四章−2 GOOD NIGHT BABY











 ヘフナーの目にはそれは最初黒い塊にしか見えなかった。このあたりになじみのある 者なら、おそらくホームレスの一人が寝転がっているとでも思ったことだろう。もっと も冬のさなか、その上めでたい元日ということで、本物は付近には姿を見せていなかっ たが。
「ワカバヤシ!!」
 ヘフナーの視力は幸い人並み以上であり、敵軍ゴール前で団子状態になっている味方 オフェンス陣に自軍ゴール前から指示を出すくらいは軽いものだった。だからこの場合 も、建物のコンクリート壁の下に風で吹き寄せられた生ゴミの袋のごとくうずくまって いるのが、彼が先ほどから探し当てようとしている人物であることにはすぐに気づいた のだった。
「おい、どうした、大丈夫か!?」
 若林は体を折り曲げるように丸くなって倒れていた。ヘフナーが抱え起こそうとする と、彼は低いうめき声を上げ、眉根をぎゅっと寄せた。意識はあるようで、うっすらと 目を開く。
「ヘフナーか…」
「重症患者がこんなところで何をやってるんだ。どうやってここまで…」
「…歩いて来た」
 律儀に応えると若林はヘフナーの手を借りて座り直し、顔をしかめながら自分の額を 軽く叩いた。一時間ほど前までは病院の中で酸素吸入を受けていた人間が真冬の路上で 風に吹きさらされていていいものだろうか。ヘフナーは無表情に不安がりながら若林の 額から右頬にかけて貼られている大きなバンデージを見つめた。服の下にはまだ各所に 傷があるはずなのだ。
「おまえ、ゾンビか」
 それにしては体格のいい死体である。もっともヘフナーのいつものイメージの若林に 比べるなら、幾分やつれていると言えなくもなかったが。
 若林はその言葉に顔を上げるとニヤッと笑った。これはいつもと変わらぬ不敵な笑み であった。
「すまん、おまえらに呼ばれてるのはわかってたんだが、なにしろ急いで抜け出そうと 必死だったから、つい、な」
「つい、で再起不能なんぞにならんでくれよ」
 ヘフナーの言い分は至極もっともだった。なんと言っても頭を強打して一昼夜昏睡状 態だったのは昨日のことなのだ。
「しかし命がかかってたからな」
「なに? じゃ、やっぱり」
 若林は重々しくうなづいた。顔色はまだよくない。
「救急病院を片っ端から当たってたらしい。生死にかかわらず昨日身元不明で運び込ま れた者はいないか、ってな。看護婦がそんな話をしているのを聞いたもんだからすぐに 抜け出すことに決めたんだ。1キロも行かないうちにダウンとは情けない話だぜ」
 これが強がりでなく本気なのだから始末におえない。ヘフナーはこの男の限界知らず の体力と図太い精神力への追及は諦め、現状の把握へと話題を向けた。
「それで連中は?」
「おそらく俺が出るのと入れ違いに病院に着いているはずだ。まだこの近くにいるんじ ゃないか?」
「なら余計ケガ人がこんな所をフラフラしてる場合じゃないだろう。俺が来なかったら ずっとここでゴミ袋のふりをしているつもりだったのか!」
 表情にはもちろん言葉にも心情をストレートに表わすことのないヘフナーが珍しく声 を荒げている。若林はちょっと呆気にとられ、そして相好を崩した。無表情・無感動を 売りにしているこの同業者が実は熱血しやすい南ドイツの血をけっこう多く引いている ことに彼はうすうす気がついていたのだ。
「でもおまえは来てくれたじゃないか」
「当たり前だ。俺のアンテナはそんな役立たずじゃないぜ」
 ヘフナーは若林のその笑みの意味に気づいたらしくわずかに顔に朱が走る。が、そん な自身への気恥ずかしさを打ち消すかのごとくわざとつっけんどんに吐き捨てた。
 若林はそれ以上言及せず、黙ってヘフナーに手を伸ばした。ヘフナーも無言でその手 を引いて慎重に立ち上がらせる。若林は服をパンパンとはたいて、真顔でヘフナーを見 た。
「俺のことはいい。それより森崎は?」
