五章−2 嵐、そして再会











 若林の肩に置かれたヘフナーの手にぐっと力がこもった。
「――嘘だろ……!」
 喉の奥からかすれた声が出たきり、ただ立ち尽くす。炎に包まれたヘリコプターが彼 らの前を過ぎて行った。鉄骨ばかりの建造物がその眩い光を受けて赤い影を作る。二人 の顔も赤赤と照らし出され、そして静かに再び闇に包まれた。
「だが、事実だ――」
 低くつぶやいて若林がゆらりと一歩を踏み出す。その動きにヘフナーは反射的に腕を 伸ばし、若林の体を支えた。少しの間をおいて、ヘリコプターが地上に達した衝撃音が 微かな揺れと共に伝わってきた。
「森崎…、森崎は!?」
 時間的にはほんの数分のことに過ぎなかった。二人の見ている前で森崎の体が突然白 く輝き出し、次の瞬間、放電のように光の腕が四方にほとばしり出たのだ。
 それは宙を切り裂く光の奔流となって空高く噴き上がり、うねり、そして炸裂した。 その目も開けていられないほどの眩さと強力なエネルギーの渦に圧倒されて、二人はた だ身を低くしているしかなかったのだ。
 雨と風がその渦に巻き込まれてうなり声を上げ、雷鳴のような耳を聾する轟音が一瞬 あたりを支配したかと思った時、同時に彼らの真上に火柱のようなものが上がったのが 見えた。それが空中のヘリコプターを捉え、まるでわしづかみにして振り回すかのよう に大きくうねって、あっと思う間に炎上したのだった。
 二人は夢中でブリッジを駆け上がった。闇を透かし見て、資材の鋼管などが崩れてい る脇に森崎が倒れているのを認めると急いで駆け寄った。若林が側にかがみ込んで注意 深く様子を見る。
「気絶してる…。いや、眠ってるんだ。よかった…」
 ヘフナーはその近くで完全にのびている金髪の男に目を止めて歩み寄り、その体を足 の先でごろんと転がして仰向けにした。こちらも意識は手離しているが命に問題はなさ そうだ。ヘフナーは肩をすくめると若林に手を貸して森崎を抱え上げた。別にどこも外 傷はないようだったが、服のところどころが焦げたように黒ずんでいた。
「下手に『力』を出すと自爆になりかねんとか言ってなかったか?」
「こいつ自身のパワーが、その爆発を上回って制御したんだな。3年の間にずいぶん強 くなったもんだ…」
「打たれ強いってやつか」
「…まあ、翼と一緒だったんだからな」
 どういう意味かはさて置いて。
「おまえの予想を超えていたわけだな」
「ああ、予想だけじゃない。俺の力だって超えてる、あれじゃ。しかも本人が自覚して ないんじゃ、どれくらいの潜在能力がまだあるのか…。困った奴だ」
「願わくはコントロール能力がちゃんと働いてればな。ありゃ爆発ってより噴火だぜ、 まるっきり」
「当分はその能力もまた眠り込むわけだ――まさに休火山みたいに」
「当分?」
「ああ、当分…」
 それ以上のことは考えたくない、とそれぞれ心の中でつぶやく。こうして今自分たち に抱えられてぐっすりと眠り込んでいる平和な姿を見ている限り、さっき目撃した恐怖 の出来事はまるで遠い別世界のことのようだった。
 今度は若島津の安否を知るべくリフトで下降してきたそこでヘフナーが目を見開い た。
「ありゃ、何だ」
 あと少しで地上に達するリフトと同じくらいの高さに見えるそれは、外部足場の側で 空中にぼーっと光っている。
「ワ、ワカシマヅだ!」
 リフトが完全に止まるのも待ちきれずにヘフナーが飛び降りてその光に向かって走 る。
 それはなんとも異様な光景だった。地面から2、3メートルほどの空中に、青白い光 に包まれて若島津の体が浮いているのだ。繭の中の幼虫のように静かに。
「どうなってるんだ、これは…」
 ヘフナーは手を伸ばしてみたが、もう少しの所で届かない。ジャンプして飛びついて みてもいいものか…。
「これもモリサキが…?」
「…ああ、サイコキネシスだな」
 呆気にとられた顔のまま、若林は空中の若島津と、今自分の腕の中の森崎を交互に見 た。
「墜落した若島津に向けられたこいつの思念波がここでギリギリ受け止めたんだな…」 「何と言うか――」
