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ヘフナーの目にはそれは最初黒い塊にしか見えなかった。このあたりになじみのある
者なら、おそらくホームレスの一人が寝転がっているとでも思ったことだろう。もっと
も冬のさなか、その上めでたい元日ということで、本物は付近には姿を見せていなかっ
たが。
「ワカバヤシ!!」
ヘフナーの視力は幸い人並み以上であり、敵軍ゴール前で団子状態になっている味方
オフェンス陣に自軍ゴール前から指示を出すくらいは軽いものだった。だからこの場合
も、建物のコンクリート壁の下に風で吹き寄せられた生ゴミの袋のごとくうずくまって
いるのが、彼が先ほどから探し当てようとしている人物であることにはすぐに気づいた
のだった。
「おい、どうした、大丈夫か!?」
若林は体を折り曲げるように丸くなって倒れていた。ヘフナーが抱え起こそうとする
と、彼は低いうめき声を上げ、眉根をぎゅっと寄せた。意識はあるようで、うっすらと
目を開く。
「ヘフナーか…」
「重症患者がこんなところで何をやってるんだ。どうやってここまで…」
「…歩いて来た」
律儀に応えると若林はヘフナーの手を借りて座り直し、顔をしかめながら自分の額を
軽く叩いた。一時間ほど前までは病院の中で酸素吸入を受けていた人間が真冬の路上で
風に吹きさらされていていいものだろうか。ヘフナーは無表情に不安がりながら若林の
額から右頬にかけて貼られている大きなバンデージを見つめた。服の下にはまだ各所に
傷があるはずなのだ。
「おまえ、ゾンビか」
それにしては体格のいい死体である。もっともヘフナーのいつものイメージの若林に
比べるなら、幾分やつれていると言えなくもなかったが。
若林はその言葉に顔を上げるとニヤッと笑った。これはいつもと変わらぬ不敵な笑み
であった。
「すまん、おまえらに呼ばれてるのはわかってたんだが、なにしろ急いで抜け出そうと
必死だったから、つい、な」
「つい、で再起不能なんぞにならんでくれよ」
ヘフナーの言い分は至極もっともだった。なんと言っても頭を強打して一昼夜昏睡状
態だったのは昨日のことなのだ。
「しかし命がかかってたからな」
「なに? じゃ、やっぱり」
若林は重々しくうなづいた。顔色はまだよくない。
「救急病院を片っ端から当たってたらしい。生死にかかわらず昨日身元不明で運び込ま
れた者はいないか、ってな。看護婦がそんな話をしているのを聞いたもんだからすぐに
抜け出すことに決めたんだ。1キロも行かないうちにダウンとは情けない話だぜ」
これが強がりでなく本気なのだから始末におえない。ヘフナーはこの男の限界知らず
の体力と図太い精神力への追及は諦め、現状の把握へと話題を向けた。
「それで連中は?」
「おそらく俺が出るのと入れ違いに病院に着いているはずだ。まだこの近くにいるんじ
ゃないか?」
「なら余計ケガ人がこんな所をフラフラしてる場合じゃないだろう。俺が来なかったら
ずっとここでゴミ袋のふりをしているつもりだったのか!」
表情にはもちろん言葉にも心情をストレートに表わすことのないヘフナーが珍しく声
を荒げている。若林はちょっと呆気にとられ、そして相好を崩した。無表情・無感動を
売りにしているこの同業者が実は熱血しやすい南ドイツの血をけっこう多く引いている
ことに彼はうすうす気がついていたのだ。
「でもおまえは来てくれたじゃないか」
「当たり前だ。俺のアンテナはそんな役立たずじゃないぜ」
ヘフナーは若林のその笑みの意味に気づいたらしくわずかに顔に朱が走る。が、そん
な自身への気恥ずかしさを打ち消すかのごとくわざとつっけんどんに吐き捨てた。
若林はそれ以上言及せず、黙ってヘフナーに手を伸ばした。ヘフナーも無言でその手
を引いて慎重に立ち上がらせる。若林は服をパンパンとはたいて、真顔でヘフナーを見
た。
「俺のことはいい。それより森崎は?」
「…?」
ヘフナーは怪訝な顔をした。
「あいつの反応がさっきからおかしいんだ」
「モリサキなら、今ワカシマヅが身請けに行ってるはずだが。おかしいってのはどうい
うことだ」
「テレビ局で連れ去られた後、何度も反応が途切れるんだ。こっちの呼び掛けにさえ応
じない」
「ああ、あの時もそう言ってたな、おまえ」
若林はうなづいた。
「あいつ――たぶん、眠り込んでるんだと思う」
「眠り込んでる?」
若林の言葉にヘフナーは意表を突かれたようだった。
「何なんだ、そりゃ!」
「森崎は以前にも一度似たことがあったんだ。これは前触れだ。言ってみれば、サナギ
になっちまってる」
「すると何か、モリサキはこれから完全変態して羽でも生やして出てくるってのか?」
「そうだ」
冗談のつもりだったのに若林が大真面目に肯定したものだから、二人は無言で見つめ
合ってしまった。
が、その沈黙は派手なブレーキ音が一瞬にして破ってしまった。はっとして振り向く
二人の目に飛び込んで来たのは2台の車が出会い頭に衝突――するギリギリのところで
急ブレーキに救われた、という姿だった。道の真ん中で両者とも立往生している。
「出た!」
叫ぶと同時に足が動き出していた。化け物のような言われようをしているのはあの黒
塗りオースチンだ。ついでながら、その進路の前に割り込むかっこうで邪魔をしている
のは剛’sクルーのワゴン車だった。
オースチンはクラクションで凄みをきかせると体勢を立て直し、再びこちらに迫って
くる。ヘフナーは若林の体に腕を回すと抱えるようにして走り出した。
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