五章−1




第五章 嵐、そして再会






 ぴくり、と若林が顔を上げた。
 その肩を抱えていたヘフナーがそれに気づいて顔を覗き込む。
「どうした」
「…若島津だ。呼んでる!」
 つぶやいた若林はさっと立ち上がった。いや、立ち上がろうとしたのだがまたよろめ いてヘフナーに背を支えてもらう羽目になった。
「おい、無理をするな」
 彼らはゴーストタウンのような無人のビル街の一角で植え込みのブロックに座り込ん でいるところだった。ここまで駆け足でやって来たものの、若林が再び動けなくなった のだ。顔色も悪い。いかに持ち前の頑丈さと人間離れした回復力で持たせていた彼で も、昨日の今日ではそう立て続けにアクションをこなすことは無茶以外のなにものでも ない。
「しかし――あいつらが、今何かマズイことに」
 そう言いかけた途端にヘフナーの目が光った。
「そうだろうとも! だがてめぇの始末もつけられないようなヤツはここに放り出して いくからな、わかったか!」
「ヘフナー?」
 これまで見たことさえなかったヘフナーの激した姿に、若林は完全に虚を突かれたか っこうになった。ヘフナーも口にしてしまってから自分でもちょっと鼻白んだように黙 り込む。そしてどこか気まずそうに目をそらすと、うつむき加減に言葉を継いだ。
「…フィールドの局面が見通せないようなGKはヘボだがな、自分自身のコンディショ ンも読めないやつはヘボ以下だぜ」
「…ヘフナー」
 二人のいる足元に、その時パタッパタッと大粒の雨が落ち始めた。流れかけていた重 い沈黙は、その雨音に取って代わられる。
「雨か…」
「とうとう降り出したな」
 幾何学的な窓の灯をまとった高層ビルの谷間の底から、その間の四角い空を見上げ る。と、若林の背をヘフナーが平手で一発どやした。若林は驚いて振り返る。
「行こうぜ。ただし走らずにだ。おまえ俺に抱き上げてってほしくはないだろ」
「当たり前だ! 冗談じゃない」
 冗談にしろ想像はしたくない姿である。若林は思わずげんなりした顔になり、手でヘ フナーのその言葉を払いのけた。ヘフナーはフッと鼻で笑うと先に立って歩き出す。
「それよりモリサキの話だ。その五年前に、何があったんだ」
「ああ…」
 若林もポケットに手を突っ込んで大股でその後に続く。走らずに、と言っても身長差 の分だけはヘフナーの一歩に遅れることになる。
「俺たちが9才の夏だ。あいつ、中学生に脅されて金を巻き上げられたことがあったん だ。それを知ったあいつの下の兄貴やらその同級生やらが集まってその中学生のグルー プと乱闘ざたになりかけてな。両方でにらみ合ってるとこに俺が練習帰りに行き合った んだ、チームの連中と一緒に」
「飛び入りってわけか」
「相手側にもかなりの助っ人が加わっててな。つまり森崎の一件は口実でしかなくて、 もともと対立してたグループ同士の対決に巻き込まれることになっちまったのさ。中学 生連中は最初からそのつもりでいろいろと凶器まで用意してたくらいで…」
「おいおい、過激だな。ガキのケンカで」
 と言いつつヘフナーの口調はなぜか楽しそうで、若林はちょっと睨み返す。
「ま、ケンカの内容はどうだっていい。問題は森崎だ。一応その場に連れて来られては いたんだが、結局脇に追いやられたまま状況がどんどん大乱闘になっていって一人で震 え上がってたらしいんだな。俺がふと見ると離れた所で真っ青になってへたり込んでて ――何か様子が普通じゃないんだ。で、人数も多いしケンカ慣れもしてた中学生グルー プがこっちのほとんどを叩きのめして、とうとう残った連中をナイフまで見せて囲んじ まった時、あいつが突然飛び出して、相手の一人にむしゃぶりついたんだ。…どうなっ たと思う?」
「あっさりやられたんだろう」
 遠慮というものを知らないヘフナーであった。その分彼の判断は冷静である。若林は 少々呆れ顔をしながらうなづいた。
「その通りだ。だが、あっさりと弾き飛ばされた途端、俺だけには見えたんだ、ヤツの 体がふーっと白く光ったのが。その瞬間に強いつむじ風みたいなのが起きてな。そばの 川の水が巻き上げられてケンカの場になってた河原に押し寄せた…」
「ほお――」