 ヘフナーが頭をかいた。
「性格の外装と中身が極端に食い違い過ぎじゃないか、こいつの場合」
「責めないでやってくれ。悪いのは俺だ。俺が途中で投げ出すようなことをしないで側 についててさえいれば…」
 そういう問題かどうか大いに疑問のあったヘフナーだったが、えらく落ち込んだ様子 で森崎をかばう若林に免じて、それ以上コメントは控えた。なにしろあれだけ心配して 暴走を食い止めようとしていたのに、結局こういう事態を許してしまったのだからいか に終わりよければ…であっても落ち込まずにはいられない若林の気持ちはよくわかった のだ。 
「で、どうする、こっちは」
 肩越しに、空中で眠っている若島津を指す。
「見たところ無事なようだが…」
 言いつつ若林は森崎を抱え直した。見た目よりも重い森崎は、眠り込んでいる分だけ さらに重みを増している。
「うわっ!」
 その途端、若林は両腕に感電のような強いショックを感じてのけぞった。抱えていた 森崎がまたふわっと淡い光を放ったかと思うとすうっと姿がかき消えたのだ。反射的に ヘフナーを振り返ると、彼もまたこちらに背を向けたまま棒立ちになっていた。
「き、消えた! ワカシマヅが…今!」
 確かに宙を指差すその先に今の今までそこに浮かんでいた若島津が、あの光の繭と共 に影も形もなくなっていた。
 二人は半ば呆然とその両方が消えた場所を交互に見つめた。若林は詰めていた息をふ ーっと吐き出して苦笑する。
「たぶん…大丈夫だ。帰巣本能っていうだろ。緊張状態から一気に抜けたせいで、無意 識のまま帰って行っちまったんだろうさ」
「自分の家にテレポート、か。ワカシマヅもか?」
「同じ夢でも見てたんじゃないのか。だとしても二人分のテレポートまでやっちまう力 まで残してたとはな…」
「それも無意識に」
 二人揃ってため息をつく。思わず天を仰いだヘフナーは、その時ようやく周囲の異状 に気づいた。
「おい…」
「――ああ」
 既にそれ以上言葉が出ない。建築中のビルのふもとにありとあらゆる物がめちゃくち ゃに集まっているのだ。敷地内にあったはずのすべての物が…。
 鉄骨、鋼材、材木、コンクリートブロック、パワーショベル、ベルトコンベア、ワイ ヤー、フォークリフト、それに下小屋の屋根の一部からポリバケツまで、種々雑多なも のが一様にビルに吸い寄せられるような形で堆積している。まるでビル自体が一つの大 きな磁石となったかのように。
 そしてそれとは対照的に、まだ黒煙を上げてくすぶっているヘリコプターの残骸が、 ぽつんと離れた場所で仲間外れをくらっていた。
「休み明けに現場責任者がこれ見たら泣くぞ」
「その前に、こいつをどう説明するかだ」
「…俺は、嫌だぞ」
 しかも説明だけで済ませてもらうとは思えない。これをしでかした張本人は既に姿を 消していることだし、単なる目撃者に過ぎなかった――と自分たちでは思っている―― 二人としては、この後すぐにでも駆けつけてくるはずの警察関係者、救急関係者、さら には報道関係者とは顔を合わせることは避けたい。
 ということで、さっさとこの場から引き揚げることにした若林とヘフナーだった。








 『落雷、飛行中のヘリを直撃!』と報じられた関東ローカルのテレビニュースをその 夜二人は見ずじまいだったので、現場検証をした良識ある人々がいかに善意の解釈で都 合の良い誤解をしてくれたかに関しては、それよりも後の話しになる。
 ともあれ、元日早々都心を襲った超局地的な雷雨の猛威とそれが引き起こしたいくつ かの被害は、特にその過激さと不可解さにおいて関係者一同の胸に深く刻まれた。
 しかし不運なヘリコプターの乗員であった3人の外国人たちのうちの一人の中年男性 が骨折の重傷を負ったのを除けば奇跡的とも言える被害で済んだため、テレビニュース を見た、あるいは3日の朝刊――もちろん1月2日は新聞休刊日である――の片隅の小 さな記事を目にした一般の人々の関心は薄かった。