「…?」
 ヘフナーは怪訝な顔をした。
「あいつの反応がさっきからおかしいんだ」
「モリサキなら、今ワカシマヅが身請けに行ってるはずだが。おかしいってのはどうい うことだ」
「テレビ局で連れ去られた後、何度も反応が途切れるんだ。こっちの呼び掛けにさえ応 じない」
「ああ、あの時もそう言ってたな、おまえ」
 若林はうなづいた。
「あいつ――たぶん、眠り込んでるんだと思う」
「眠り込んでる?」
 若林の言葉にヘフナーは意表を突かれたようだった。
「何なんだ、そりゃ!」
「森崎は以前にも一度似たことがあったんだ。これは前触れだ。言ってみれば、サナギ になっちまってる」
「すると何か、モリサキはこれから完全変態して羽でも生やして出てくるってのか?」 「そうだ」
 冗談のつもりだったのに若林が大真面目に肯定したものだから、二人は無言で見つめ 合ってしまった。
 が、その沈黙は派手なブレーキ音が一瞬にして破ってしまった。はっとして振り向く 二人の目に飛び込んで来たのは2台の車が出会い頭に衝突――するギリギリのところで 急ブレーキに救われた、という姿だった。道の真ん中で両者とも立往生している。
「出た!」
 叫ぶと同時に足が動き出していた。化け物のような言われようをしているのはあの黒 塗りオースチンだ。ついでながら、その進路の前に割り込むかっこうで邪魔をしている のは剛’sクルーのワゴン車だった。
 オースチンはクラクションで凄みをきかせると体勢を立て直し、再びこちらに迫って くる。ヘフナーは若林の体に腕を回すと抱えるようにして走り出した。
「走れるか、ワカバヤシ」
「それ以外に選択肢があるならそうしてる」
 人気のない裏通りを二人三脚のようにして走る。
「おーっと!」
 そうして急停止。壁に貼り付いて背後からの突撃をかわしたその一歩先でオースチン も急ブレーキを踏んでいた。ほんのわずかの距離ですれ違った者同士、窓越しにしっか りと目が合ってしまう。
「あの野郎だ!」
「死んだどころか、ピンピンしてやがる!」
 幸か不幸か、こちらの2人にはドイツ語がきちんと通じる。車内の男たちの声がスト レートに理解できた。が、そんな会話に耳を傾ける義務などない。そしてそんな暇もな かった。回れ右して反対方向に駆け出す。
「おっ、無茶なことを――」
 ちらりと背後を振り返ったヘフナーがつぶやいた。なんと、走るグランドピアノと異 名をとるクラシックなフォルムの乗用車は歩道の上を猛然と突っ走って来るのだ。
 確かにその外見はたとえばロンドンの町を厳かに走り回っている黒タクシーと同型で あるが、ここまで攻撃的な姿を見せられると疑いたくなってしまう。
 しかしこのオースチンというのは頑丈さにかけては折り紙付きの車であり、何とぶつ かってもぶっ壊れるのは必ず相手のほう、というのがうたい文句だから大変だ。この場 合はその相手というのが生身の人間である若林とヘフナーであるから、勝負はどっこい どっこいと言うべきか。二人は知る由もなかったが、実は戦時中にはマシンガンを装備 して装甲車代わりに戦場に駆り出されていたという輝かしい来歴まで持つ車種だったの だが。
「嬉しそうだな、ヘフナー」
「わかるか?」
 否定しないのか。若林とは既に3年に及ぶ付き合いで、ヘフナーの非常識好きという のはよーく身にしみていた。状況がぶっ飛んでくればくるほど張り切ってしまう男なの だ。そもそもいくら知り合いでも、頼まれもしないのにこんな厄介事に楽しげに首を突 っ込んで来られるというところを見れば、まさに本領発揮というしかない。
「それはいいがな、対抗戦は来週なんだぞ。レギュラーの座は大丈夫なのか、ヨーロッ パ選抜正ゴールキーパーさんは」
「フン、誰かさんが毎度毎度母国に義理立てしてこっちのチームから降りちまうもんだ から自動的に俺に1番が回って来るだけだがな」