 前髪の陰でヘフナーの目が光る。
「で、すぐそばの橋が押し流されて」
 若林はその時に目撃した場面を思い出しながら大きく息を継いだ。
「流れの勢いで少し上流の水門が決壊したもんだからさらに大量の水が流れ込んで土手 ごと飲み込まれたんだ」
「おい!」
 さしものヘフナーも驚きが隠せないようだった。
「そいつが全部モリサキの仕業だったって言うのか!」
 ヘフナーが棒立ちになってしまったので若林も足を止める。雨脚がどんどん強くなっ てきており、、歩道はすっかり黒く濡れつくしていた。
「後で大人連中は、局地的な気圧変化が起きて竜巻に似た現象か何かだったんだろうな んて無理にこじつけてたが…」
「死者が出たとか…?」
「いや、もちろん30人以上が水や土砂に流されて大惨事寸前だったが、俺もできる限 りのことはしたんでな。骨折したヤツもいたが、それ以上のことにはならなかった」
 答える若林の顔をじっと見つめていたヘフナーは、また前を向いて歩き始めた。今度 はややスピードを落として。
「で、モリサキは? ヤツは自分の力を知らなかったのか」
「無論だ。だからこそコントロールもへったくれもなしにあれだけのパワーを出したん だ。しかもその騒動の時も自分の力のせいだとわかってなかった。病院に他の連中と一 緒に運び込まれて、怪我も何もないのにそのまま一昼夜眠り続けたのさ」
「ふーむ」
 ヘフナーは考え込んだ。
「で、その後は?」
「ああ、俺はそれまで存在さえ知らなかったあいつを監視するようになった。サッカー 部に入るように勧めたのは俺だ。同じポジションにさせたのもな。自覚もなくコントロ ールもできない『力』は、それ自体が危険なだけじゃなく持ち主自身を破滅させる危険 がある――俺はそれを心配したんだ」
「だが、その時きり何も起こらないままだったってわけだな。ひょっとして…、おまえ が側にいたからか?」
「――相殺作用」
 二人の声が重なった。ヘフナーは少し歩を速めながら肩越しにちらっと若林を見やっ た。
「しかしおまえがモリサキと一緒にいられたのは12の歳までだろう。おまえはハンブ ルクに移ったんだから」
「翼に」
 若林はちょっと複雑な表情で口を開いた。
「代わりにあいつに預けた。進学も同じ中学にさせて」
「ツバサ? まさか、あいつもESPを…!」
「いや」
 若林はふっと口元を歪めた。
「翼は普通の人間だ」
 どこか語弊がある…。
「だがあいつには別の意味で期待ができたんだ。あいつは周囲を巻き込まずにおかない 圧倒的なエネルギーを持ってる。それが森崎のペースメーカーになって力の暴発を抑え てくれるはずだと…」
「モリサキは心臓かよ。…でもそれがうまくいったわけだな。3年間無事にここまで来 た。――待てよ、今度はツバサが日本を離れるんじゃなかったか?」
「そうだ、それが俺の気がかりだったんだ。今回の代表参加でそれをなんとか手を打た ないとと思ってたんだが…、その矢先にこんなことに巻き込まれちまって」
「なるほどな。5年前の再現は避けないとな。おまえが過保護になってたのはそのせい か。と言うより、もっと酷いことにもなりかねないってことか。極度に追い詰められた 時が危ないとなると」
「俺も後悔してる。今回の件にあいつを関わらせることになって。まさか連中が日本に まで手を伸ばすとは思ってなかったんだ。あいつの潜在能力はまだ俺にもつかめてない 以上、無茶はさせられないってのに」
 雨の水滴が若林のレザージャケットに弾けて、点滅信号の赤い光を反射しながら玉に なって転がり落ちていった。
 と、その時である。
「おい、今の聞いたか?」
 ヘフナーが顔を天に向ける。若林は表情を引き締めた。
 二人の立つ向こうに、工事現場の高い防護壁が灰色の姿を見せている。その見えない 向こう側で何か鈍い衝撃音のようなものが聞こえたのだ。壊された通用口のドアを見つ けて二人で駆け寄る。
「あっちだ!」
 敷地内に入ると、既に闇に包まれ始めた中で派手な音が響いている。音を頼りに走っ て行った二人は、現場事務所のすぐ前まで来て急停止した。無理もない、行く手に突然 コンクリート材の大きな塊が降って来たのだから。
「な、何だ――」
 あせって振り仰ぐ。
