああ、あのトランクのことか。
――成田でリムジンバスに乗る準備をしてるとこで連中にとっつかまったんだが、その 間にバスが出ちまって、つまり荷物だけ先に積まれて行ったって、連中歯軋りしてた ぞ。
――それを俺たちが引き取って行ったから追い回し始めたんだな。合宿所にまでチェッ ク入れてたのに先を越されたもんだから。
 それを聞いて森崎が疑問を持ち出した。
――でもトランクはもう連中に取り上げられちゃいましたよ。なのにまだ追って来るな んて。
――ロックなんか壊してでも開けたはずだな、あの勢いだと。中を見て、空振りだって 気付いたわけか。
――あれだけじゃ、ダメだってことさ。
――どういうことだ?
 問われて、若林は最初から説明を始めた。
――三杉に渡された情報入りのディスクには、もう一枚、その解読用プログラムがあっ たんだ。パスワードをもっと複雑にプログラム化したものをあいつは用意してた。念の ためにってことで。俺はそいつを東京本社に直接届ける手はずだったんだが、それを突 き止めて俺から奪う計画だったんだろう、連中は。
――すると、荷物の中にあったのは…。
――プロジェクトの入ったほうのディスクだけだ。解読用のディスクは、成田に着いて すぐ、壊して捨てた。
――捨てた!?
 あまりにあっさりと若林が答えたので二人は一瞬言葉を失った。
――そう、本体のディスクを奪われても、連中にはそれを読むことができないんだ。三 杉にはもちろん話してないが、俺にはどんな通信手段より安全な方法があるんだから、 こいつを使わない手はないと思ったんだ。電話もネット回線も危ないとなりゃ、逆にこ れしかなかったしな。で、その解読プログラムのデータを、俺は日本に着くのを待って すぐ転送したんだ。…森崎の無意識層を借りて。
――はぁ…!?
――森崎の、だと?
 スタジオの片隅の薄暗がりの中で、二人は思わず顔を見合わせてしまった。若林がさ らに追い討ちをかける。
――転送し終えてすぐに東京本社には到着の電話をしたんだが、その時にプロジェクト 名を「森崎」って暗号名にしたって伝えたもんだから、もしかしてそれも盗聴されてた なら、ヤツら「森崎」って名前を追いかけてるはずなんだ。…すまんな、森崎。
――えええ〜?
 どう答えてよいのやら途方に暮れる森崎であった。
 若林が自分との「通信ライン」を当てにしてくれたのは光栄と言えなくもないが、さ てここは喜ぶべきか悲しむべきか。
 向き合った若島津がゆっくりと両手を森崎の肩に置いた。そして重々しくうなづく。 「よかったな、森崎。これでおまえは歩く企業秘密ってわけだ。しっかり逃げるんだ ぞ」






「いやあ、こういうのって好きなんだよね」
 森崎は愕然としながら降下中のエレベータの壁に張り付いて絶句していた。
 好きなのは勝手だが、自分の趣味でどんどん事態をこじらせるのはどうかと思う。こ れが「血筋」の恐ろしさなのか。
「剛兄さん、積極的なご協力には感謝しますけどね…」
「なに、礼には及ばん」
 肩に積もった紙吹雪を片手で払いのけながら根暗く切り出した弟の言葉にもまったく 動じることなく、若島津剛は明るく笑う。そのかわし方も絶妙のタイミングだった。初 めて見るこの兄弟の対面だが、このノリは森崎はなぜかデジャブがあった。
 さきほどの生番組が終了した直後に、追っ手の外国人がスタジオの入り口に現われた のを見た若島津と森崎は若林との通信を打ち切ってすぐに逃亡を図ったのだが、その姿 を見かけた剛が頼まれもしないのに行動を起こしてしまったのだ。
 まず足場の上で片付けをやっていた視覚効果さんに、手近なブームマイクを突きつけ て彼が手にしていた大量の紙吹雪のカゴが豪快にひっくり返るのに任せ、本当はこっそ りとその場を離れたかった中学生コンビをその頭上から大量の紙吹雪で埋もれさせたの だ。その派手な大混乱のせいで逆に近づけなくなった追っ手の二人がためらっているす きに、今度はカメラのコードをちょいと引っ張って彼らの足元に張りめぐらせた上でス タジオの照明の元電源を切ってしまったのだからその騒ぎも収拾がつかなくなってしま った。