「俺はおまえとポジション争いをするより、敵に回すほうが好みなんだ」
 ニヤリと目で合図して、二人はいきなり斜め後方にダイブする。オースチンはさっき まで二人がいた歩道を行過ぎてまた急停車。勢い余って目の前の郵便局の業務用駐車ス ペースに飛び込みかけていた。
 がそれに感心している暇もない二人は反対側の歩道に移ってさらに走る。
「そいつは俺だって同じだ。だがこうなるとその試合のゴールを守るのが誰になるか、 俺たちの寿命次第ってことにならんだろうな」
「少なくとも4人全滅は困るぞ」
 状況は深刻なはずだが口調は完全に他人事になっている。と、ヘフナーがふと前方に 目を止めた。歩道脇に停車して窓から身を乗り出して手を振っている人影はまぎれもな くあの空手シンガーだ。
「おーい、後部ドアから飛び込め!」
 なるほどワゴン車の後部ドアが大きく開け放たれている。横目でオースチンが追って くるスピードを確かめつつタイミングを測り、ヘフナーは口の中で1、2、3とつぶや いた。






「で、こちらが迷子の坊ちゃんかな? …坊やよかったね、見つかって。ん? どこか 痛くしたの?」
 とっても真面目に心配してくれるので腹を立てる前に脱力してしまう。
 なにしろ怪我もさることながら、丸一日半も絶対安静状態にいて一転しての激しい運 動だったために、息が切れるより何より、筋肉がその突然の環境変化についていけなか ったらしい。さらに、逃げている時には精神的緊張のために意識外にあった傷の痛みも 一気に蘇ってきていた。
 ヘフナーはと言えば、隣でやはり長々と大の字に――なるスペースはイマイチ確保し きれていなかったが――寝そべって解放感と脱力感を同時に味わっているところだっ た。
「おや、君は確かドイツに行った若林源三くんでは」
 助手席のシート越しに後部スペースを覗き込んでいた剛は、突っ伏していた坊やが顔 を上げたところで目を丸くした。坊やどころか、はた目には彼と同年代にさえ見えるほ どの落ち着きを備えた外見で、しかもしっかり見覚えのある顔だったのだ。
「え、あなたは…?」
「ジュニアユースチームでいつも君にフォローしてもらってるNo.2キーパーの兄で す。いつも弟がお世話になって」
「は、はあ…」
 差し出された手をとりあえず握り返しはしたものの、答えに詰まってしまう。そのジ ュニアユースチームのキャプテンを思わせる天井知らずの明るさと天真爛漫さにプラス して抜け目なく世間ずれした卒のなさを兼ね備えた人物という印象である。ということ はすなわち自分には簡単に太刀打ちできる相手ではないということに気づいて頭の中の 警報が鳴り響くが、まあ各種の化け物にはこれまでの経験から免疫もできていることで もあり、少々引きつりながらもこの命の恩人になんとか答えを返す。
「いえ、俺たちこそ助けてもらって」
「いやいや、ちょっとした好奇心でね」
 痛みをこらえつつ起き上がろうとする若林に剛は手を伸ばして支える。ヘフナーもそ れを見てのそりと若林の隣に座り直した。そこへ悲鳴が上がる。
「剛っ、好奇心もいいけど、追っ掛けてくるぜ、フルスピードで!」
 ルームミラーに勢至のパニック顔が映っている。残る3人は一斉に背後を振り返っ た。
「じゃ、こっちもフルスピードで逃げてくれ」
 ごくあっさりと剛は答える。
「逃げるのに異存はないけどね〜」
「勢至、信じてるよ、黄金のドライビングテクニック!」
 必死の形相でハンドルに食らいつく勢至の肩を抱いて励ます剛は、見るからに楽しげ だった。
 その間に、倒してあった座席の背をヘフナーが起こし、若林は注意深くシートに身を 沈めた。目を閉じて大きく息をつく。
「気分はどうだ? 病院に戻ったほうがよくないか?」
 ヘフナーが低く呼びかけると若林は目を開いた。首を回してニッと笑う。
「そうだな。後ろの連中を追っ払って森崎を連れ戻して三杉の依頼したものも無事に届 けて、ついでに俺たちをこんな目に遭わせた張本人を引きずり出してすっきりしてから な」