 こちら側は大型車両用の進入門が大きな開口部となっていて、その部分のキャンバス シートを透してわずかながら外の街灯の光が入ってくる。その淡い光の中に浮かび上っ ているのは若島津だった。建設中のビルの鉄骨の間の、床材が一部入っている2階部分 にこちらに背を向けている姿がある。何かと対峙している様子だ。
 二人は地上からその若島津が向き合っている先を追い、その相手が一つ上の3階の中 央部分に立つ金髪の男だと気がついた。男の足元にうずくまっているのが森崎らしい。  若島津が歩を踏み出す。と、間髪を入れずに金属製の大きなジョイント部品が投げ落 とされて来る。若島津が素早く飛び退くと、部品は鉄骨に当たって大きく弾み、派手な 音と共にまた若林とヘフナーの足元近くに落ちて来た。
 地面で弾いた小石にすねを直撃されたヘフナーは顔をしかめながら伸び上がって上の 様子を窺う。
「なんか低次元なケンカになってないか」
「ああ、相手のほうもパニックを起こしかけてるのかもしれん」
 若林の観察は正しかった。いくら銃で脅そうとも怯えるどころかただただ無表情にど こまでもどこまで追って来ようとするこの見た目はキレイな少年も不気味だったし、上 部からの命令でターゲットとされてきた『モリサキ』に該当するらしいこちらの少年も この状況下でのんきに眠りこけて自分の行動のお荷物にしっかりとなってくれているの だ。あせるのは無理もない。
 金髪の男は今度は足場の網状板を下に向かって投げつけると先ほどからちらちらと目 をつけていた機材運搬用リフトにダッシュした。
 片腕で抱えている森崎は半分目覚めかけているのか一応自分で足を動かしかけはした が、結局引きずられてリフトに投げ込まれる。
「おーい、若島津!」
 下から若林が呼びかけた。男の後を追おうとした若島津ははっと足を止め、地上の二 人を見下ろす。
「遅いぞ! 鬼に見つかっちまったんだからな、こっちは」
「すまん、途中で一杯ひっかけてたもんで」
 これが喩えではなく事実だったのだから困った連中だ。
「今、俺たちも行く!」
「待て、あの音は?」
 叫んでいる若林の肩を後ろからヘフナーがつかむ。さっそく駆け出そうとしていた若 林も、そして鉄骨の上の若島津も、降りしきる大粒の雨も構わず上空を仰いだ。どす黒 い空の一角から一つの灯りがこちらにゆっくりと近づいて来るに従って、特徴的なロー ター音が微かながら聞こえてくる。
 ヘフナーがくるっと若林に向き直った。その動作に、濡れた長い前髪からしぶきが散 る。何も言われない先に若林はゆっくりとうなづいた。男がなぜ森崎を連れてビルの上 へと向かおうとしているのか、その理由が読めたのである。
「させるかーっ!」
 若島津がリフト昇降用の仮設吹き抜けに突進した。しかし素通しのリフトの底面は真 っ暗な雨空に向けて徐々に遠ざかっていく。若島津は向きを変え、外部足場に取り付け られたアルミ製のブリッジに飛びつく。
「ワカバヤシ…」
 その様子を気遣わしげに見送っていた若林が肩をつつかれて振り向くと、ヘフナーが 別方向を睨んでいた。その先を見やれば、背の高いタワークレーンが生コン運搬用のバ ケットを吊り下げたまま雨を受けている。
「…おい、まさかあれを使うってんじゃ?」
「大当たり」
「ヘフナーっ!」
 若林が抗議しようとするのを無視してヘフナーは既にそのクレーンに向かって駆け出 していた。若林が呆然と目で追っているとヘフナーはバケットをフックから外してから 振り向いて手招きした。
 若林は猛然と足場を駆け上っていく若島津にもう一度目をやってから気の進まぬ様子 でヘフナーの所に歩み寄った。
「おまえのベルト、革か?」
「――牛革だが?」
 若林はその唐突な問いに答えかけてそこで目を見開いた。
「まさか、おまえ…!」
 確認を取る必要はなかった。若林が声を張り上げる前にヘフナーは若林の体を引き寄 せてその背後からクレーンのフックをぐいっとベルトに引っ掛けてしまったのだ。
「よし!」
「…俺はケガ人だぞ」
 声のトーンが思い切り低くなる。
「そうだな。そのくせ強がり言って走り回ってる」
「さっき人の心配して大声で説教したのは誰だよっ!」
「俺は前向きなんだ」