 そうして、彼らはここまでまんまと抜け出して来たわけだ。
「逃げることにかけちゃ俺たちのほうが慣れてるしな。なっ、勢至」
 エレベータに同乗しているバンドのメンバーに剛は目配せしてみせた。ちょうどそこ で地階に到着する。
「はいはい」
 そんな剛にうなづいてみせてメンバーは張り切った様子で飛び出して行った。3人は そのまま居残り、折り返し上昇する。剛は3階のボタンを押した。
「しかしその歳で追っかけ回されるとはおまえもたいしたもんだな。誰だあれは? 借 金取り?」
 関心のしかたがどこか、いやまったくズレている。答える若島津の表情に変化はなか ったが。
「ま、似たようなもんです」
「そうか、しかし心配はいらないぞ。さっき優勝を譲ってもらった礼に、ちゃーんと助 けてやるからな」
 その言葉がいちばん心配なのだが、言っている当人はそのことに気づいていない。顔 を突き合わせて噛み合わない会話を交わすこの長身の兄弟は、確かに顔つきこそそんな に似ていないが――背は剛のほうが少し高く、また髪もずっと短く男顔である――雰囲 気には非常に似通ったものがあることに森崎は気づいた。
「そりゃどうも。別に譲ったつもりはないですけど」
「いやいや、あのまま続けてたらおまえたちが逆転してたさ。おかげで優勝特典のアズ ミちゃんのキスがもらえたもんな」
「…佐久アズミ?」
 番組は最初から見ていたわけではないが、兄が挙げたアイドルの名前には覚えがあっ た若島津が問い返す。
「俺、ファンなんだ♪」
 底抜けに明るい笑顔を真正面に受けて、森崎は危うく膝から崩れ落ちるところだっ た。こういう笑い方のできる人間を彼は約1名しか知らない。
「あの子ってみのりと同じ歳ですよ。そーゆー趣味だったんですか、あんた」
「おいおい、家族を比較対象にしないでくれよ。でなくても女性への認識をビミョーに 狂わされてるんだ、みのりにもしづ姉にも」
「その点は同感ですが」
 若島津は顔を曇らせた。話が内輪すぎてほとんどついていけない森崎だったが、世間 の常識とズレのあるこの空手兄弟に、さらにその上を行く姉妹が存在しているらしいこ とは察せられた。つくづく家族ぐるみでのお付き合いは避けたい、と実感する。常日頃 あれだけサッカー界ののバケモノや超人と接しているのだから、いいかげんに免疫がで きてもよさそうなものだが、森崎にとっては見慣れることとそれを要領よくさばいてい くことでは大きな隔たりがあるのだ。それこそが、彼の不幸の原因だと言えたのだが。 「よーし、こっちだ。行くぞ」
 テレビ局の内部など詳しいはずもない二人は、言われるままに素直に剛の後を追う。 案内人が案内人だから油断はできなかったが、この際、しつこい追っ手から逃れるのが 先決である。まさに手段を選んではいられない状況なのだ。3階でエレベータを降りる と、3人は制作部の部屋が続く静かな廊下をどんどん進み、2回ほど角を曲がってとう とう突き当たりまで来た。
「そら、ここだ」
 言いつつ剛がドアを開けると、強い北風が彼らに吹きつけた。そこは非常階段だっ た。剛は先に立ってさっさと降り始め、数段降りた最初の踊り場で振り向いた。
「いいか、もうすぐ勢至がワゴン車でこの真下に来る。そしたらそのルーフに飛び降り るんだ」
 笑顔で説明しないでほしい。若島津は抗議しようと大きく息を吸った。が、みごとに そのタイミングにかぶせて剛が避けんだのでそのまま息を詰めてしまう。
「おい、あれってさっきの連中じゃないのか!」
 指さす先には一階下に張り出したルーフバルコニーに走り出てきた二人組の外国人の 姿があった。
「くそ、見つかっちまったか、もう」
「よーし、勢至が来た来た。――行くぞ、健!」
 は?と振り返ると、剛が非常階段の手すりをまたいで、ちょうど真下の路上に停車し たワゴン車に狙いをつけているところだった。
「ちょっと…兄さん!」
 言った時にはひらりと身を躍らせ、みごとにルーフキャリアの上に着地を決めてい る。にっこり笑ってこちらを見上げ手を振ってみせる兄に、若島津は思わずこめかみを 押さえる。
「そらそら二人とも急いで! 追いつかれるぞ!」