「おいおい」
 口調は非難めいていたが、ヘフナーの目も若林に同調しているのは明らかだった。口 元に薄く笑みが浮かぶ。
「じゃ、対抗戦はどうだ? ワカシマヅたちにポジションをあっさり譲る気か、ご隠 居?」
「俺は寛大な人間だ」
「頭を打って人間が変わったらしいな」
 若林はちらりとまたヘフナーを振り返ってから手を伸ばし、その前髪をつかんだ。こ うして引っ張り込むとヘフナーの顔は完全に隠れてしまう。
「こら!」
「おまえこそいつからそんなにお節介焼きになったんだか」
「焼き甲斐のある奴が目の前にいたからな。あのふてぶてしくもタフなゲンゾー・ワカ バヤシが真っ青な顔色で生命維持装置に囲まれてるところをずっと見てたら、いくら俺 でも新しい人格を開発したくなる」
 照れもあるのかヘフナーは珍しく言葉が多い。この非常事態の中でテンションも通常 より高くなっていると思われる。
「いいよなあ、ドイツ語でいちゃつけるなんて。俺にも少し分けてほしいよ、そのドイ ツ語」
 誤解を招くような言い方でいきなり話に割り込んできたのはもちろん必死に運転を続 けるドライバーのわけがない。ナビゲーター役にも早々に飽きて、剛はさっきから後部 座席でのドイツ語漫才を楽しんでいた。口では頼りないことを言っているが、その実、 大学ではドイツ語を選択していてクラスでも上成績は位というからわからないものだ。 100%とはいかなくても若林とヘフナーの会話をけっこう面白く聞ける程度は可能ら しかった。
「二人とも全力疾走して喉が渇いたんじゃないかな。飲む?」
 差し出す手にあるのはよく冷えた缶ビールだったりする。この2人が弟と同学年だと いうことをすっかり忘れているらしい。もっとも同じ15才でも住んでいる国が違えば 規範も違う。そのあたりは何の疑問も持たずに二人は素直に受け取った。
「…日本のビールって冷たいんだな」
「冷たいんじゃなくて冷やしてあるんだ」
 両国のビールの違いを心得ている若林が缶に口をつけながら説明する。確かに、車に 備え付けのクーラーボックスに真冬でも常備してある缶ビールは実によく冷えていた。 「気に入らないなら俺が飲んでやる。よこせ」
「なんの。郷に入っては、だからな。おまえこそ病み上がりでアルコールは良くない な。そのへんにして俺に回したらどうだ」
 自分もちゃっかりと飲みながら剛がにこにこする。
「まだあるから遠慮なくどうぞ。美味いツマミがなくて悪いけど」
「こらっ! 運転を押し付けておいて自分たちだけ勝手に酒盛りなんかやるなっ!!」 「あ、おまえも飲む?」
「剛…、おまえスピード違反に暴走行為だけじゃ足りなくて酒気帯び運転までさせる気 か!」
「そうだよね。今おまえが免停くらうとウチの運転手がいなくなるもんな」
「……」
 からかわれやすい人間というのはどこの団体にでも一人はいるものらしい。クスクス 笑う剛につられてつい口元を緩めた若林だったが、ふと背後を振り返る。オースチンは 律儀にもぴったりと彼らの背後にはりついている。土地勘がある分だけはこちらが優位 だったが。
「今度は発砲してこないところを見ると…」
 まるでそれを心待ちにしているかのようにヘフナーが言う。
「専門家はこっちじゃなくモリサキのほうに回ってるらしいな」
「森崎か…」
 若林は急に表情を曇らせた。
「しかしいつまでも鬼ごっこしてるわけにもいかないな。こうしてる間にもあいつらが …」
「ワカシマヅは無事にモリサキを取り戻した頃かな」
 ヘフナーはちらりと隣に視線を投げた。
「モリサキが反応無しでも、ワカシマヅになら連絡つくんじゃないのか?」
「そうだな」
 若林は軽くうなづいて目を閉じた。聞き覚えのある名前が会話に出てくるのに気づい た剛もヘフナーと一緒にその顔を見つめる。
 若林は腕を組み、じっと目を閉じたままぴくりと眉尻を上げた。