 ヘフナーは楽しげに親指を立てて見せた。そしてさっさとタワーの下の操作席へと走 っていく。
「いいぞ、そのままその階段を少し上がってくれ」
「覚えてろよ…」
 それでも覚悟を決めたらしい若林は口の中で悪態をつきながら、言われた通り事務所 の二階に通じる外部階段を上がって最上段からヘフナーを睨み下ろした。
「そら、好きにしろっ!」
「よし、そこから勢いつけて飛び降りろ!」
 ヘフナーの人権無視は今に始まったことではなかった。
「これはこれは、お元気そうで」
 突然鼻先に降って湧いた同業者を見て、若島津は顔色も変えずに挨拶する。こうして 直接顔を合わせるのは夏以来となる。
「空を飛ぶ技術まで身につけてたとは知らなかった世」
「ああ、おかげさまでな」
 四つんばいの格好からゆっくりと立ち上がると、若林は気まずそうに自分のベルトか らフックを外し、無造作に投げ落とした。若林をここまで投げ上げたクレーンのフック はワイヤーごと空を切って放物線を描きながら本体の元へと姿を消していく。
「ヘリはどうだ?」
「さっき、向こうのビルの陰にちらっと見えた。まだかなり上空だ」
 話題の転換を図るためばかりでもないだろうが、若林は再会の挨拶もそこそこに確認 を取った。彼と違って若島津は地道に足場をよじ登って、仮設資材置き場となっていた ここに身を避けて上の情勢を窺っているところだったのだ。
「リフトは止まってるな」
 顔を打つ雨粒を目の上を手で覆って避けながら二人はさらに上に続く鉄骨の構造体を 見上げた。雨脚はいよいよ強くなり、高層ビル街特有の、四方から巻くように吹き付け る強風に煽られて、上からだけでなく下からも雨は襲ってくる。若島津の長い髪は既に ぐっしょりと濡れて半分は額や首筋に貼りつき、半分は風になびいて重く宙をさまよ い、いよいよもって鬼気迫る姿となっていた。
「若林、森崎を叩き起こせ」
 視線は上に向けたまま、若島津がぼそりと言う。若林は視線を隣の男に戻した。
「今の森崎はちょっとやそっとじゃ反応しそうにないぞ」
「おまえは別だろ。なにしろあの信奉ぶりだ」
 若林の言葉をさえぎって、若島津は自信たっぷりに断言したのだった。





 男は鉄骨だけの最上階に、強風を手で避けながら立っていた。嵐模様の真っ暗な空を 見上げて、援軍の来るのをじりじりして待っているのだった。だから、足元で丸まって いたはずの人質がもぞもぞと動き出してリフトのほうへ逃げようとしていたことにもす ぐには気づかなかった。
「あっ、この野郎、いつの間に!」
 男がふとその気配に気づいた時には、森崎は一段下に止まっているリフトに乗り込み かけていた。
「待たんか!」
 森崎がリフトの操作レバーに手を掛けたところへ上から飛びかかる。押さえ込んで手 首をとり、ねじ上げようとした。が、森崎も一応現役スポーツ選手のはしくれ。男の腹 に体を回しざま蹴りを入れ、相手がひるんだすきに手を振りほどいて自由になった。
「ふざけやがって…!」
 しかし倒れるほどのダメージもなく男はさらに飛びついて森崎の顔にパンチを浴びせ る。一、二発目はかわしたものの、三発目をもろに受けて森崎は後ろに弾け飛んだ。鉄 柱に背中を打ち付けてかろうじて体を支えた森崎の目に、その時男の足元から白い腕が にゅっと伸びたのが映り、心底ギョッとする。
「その程度のパンチじゃ森崎には堪えないぜ。なんせシュート顔面直撃で鍛えられてる からな」
「ひ、人のこと言えるのかよ!」
 この状況を後回しにして反論しようとする森崎を見てぎょっとその視線の先を振り返 ろうとした男は、あっと思う間もなく足をすくわれて倒れる。さすが揚げ足をとるのが 得意な若島津である。
「まあな」
 森崎に笑いかける。が、森崎は微笑を返す余裕もなく叫んだ。
「危ないっ、若島津!」
 足場に渡された陸梁の上に仰向けに倒れた兄さんが、すかさず銃を握り直そうとして いる。が、彼が起き上がろうとしたところへ若島津が再度飛び込んで、その手の銃を空 中に蹴り上げた。
「よーし!」
 弧を描いて宙に舞ったサイレンサー付き拳銃は、その下から差し延べられた両手の中 にみごとに納まった。
「ナイスキャッチ」