 振り向けば追っ手の二人はバルコニーから中庭に降り、先回りすべく道路に向かおう としている。悩むのは後回しにするしかない。若島津は兄と同じように手すりを越え た。
「仕方ない…森崎、飛ぼう」
「うへ〜」
 半分ヤケになって二人は互いに抱え合うように飛び降りた。先に車に乗り込んでいた 剛がスライドドアから身を乗り出して二人を手招きした。
「早く、早く! 追っ手が増えちまった!」
 ルーフから滑り降りて二人が車の中に飛び込んだのと同時に発進する。剛の言葉に背 後を振り返ると、道路上にカメラやマイクを装備した一団がどやどやと駆けつけて来 る。そればかりかその後ろには歓声を上げる女の子たちの集団まで続いていた。
「やっぱり毎度同じ手ってのは通じないんじゃないのか、剛」
 運転席の大場勢至がバックミラーを覗きつつぼやく。若島津がそれを聞きとがめた。 「毎度? いつもこんな真似をしてんですか、あんたは!」
「いやあ、最近追っかけもエスカレートしてきてな…」
「だからって自分がそれ以上にエスカレートしてどうすんです!」
 剛は弟の小言など聞いてはいなかった。左手から走ってくる外国人二人と後方からの 集団のそれぞれの距離とスピードを目算しつつ勢至に指示を飛ばす。
「よーし、ここでエンスト!」
 相方の戦略能力を認める一方でなおかつ常識の範疇を越えた発想に慣らされているら しいこのドラマーは、黙ってギアを操作してその言葉通りに「間の悪いところでうっか りエンストしてしまったふり」を見事に成功させた。
 二人の追っ手がまさに車に達しようとしたその瞬間に、芸能人につきまとうおなじみ の集団が2種類、ものすごい勢いで押し寄せた。ワゴン車を完全に囲んでしまったその 波に飲み込まれて、外国人二人は完全にアップアップしてしまっている。
「健、ここへ来い」
 囲まれる寸前に弟を自分の隣に引き寄せておいて、剛はいきなり弟の頭を抱え込ん だ。次の瞬間に一斉に放たれたカメラのフラッシュの渦に、剛はいかにも困惑した表情 で応える。その演技力もなかなか侮れないものがあった。
「ゴーさん、どなたなんですか、その人は!?」
「さっきのGスタジオでの騒ぎと何か関係あるんですか!?」
「ゴーさん、一言でいいですから答えてください!!」
 立往生したワゴン車の周囲をぐるりと取り巻いた取材陣は、車内でまぶしそうにフラ ッシュを避ける剛が隣の人物をいかにもいわくありげにかばおうとする様子にますます テンションを上げ、何が何でも本人のコメントをもらうまでは動かないぞという騒ぎに なった。
 なにしろデビューして半年、人気急上昇のグループにもかかわらずこのゴーにもこれ といったプライベートな話題がなく、もちろん熱愛系のスキャンダルとも縁のない状態 できていたために、ここでスクープか!と彼らが色めき立ったのも無理からぬことだっ た。
「危ないですから皆さん離れてください。皆さんにお話しするようなことは何もありま せんから!」
「話すようなことってどういう意味です!」
「我々はね、そちらがどういう方なのかだけでもお聞きしたいんですよ!」
 窓越しに逃げ口上を打つ剛の言葉は、彼の計算通り、ますます火に油を注ぐ結果にな った。ゆったりとその騒ぎを見渡して間を取った剛は、ここで意を決したようにドアを 開けた。
 わっと声が上がり、彼の動きにつれてカメラと人の波が引きずられるように移動す る。周囲はさらに多くのフラッシュと報道陣の叫び声が渦巻いて、その興奮が最高潮に 達したと見計らった所で剛は立ち止まった。人波にもまれてよろけるふりをしながら口 を開く。
「いや、だから――俺はかまいませんけど、彼は巻き込まないでほしいんですよ!」
「彼…!?」
 その一言が一同をいきなり揺り動かした。波のうねりのようにどーっとどよめきが起 こる。視線が一斉に振り返り、先程まで剛が大切に肩を抱いていた人物を凝視した。ほ んとだ、男だ、という声があちこちから上がる。
「大きなお世話だ!」