 若島津は先ほどから困り果てていた。
「おい、走りながら眠るなっつーに」
 時々ふわっと体勢を崩す森崎を脇から何度も抱え上げながら、二人はまだ逃げ回って いた。
 最初はどこか怪我でもしているのか具合が悪いのか、それとも連中に一服盛られたの かなどと気をもんだのだが、当人は一言、
「違う…すごく眠いんだ、寝不足で…」
と言うばかりで埒が明かない。俺だっておまえと同じくらい寝不足でその上ずっと食事 抜きだ…と若島津は呆れながらも、だからといって見捨てていくわけにもいかないこの 居眠り少年を引っ張って高層ビル街のふもと、人気のない道路を駆け続けているのだっ た。
「どうやらこいつを見くびりすぎてたようだな」
 口の中でつぶやく。同年代のサッカー仲間のうちで稀に見る常識人だと――プレーも 性格も――思っていたのは間違っていたらしい。こいつも十分に奇人変人の部類だ。し かもこの状況下でこれほどまで器用な真似ができるとは…。若島津はまた体重をこちら に預けかけた森崎の体を引っ張り上げた。森崎もそれに気づいて意識を戻す。
「――あ、ごめん」
「ええい、もうやってられん! どこか逃げ込む所はないのか」
 業を煮やした若島津は、向こうに工事中ビルの防護壁があるのを見つけてそちらに向 きを変える。
 壁沿いに探していくと、通用口のドアが見つかった。引くと鍵がかかっていたので一 歩下がり、気合と共に蹴破る。寝ぼけまなこの森崎もこれには目を見開いて息を飲ん だ。
「さ、とりあえずここに隠れていようぜ」
 防護壁の内側にはまだ鉄骨に床を入れる前のビルの骨組みが足場に囲まれてそそり立 ち、その周囲にはタワークレーン、油圧式ショベルといった建設機器と、鉄骨、鋼材、 さらにプレハブの二階建て現場事務所が敷地の端にあった。それを見てとって二人はそ ちらに急ぐ。またドアを壊すのも気の毒とて、二人は下の資材置き場に入り込み、セメ ント袋が詰まれたその隙間に座った。鬼ごっこの次はかくれんぼか。
「もう暮れかけてきたな…」
 森崎は絶句した。これはこわい。はっきり言って、銃を持ったお兄さんに追い回され るよりずっとこわい。ごくりと唾を飲み込む。隣に座る若島津がいきなり彼を自分のほ うに引き倒したのだ。これはどう見てもいわゆる世間で言うところの膝枕というやつで はないだろうか。
「…あ、ああ、今日は曇ってるし」
 たっぷり十数秒の間をおいてようやく森崎の喉から声が出てきた。少々かすれていた かもしれないが、それは彼のせいではない。
「おまえも災難だったよな」
 この体勢で会話をすることにも特に疑問を持っていないのか、若島津は言葉を続け た。
「なまじ『力』を持ってたせいで頼みもしないのに生きた記憶媒体にされた上に命を狙 われる立場になっちまって」
「そんなことはいいんだ。それに狙われてるのは俺だけじゃないし。俺、ほんとは少し 嬉しかったんだ――若林さんが選んだのがおまえやヘフナーじゃなく俺だったってこ と。俺みたいなのでも若林さんの役に立てるならこんなの平気さ。俺なんかおまえみた いに予知ができるわけでも、ヘフナーみたいに追跡機能があるわけでもないし…」
「森崎…」
「試合でだってそうさ。実力がないのは自分でもよくわかってる。V3こそできたけ ど、俺、みんなの足を引っ張ってるだけなんだって、俺なんて出ないほうがよっぽどみ んなのためになるんじゃないかっていつも思ってた」
「おまえ…」
 見下ろす若島津には横になっている森崎の顔は見えない。その口調はあまりに淡々と しすぎていて、若島津にはどう応じていいのか、戸惑うよりなかった。
「でもさ、代表チームに選ばれて海外遠征して――あの時俺つくづく思ったんだ。どん なに点を取られてもどんなに役立たずでも、試合に出ないより、ピッチに立たないでい るよりずっといいって。自分が何も加われずにいるのがどんなに空しいかって。俺、だ から自分から進んでベンチウォーマーを選ぶなんてことだけは絶対にしたくない」