 若島津の見ている先、ひとつ下の階を森崎は覗き込む。そこに立つ姿を見た途端、森 崎の顔がパッと輝いた。
「わ、若林さん!!」
「よっ」
 余裕のある笑みで森崎に応えた若林だったが、続く若島津のセリフに思わず顔を引き つらせた。
「安全装置の外してある銃を暴発もさせずにキャッチするとはさすがだな」
「――考えてなかった…」
 手の中の銃をあわてて、しかし恐る恐る持ち替える。まっとうな道を歩んできた身で ある以上、こんなものの扱いに慣れていようはずもない。だが気を取り直してその銃を 階上の男に向けた。実はまだローティーンであることを欠片も感じさせない渋い容姿が 幸いして、それでも銃を構える姿に説得力がある。
 男がドイツ語で何やら吐き捨てた。若林はその言葉にはっと反応して上空を仰ぐ。ヘ リコプターの爆音がすぐ上に近づいて来ていたのだ。残る三人も一斉に空に視線を向け る。荒れ狂う風雨をついてゆっくりと垂直下降してくるベルコーチ214の白い機体が 眼前に迫っていた。
「くそ、もう来やがったか!」
「――いやはや、呆れた諸君だな」
 機内の人物の顔が判別できるほどに近づいた時、乗員席のドアが開いてトレンチコー ト姿の男が身を乗り出した。これまで4人を追い回した男たちよりも年上の、貫禄のあ る外国人だった。ドイツ語のわかる若林が一番に怒鳴り返した。
「なんだ、あんたは!」
「しぶといにも程がある。その筆頭が君だよ、ワカバヤシ。一度は死んだという報告ま で受けていたのに」
 ヘリのローター音は、至近距離で聞くともう耐えられないほどの騒音である。その中 でこれだけの会話ができるとは双方とも大物だ。それとも、お互いに相手の言い分はほ とんど聞こえないまま言いたいことを言っているだけかもしれないが。
「さあ、うちのスタッフに逆らうのは終わりにしなさい。もっともあと二人ほど警察送 りにしてくれたようだがね」
「うるさい! ちゃんと話をする気があるなら、そのヘリどっかに片付けてからにし ろ!」
 ドイツ語だろうと、ヘリの爆音に邪魔されていようと、やはり相手の言い分など聞く 気もないし従うつもりもない。それよりも、優先させなければならないことがある。若 林はヘリの男との会話を無理やりに引き延ばしながら森崎に目で合図を送った。
「で、でもっ…」
「いいから早く!」
 半分突き飛ばすようにリフトに乗せ、レバーを引いて下降させる。金髪の男があわて て腰を浮かした。それをとどめようと若林が銃口を向け直す。が、その瞬間、その若林 の手から銃が弾け飛んだ。
「本当は私自身がこうして手を下す必要はないと思っていたが、ここまで抵抗されては やむをえん。この件に私が関与していたことを知られては困るのでね。永久に忘れても らおうか」
「野郎――!!」
 構わず飛び起きた若林の体が銃声と共に弾かれた。足場の支柱に背中を打ちつけ、跳 ね返った体は真下に落ちる。一つ下の作業床がそれをかろうじて受け止めた。
「若林さんっ!!」
 銃声を耳にしてとっさにリフトを止めた森崎が、思わぬ事態を目の当たりにして硬直 する。
「わ…か…ばやし、さん!」
 彼の位置からは斜め上方、鉄製の支柱の間を透かして、倒れ伏した若林の体の片側が 見えるだけである。そのままぴくりとも動かない様子を見て気が動転した森崎はやみく もにリフトを飛び出した足をもつれさせ、がむしゃらに足場をよじ登る。
「森崎――っ!」
 最上階から素通しの階下を覗き込んで若島津が叫ぶ。戻って来た森崎に向かって金髪 の男が飛びかかって行ったのだ。が、激しい雷雨の中、しかもヘリの爆音にさえぎられ てはとても届こうはずがない。若林に駆け寄ろうとした森崎はあっさりと男につかまっ て後ろからはがい締めにされ、なおも前へ進もうとして宙に浮いた足をばたつかせた。 「放せーっ! 若林さんっ!」
「よーし、そいつを連れてこっちに来るんだ」
 ヘリからドイツ語の指示が飛ぶ。男は風に揺れながら頭上に降ろされてくるレーンジ ャー用救命ロープを見上げ、暴れる森崎の腹に一発食らわせると肩に担いだ。
 が、若島津もまたそこに駆けつけてくる。彼が日常一般人に対して保っている平常心 の枷は完全に外れてしまっていた。いったんこうなってしまったら、かの日向小次郎で さえ不可能なのである。
