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ぴくり、と若林が顔を上げた。
その肩を抱えていたヘフナーがそれに気づいて顔を覗き込む。
「どうした」
「…若島津だ。呼んでる!」
つぶやいた若林はさっと立ち上がった。いや、立ち上がろうとしたのだがまたよろめ
いてヘフナーに背を支えてもらう羽目になった。
「おい、無理をするな」
彼らはゴーストタウンのような無人のビル街の一角で植え込みのブロックに座り込ん
でいるところだった。ここまで駆け足でやって来たものの、若林が再び動けなくなった
のだ。顔色も悪い。いかに持ち前の頑丈さと人間離れした回復力で持たせていた彼で
も、昨日の今日ではそう立て続けにアクションをこなすことは無茶以外のなにものでも
ない。
「しかし――あいつらが、今何かマズイことに」
そう言いかけた途端にヘフナーの目が光った。
「そうだろうとも! だがてめぇの始末もつけられないようなヤツはここに放り出して
いくからな、わかったか!」
「ヘフナー?」
これまで見たことさえなかったヘフナーの激した姿に、若林は完全に虚を突かれたか
っこうになった。ヘフナーも口にしてしまってから自分でもちょっと鼻白んだように黙
り込む。そしてどこか気まずそうに目をそらすと、うつむき加減に言葉を継いだ。
「…フィールドの局面が見通せないようなGKはヘボだがな、自分自身のコンディショ
ンも読めないやつはヘボ以下だぜ」
「…ヘフナー」
二人のいる足元に、その時パタッパタッと大粒の雨が落ち始めた。流れかけていた重
い沈黙は、その雨音に取って代わられる。
「雨か…」
「とうとう降り出したな」
幾何学的な窓の灯をまとった高層ビルの谷間の底から、その間の四角い空を見上げ
る。と、若林の背をヘフナーが平手で一発どやした。若林は驚いて振り返る。
「行こうぜ。ただし走らずにだ。おまえ俺に抱き上げてってほしくはないだろ」
「当たり前だ! 冗談じゃない」
冗談にしろ想像はしたくない姿である。若林は思わずげんなりした顔になり、手でヘ
フナーのその言葉を払いのけた。ヘフナーはフッと鼻で笑うと先に立って歩き出す。
「それよりモリサキの話だ。その五年前に、何があったんだ」
「ああ…」
若林もポケットに手を突っ込んで大股でその後に続く。走らずに、と言っても身長差
の分だけはヘフナーの一歩に遅れることになる。
「俺たちが9才の夏だ。あいつ、中学生に脅されて金を巻き上げられたことがあったん
だ。それを知ったあいつの下の兄貴やらその同級生やらが集まってその中学生のグルー
プと乱闘ざたになりかけてな。両方でにらみ合ってるとこに俺が練習帰りに行き合った
んだ、チームの連中と一緒に」
「飛び入りってわけか」
「相手側にもかなりの助っ人が加わっててな。つまり森崎の一件は口実でしかなくて、
もともと対立してたグループ同士の対決に巻き込まれることになっちまったのさ。中学
生連中は最初からそのつもりでいろいろと凶器まで用意してたくらいで…」
「おいおい、過激だな。ガキのケンカで」
と言いつつヘフナーの口調はなぜか楽しそうで、若林はちょっと睨み返す。
「ま、ケンカの内容はどうだっていい。問題は森崎だ。一応その場に連れて来られては
いたんだが、結局脇に追いやられたまま状況がどんどん大乱闘になっていって一人で震
え上がってたらしいんだな。俺がふと見ると離れた所で真っ青になってへたり込んでて
――何か様子が普通じゃないんだ。で、人数も多いしケンカ慣れもしてた中学生グルー
プがこっちのほとんどを叩きのめして、とうとう残った連中をナイフまで見せて囲んじ
まった時、あいつが突然飛び出して、相手の一人にむしゃぶりついたんだ。…どうなっ
たと思う?」
「あっさりやられたんだろう」
遠慮というものを知らないヘフナーであった。その分彼の判断は冷静である。若林は
少々呆れ顔をしながらうなづいた。
「その通りだ。だが、あっさりと弾き飛ばされた途端、俺だけには見えたんだ、ヤツの
体がふーっと白く光ったのが。その瞬間に強いつむじ風みたいなのが起きてな。そばの
川の水が巻き上げられてケンカの場になってた河原に押し寄せた…」
「ほお――」
前髪の陰でヘフナーの目が光る。
「で、すぐそばの橋が押し流されて」
若林はその時に目撃した場面を思い出しながら大きく息を継いだ。
「流れの勢いで少し上流の水門が決壊したもんだからさらに大量の水が流れ込んで土手
ごと飲み込まれたんだ」
「おい!」
さしものヘフナーも驚きが隠せないようだった。
「そいつが全部モリサキの仕業だったって言うのか!」
ヘフナーが棒立ちになってしまったので若林も足を止める。雨脚がどんどん強くなっ
てきており、、歩道はすっかり黒く濡れつくしていた。
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