「森崎」
「おまえや若林さんと実力がかけ離れてるのはわかってる。…だけど、俺も加わりたい んだ、一つのポジションを争う場所に。絶対に」
 決意を込めた言葉とは裏腹に、睡魔が再び襲ってきたらしい森崎の声は次第にくぐも っていく。若島津の口元が思わず緩んだ。
「俺だって前座だぜ。真打ちが登場するまでの場つなぎ役ってとこさ」
 冗談めかした口調だったとはいえ、弱音とも取れるこんな言葉を若島津はいまだかつ て他人に、そして自分自身にも聞かせたことはなかったはずである。しかし何のてらい もなく本心を吐露してみせる森崎に、思わず知らず肩の力がふっと抜けたのだろう。森 崎も意外だったのか、体がぴくりと動いた。
「――本気で言ってんのか、まさか?」
「本気では言いたくないな」
 そう、これもまた本音だった。そして、そうやって本音を他人の前にさらすことさえ なかなかしない自分があまりにあっさりとこういう言葉を口にしたことを若島津は自分 でも驚いていた。
「そう、だよな…」
 若島津の膝の上で森崎の頭が少し揺れた。笑ったのかな、と若島津は思った。その後 はしばらく沈黙が流れ、そして森崎がまた口を開いた。
「…終業式の日にさ、学校で翼と偶然すれ違って、その時あいつやけに真面目な顔して 言ったんだ。俺に…『ありがとう』って。どういう意味かわからなかったけど…、けど …なんとなくさ、俺もホッとしたんだ…」
 ホッとした、ともう一度小さく繰り返しながら、今度こそ森崎は寝入ってしまったよ うだった。また何か言うかな、と若島津はしばらく森崎を見下ろしていたが、やがて静 かな寝息が流れ始めたのに気づいて苦笑した。
 そのまま顔を上げ、首だけ振り仰いで空を見る。既にあたりは薄闇が下り始めていた が、それは夕暮れというよりむしろ空一面を覆っている厚い雲のせいらしかった。上空 の強い風に流されてかなりの速さで空を横切っていく黒雲は雨が近いことを示してい る。
「――う! 何だ?」
 突然、若島津の背筋に冷たいものが走った。体全体が何かひどく重い空気に包まれ る。意識が瞬間的に遠のきかけたような、何か強い力に引っ張り込まれるような感覚だ った。
 夢のようなイメージの中で閃光が走る。一つ、また一つ。
 その眩い光の中に何かが一瞬照らし出された。しかしそれはすぐに闇に沈む。あれは 一体…。
「…かしまづ――若島津!!」
 呼ばれる声がいきなり届いてはっと我に返る。夢から覚めたように。
 全身の筋肉が緊張して汗さえ浮かんでいるではないか。大きく息をついてすーっと力 を抜く。呼んでいるのは若林だった。
――若島津、聞こえるか!
「ああ」
 意識はこちら側に戻ってきた。その実感に若島津は安堵する。
「俺たちは無事だ、今のところ。今、西口の工事現場にもぐりこんでる」
――森崎は? 森崎の様子はどうだ?
「それが――ぐっすり眠り込んでるんだ。逃げてる途中から眠い眠いの連発で…」
――ああ、やっぱり。
 若林の言葉に、若島津は不審そうにする。
「なんだ、やっぱりってのは」
――いいか、詳しく説明してる暇はないが、森崎は今、マズイ状態にいる。絶対に、絶 対に目を離すなよ。
「なに? じゃあ、この眠りこけ方ってのは…」
――自分じゃ気づいてないんだろうが、森崎は今一触即発って状態だ。やつの潜在能力 が呼び覚まされかけてるっていうか…。とにかく不安定きわまりなくて、少しでもバラ ンスを崩すとあいつ自身が崩壊しかねん。こっちもしつこい連中がくっついて来ててす ぐに合流できなくてな。だが早いとこ片をつけてそっちに行くからそれまで頼む。くれ ぐれも危険な目に遭わせないように。
「もちろん俺だってそう願いたいが、あちらさんがどう出るか次第だからな。保障はで きないぞ」
――ああ、とにかく頼んだからな! 