 自分に向けられる多くの好奇の目を睨み返して若島津が悪態をついた。もちろん騒ぎ にかき消されてその声はまったく外に届いていなかったが。しかしその殺気立った目つ きがいかにも挑戦的に見えたようで、報道陣の記者根性をいよいよあおることになって しまった。
「どういうことなんです、ゴーさん!」
「とにかく彼は無関係です。俺にはこれ以上何も言うことはありませんから」
 隠そうとすればするほど、じらせばじらすほどメディアというものは燃えるのだとい うことを知り抜いている剛である。彼の一言一言が実に効果的にこの騒動を煽り立てて いた。
「ゴーさん、お願いしますよ!」
「何もおっしゃらないと、人に言えないような関係と見なしますよ、それでいいんです か!?」
 スッポンもかくやと思われる食い下がりを見せる彼らに、剛もとうとう折れた――ふ りをした。
「いいでしょう。健は…彼は、昔一緒に住んでた奴なんです。これ以上は言いたくあり ません」
 さあ、もう蜂の巣をつついたような大パニックが弾けた。爆弾を投じた剛は予想以上 の大反響に、表面は追い詰められた者の表情を浮かべつつも内心はしてやったり、とい うところだったが、ここで突如身を翻してワゴン車にとってかえした。そしてドアを開 けると抵抗する弟を強引に引っ張り出す。
 またもやフラッシュの放列。報道陣が押し合いへし合いする背後で、嘘ーっ!イヤ〜 っ!という女の子たちの悲鳴が上がる。剛は憮然とする弟をその騒音から守るように抱 えつつ、人垣をかき分けてテレビ局の裏口へと急ぎ足で向かって行った。それを追って 潮が引くように人々が移動して行き、あとにぽつんと残ったワゴン車の中には、二人の 男が片や毎度のアホらしい猿芝居に呆れて脱力し、片や悪質なまでに見事な手腕にただ 唖然として取り残されていた。
「おい、少年。それじゃ行くか」
「…はい」
 ようやく思考力を取り戻した剛’sクルーのメンバーが声をかけた。一番後ろの席で ずり落ちそうに座っていた森崎が上の空で返事する。
「あ、で、でもあの二人は…?」
「気にするこたない。自力で帰宅するだろうさ。報道陣とさんざん遊んだ挙句にな」
「はあ…」
 目に浮かぶようだった。言った勢至も想像してめげたらしい。心なしか肩を落とし気 味にイグニッション・キーをひねった。
「先に剛のマンションに送るよ。と言っても俺も同じ階に住んでんだけどな」
「他のメンバーは…」
「あ、やつらは自宅組。俺と剛だけ実家が遠いからマンション住まいなんだ。剛とは最 初学生寮で知り合ったんだけど、まさかこんなことになるとは思ってなかったよ」
 剛’sクルーのメンバーは全員が同じ大学の学生で軽音楽部の部員である。映画部に 頼み込まれて自主制作映画にアイドル・グループ役でにわかづくりのバンドを組んで出 演したのがそもそもの騒ぎの始まりだった。
その映画が口コミで話題になり、マスコミに取り上げられるや一挙に話題となってなし 崩しにCDデビューする流れに乗ってしまったという、良く言えばシンデレラボーイ ズ、実はなりゆき任せの連中なのだった。リーダー役の若島津剛があのポーカーフェイ スと裏腹のお祭り人間でさえなければ話はここまで極端に転がりはしなかっただろう、 というのがそのいきさつを知る周囲の者たちの一致した見方である。
「ふあ…!」
 その勢至の話をさえぎって森崎が気の抜けた声を上げた。同時に気づいた勢至も硬直 する。
「動くと頭が吹っ飛ぶぞ、兄ちゃん」
 この際これが外国語でも勢至には関係なかっただろう。ガラス一枚隔てているとはい え、銃口がぴったりと自分の頭に向けられているのだ。
「さ、そっちの坊主、出て来るんだ!」
 この顔ともこの銃とも初対面でない分だけ、森崎のほうが素直に動けたようだ。手招 きされるままにワゴン車からのろのろと降りる。
「邪魔したな!」
 勢至はひたすら目を見開いていた。森崎を押し込めるが早いかオースチンは走り去っ ていく。呼吸することを思い出したのはその黒い姿が消えた後のことだった。




                       ―― 第三章・おわり ――





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四章トビラ