「でええええいっ!」
 全身凶器と化した空手キーパーが雄叫びとともに身を躍らせる。森崎を担いでロープ に乗り移ったところで、男はその背後から降って来た飛び蹴りをまともに受けてしまっ た。そうでなくても鍛え抜かれたキック力、さらにこの場合重力とさらに来るところま で来た私的感情まで込められていたから最強最悪だった。職業のわりに人間としては常 識の範囲内にいるこのドイツ人はひとたまりもなく宙に舞い、鉄骨むき出しのフロアの 上にもんどりうって倒れた。
「おーっと」
 落ちる男のほうは見捨てた若島津だが、森崎はそうはいかない。男の位置と入れ替わ ってロープにつかまると、放り出されかけていた森崎を片腕でインターセプトした。
「お、俺はボールじゃないっての…」
 二転三転奪い合いの対象にされた森崎が自分もロープを握り直しながらぼやく。そこ へ声が降って来た。
「坊やたち、そのままつかまってろ。引き上げてやるから」
 ヘリコプターから乗り出して、男がニヤリと笑いかけた。その言葉通り、救命ロープ がゆっくり上がり始める。
「ワカシマヅ! モリサキ!」
「ヘフナー!!」
 今度はヘフナーだ。地上から自力で地道に登って来たらしい。倒れている若林のそば に駆け寄ろうとしている。
 ロープはさらに巻き上げられる。そしてヘリの機体もビルからゆっくりと離れ始めて いた。若島津は目測でその速度と距離を測って飛び移るのは無理と見ると、森崎の耳元 に口を近づけた。
「手を離しな、森崎」
「ひっ…!」
 至近距離で目と目を見合わせてしまった。端正な顔が、しかも思い切り無表情なまま そこに迫っている。風に煽られる濡れ髪が生き物のように宙をさまよって…。その鬼気 迫る姿に、言われなくても森崎の手からへなへなと力が抜けた。
 その森崎の体を右腕でがっしり抱えたかと思うと、若島津はせーので宙に投げ上げ た。まさにトスである。と同時にロープの反動を使ってその森崎の体を両足で思い切り 前へ蹴り飛ばしたのだった。
「ひ――っ!!」
 声にならない声をあげて、森崎は最上階の資材置き場の上にに落下した。一瞬、自分 の身に何が起きたのか飲み込めず、資材の上の防水シートに仰向けに倒れたまましばし 絶句する。が、視界に映ったヘリコプターと、その下に吊り下がっている若島津の姿が 目に入ってあわててはね起きた。
「若島津っ!?」
 ヘリコプターはビルの端から少し離れた位置でホバリングしている。目的の『森崎』 をまたもあと一歩でのがしてしまって次にどう出るべきか迷っているようにも見えた。  が、森崎は若島津の異変に気づく。地上数十メートルの空中で左腕一本でロープにつ かまっている若島津の顔が夜目にもわかるくらい苦痛に歪んでいたのだ。
「…くそっ、こんな時に」
 嫌な前兆はあった。しかも、冷たい雨に長時間打たれた挙句の空中アクションであ る。若島津の左肩は、既に痛みを通り越してほとんど感覚がなくなりかけていた。
「あっ!」
 森崎が息を飲む。
 若島津の体がガクン、と揺れてロープの先端の器具の位置までずり落ちたのだ。そし てそれを待っていたかのようにヘリが急角度で旋回を始める。
 ロープは大きく円を描いた。
 森崎は直立不動のまま声を上げることもできなかった。
 まるでスローモーションで見ているかのようにロープの先から若島津の体が離れ、音 もなく視界から消える。
 はるか下の闇の中に飲まれていくその姿を目だけが追い、そしてがくっと膝からくず おれた。





「わかしまづ――っ!!」
 搾り出すような森崎の絶叫が響いた。ヘフナーと、そして彼に助け起こされた若林が はっとして振り仰ぐ。
 下のフロアから鉄骨の間を見上げたそこに森崎の姿があった。
 闇の中に浮き上がるようにその全身がぼうっと青白い光に包まれたように見え、二人 は思わず硬直する。
「――ちきしょう! 若林さんに、若島津まで…」
 森崎は両の拳を白くなるほど強く握りしめ、宙を見つめたまま半放心状態でつぶやい た。







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