 若林の最後の言葉がさっき見えた不吉なイメージとオーバーラップする。
 あれも予知だったのだろうか。形のない不安――言葉に置き換えるならそう表現する よりないだろう。
 若島津は膝の上ですやすやと眠り続ける森崎に目を落とした。少なくともここには 禍々しい影は見えない。現に森崎は言ったではないか。
 ホッとした、と。






「おい、ワカバヤシ、何する気だ」
 荷台に敷いてあったらしいくしゃくしゃの古新聞を一枚拾い上げると、若林はヘフナ ーの手から飲みさしのビールを取り上げてざぶざぶとそれをかけてしまった。
 それからヘフナーの抗議には耳を貸さないまま窓を開け、身を乗り出しながらその新 聞紙を両手で広げる。ヘフナーの顔がようやく納得したように輝いた。
「わ、君、危ないぞ!」
 あわてたのは勢至だった。ルームミラーを見ながらうろたえている。
「ああ、スピードはそのままで。ていうか、もう少し上げてもらっていいかな」
「う…」
 若林の意図を汲んだヘフナーが指示をする。剛経由でそれを受けた勢至はこめかみを ヒクつかせた。スピードメーターの針はさっきから3ケタに近づこうとしている。
「あのなっ、言いたかないがこの先には新宿警察署があるんだ! 俺は正月早々きれい な免許を汚したくないからな!!」
「それは好都合だ…」
 じっと狙いすましていた若林がそうつぶやいて手を離した。同じく猛スピードで背後 に追いすがっていたオースチン目掛けて、その濡れて十分な重量を得た新聞紙が相応の 加速度を持ってまっしぐらに飛ぶ。そしてそのフロントガラスにばさりと貼りついた。 「ナイスコントロール!」
 ヘフナーの賛辞に若林はニッと笑い返す。背後では急ブレーキの音が響いた。
 良い子はこういう真似をしてはいけません、くれぐれも。
 オースチンは横滑りをしながらその目隠し状態で歩道に乗り上げ、さらにそのまま警 察署の敷地内の植え込みに突っ込んで行った。さすが丈夫が取り得。大音響と共に警察 の広報板をなぎ倒して止まったが、ほぼ45度の角度で前につんのめっている車体の中 では約2名の人影が元気にじたばたしているのがこちらからも見えた。
「じゃ、俺たちはここで」
 何が「じゃ」なのかよくわからないまま、二人はさらに先の道路まで出たところで二 人は車から降りた。
「追い越しか何かで因縁つけられたから逃げた、とでも言っといてください。あいつら の車内を調べてもらえれば日本では世間に顔向けできないシロモノが見つかるはずだ し」
「ビールごちそうさん、冷えたのも気に入ったぜ」
 窓越しに妙に余裕のある言葉を残して、若林とヘフナーはあっさりと別れを告げて去 って行った。自分たちは世間に顔向けできる存在だと信じているとしか思えない無邪気 な後ろ姿だった。剛はにこやかに手を振りながらそれを見送る。
「用が済んだらうちに来いよ! 今度は勢至も混ぜてゆっくり飲み直そうぜ!」
 ドイツ語なので、勢至だけがきょとんとしている。ヘフナーが少し先で振り向いて手 を上げた。
「ああ、今夜か、それとも明日の夜にな!」
「無事に済んだら、だぜ」
 横から若林がニヤニヤとつぶやく。ヘフナーも若林に向き直ってニヤリと笑った。
「もちろん、4人揃って無事に帰るさ。さ、急ごうぜ。姫とナイトが待ちくたびれて る」
 どっちが姫で、どっちがナイトだろう。





 半月以上も続いていた冬型気圧配置にようやく変化が起きたらしかった。抜けるよう な晴天に異常乾燥注意報、そして冷たい風だけが強く吹き付ける東京の典型的な冬の天 候が、この日一転した。朝から曇り空となって風もピタリとやむ。
 冷え込みがやや緩んだのはよかったが、夕方近くなった頃から空一面に黒雲が広がり 始め、再び風も強くなってきた。この風は冬の季節風というより、湿り気のある西風 で、都心あたりでも遠く雷鳴が聞こえ始めたくらいだから、いよいよもって雨が近いこ とは間違いなかった。
「くそ…」
 若島津が鈍い痛みに顔をしかめる。普段は忘れてさえいる左肩の古傷が、こういう天 候の変わり目に痛み出すのだ。
 湿度の低い冬は彼の肩にとってはありがたいことこの上なく、既に後輩に後を譲った 部活の練習ではもうその中心にいることも少なくなっただけに、この痛みのこともしば らく忘れていたのに。
 そもそもいくら恒例とはいえ、受験目前の中学三年生に――エスカレーター式の東邦 学園にも進級試験はある。それもけっこうな難度の――この時期全国から招集をかける とは関係者一同は何を考えているのだろう。
 だが決まってしまった以上は辞退など彼らの頭にはなかった。しかもこれが翼を加え たジュニアユース日本代表チームの最後の公式戦となるのだ。いずれ翼は代表に戻って くるはずではあったが、しばらくはこの顔ぶれが揃うことは望めないだろう。
 …出る。出てやるとも!
 既に4年を越える付き合いになる傷。長年鍛錬を積んできた若島津にはそのなだめ方 もごまかし方も心得たもので、いまさらこんなことで出場に響くなど考えつきもしない はずだった。
 しかし、先ほどから彼の五感を、いや六感目も含めて責めてやまない不吉な感覚は彼 の思考まで悪い方へ悪い方へと導いていく。馴染んだはずの痛みまでが何やらアラーム のように若島津の中で鳴り響くのだった。
「う…ん…」
 膝の上で森崎がわずかに身じろぎした。はっとして視線を落とす。先ほどの若林の切 迫した口調が嘘のような安らかな寝顔だった。
――気楽な野郎だな。こんな時にぐーぐー眠りこけられるなんて。
 自分でも気づいていない能力、か。まあ、気づいていたらこの性格も変わっていただ ろうが。
「ん、今の音は…?」
 若島津は顔を上げて耳に神経を集中させた。
「…来たか?」
 森崎の頭に両手を添え、そーっと体をずらしながら自分が今まで座っていたセメント 袋の上に静かに下ろした。森崎はそのまますやすや眠り続けている。
 重量感のないプレハブの壁にさっと体を寄せると若島津は自分たちが使った防護壁の 入り口のほうを窺い見た。人影だ。
「若林たちか? それとも…」
 その人影は注意深く敷地内に滑り込んで来た。一人である。見覚えのある金髪が薄闇 を通して若島津の目に入った。それを確認すると同時に反射的に振り返り、横になって いる森崎を一瞥してまた目を戻す。
――今こいつをかついで逃げるのは無理だ。若林たちが来るまでなんとかもたすしかな い。
 事務所の反対側に回れば入り口からは死角になるはずだ。そう考えた若島津は素早く 動いた。相手の位置を確認しながら、事務所からパワーショベルの背後を経由してまだ 外壁のない建築中のビルの足元へ。
 足音も立てず気配を完全に消して歩き回るのは若島津にとっては苦もないことだっ た。なにしろ東邦学生寮の浮遊霊とさえ呼ばれている彼である。トイレに起きた深夜の 廊下で、何の前触れもなく暗闇からすうっと姿を現わす長髪のお兄さんに行き当たって 腰が立たなくなった寮生は数知れないのだ。無論これは幼い頃からの訓練で自然に身に ついた性癖であって当人に他意はないのだが、もともとあまり良いほうではない人間性 の問題がそこにどれだけ関与しているかは誰にも断定することはできなかった。
 そういうわけで金髪のドイツ人が突然背後から聞こえてきた日本語に凍りついたのは 無理からぬことだったのだ。今しがた自分が進んできた場所に、まるで湧いて出たかの ように忽然と目指す相手が立っていたのだから。
「――ご苦労なこったな」
「き、きさま…!」
 さっと銃口を上げて振り向く。が、若島津のスライディングタックルが猛然と石混じ りの土を蹴りたて、一瞬早くその足元をすくった。
「うわああ!」
 男がバランスを崩したところへ、資材用のカバーシートがばさりと覆いかぶさった。 これは若島津が移動中に調達してきたものだった。頭からかぶせて布団蒸し状態にしよ うという魂胆だったが、相手も素人ではない。その目隠し状態のまま地面を素早く横に 転がってシートの下から逃れる。そしてそのまま見当で2発を発射した。
 一発は若島津の肩先をかすめ、もう一発は90度以上それてプレハブの建物まで飛 び、その薄い壁を打ち抜く鈍い音がした。
「あっ」
 若島津が声を上げる。撃ったと同時に片手でシートを払いのけてこちらに向き直った 男は、相手の一瞬の狼狽とその視線の動きを見逃さなかった。銃口は若島津に向けたま ま首をk傾けて背後の事務所に目をやり、ニヤリと笑った。
「なるほど、オトリ役を買って出たってわけか。だが俺たちが用があるのはあくまで 『モリサキ』なんでな。…悪く思うなよ」
 若島津は男の指先を注視した。引き金にかかる指に力が加わるその瞬間を見切って左 へ身を躍らせる。銃口の赤い閃光が目に入ったと思った時には彼は地面に体を叩きつけ るように伏せていた。
「若林、ヘフナー、早く来いっ!」
 男は舌打ちして身を翻し、事務所のほうへと駆け出す。それを目で追いながら若島津 は心の中で叫んでいた。
 ポツリ、と水滴が額に落ちた。そして手に、次に頬に。
 しかし雨そのものにまったく気づかないかのように若島津は男の背に向かってダッシ ュした。

                                                               ―― 第四章・おわり ――





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五章トビラ