 世間が改めて騒ぎ始めるのは、その重傷を負った男性が某国の政府要人でありさらに は自国での一大政治スキャンダルの中心的役割を果たしていた渦中の人物だと大々的に 報道されてからだった。
 日本の正月は忙しい。そして正月休みが終わればさらに忙しい。
 人の噂は七十五日も経たないうちに日常に紛れていってしまうものなのだ。







「…あれ?」
 森崎はぼんやりと頭上を仰いだ。自分がどこにいるのか、何をしているのか飲み込め ない。ふと目を覚ますと何やら時代がかった門構えの家の前に座り込んでいたのだ。
 腕時計を見ると真夜中過ぎ。星が出ている。とすると雨はやんだのか…。
「雨…!」
 心に浮かんだその言葉が引金となって記憶が一気にフラッシュバックする。脳裏を駆 け抜ける嵐の中の光景。
「そうだ――若林さんが! そして若島津も…」
 絶望とも悲嘆ともつかない重い感情が胸を締めつけた。
 が、頭の中にもやがかかっているようで、すべて夢だったような、それとも今これが 夢なのか判然としない。とりあえず立ち上がろうと森崎は手をついた。
 その時、突然門の脇のくぐり戸が軽い音をたてて開いた。
「あら?」
 顔を覗かせたのは年の頃20歳前後のすらりと長身の女性だった。門の前にへたり込 んでいる森崎を見て動きを止める。が、驚いた表情も見せずに静かに声を掛けてきた。 「この家に何かご用かしら」
「い、いえっ…あの」
 しっとりと艶のある長い髪を肩に流した色白の美人だった。それがまっすぐ自分の目 を覗き込んでくるのだから森崎はしどろもどろになってしまった。
「こ、ここはどこなんでしょう!」
「埼玉県明和市東明和二丁目31番地」
 あわてた挙句の間の抜けた質問にもすらすらと答えてくださる。だが住所がわかった ところで森崎に実質的な救いは訪れない。なぜ、自分がここにいるのか。
 深夜の路上で全身ずぶ濡れで座り込んでいる少年を見ても動揺も警戒も見せずに落ち 着き払っているこの女性に、森崎は逆に言葉にできない不気味さを感じてしまった。そ してその感覚は確かにどこかで覚えのあるもののような気がした。
「あ、ありがとうございます」
 車の助手席で森崎はタオルを受け取って頭を下げた。
「で、行き先はどちらなの?」
「え〜、えと、千葉の検見川です」
 女性は運転しながらこちらを振り返ってにっこりと微笑を返した。
「ごめんなさいね、そんなタオルだけで。着替えてもらえばよかったんだけど、私もこ っそり抜け出してきたところだったから。ヒーターが利いてくると思うから我慢して ね」
 時折大型トレーラーとすれ違うくらいでほとんど交通量のない元日深夜の国道であ る。点滅信号に目をやりながら森崎は首を振った。借りたタオルで髪をこするたびに甘 い香りがする。
「大丈夫です。それより、すみません」
 結果的にヒッチハイクとなってしまった。そのことへの謝罪だった。
「あら、いいのよ。都心に出るついでですもの」
「でも何か用事があったんでしょう?」
 どうも逃げ腰になってしまう森崎だった。何か、どこか、本能的に危険を感じるの だ。こんなに、見た目は大人しげな女性なのに、それだけではない「何か」が隠れてい るような感覚が。
「用事? もちろん、夜遊びよ」
 がしっとシートベルトに救いを求める森崎だった。
「社会勉強さえさせてくれない親だなんて、息が詰まって。たまには息抜きしないと。 ね?」
 同意を求められても森崎には答えられない。頭の中でただひたすら警報ベルが鳴り続 けていた。






「あの世ってのは変な所だな…」
 うつ伏せのまま顔だけわずかに上げると、周囲には竹がいっぱい生えていた。
 が、身を起こして見れば、それはすべて椅子とテーブルの足だった。竹材をふんだん に使った内装を見て、ここは和風の飲食店だと気がつく。照明はついているが人の姿は まったくない。
 若島津は座り直そうと手をついた。が、左肩の痛みに顔をしかめる。
「痛いってことは俺は生きてるのか…」
 状況を整理しようと、ガンガンする頭を無理に働かせる。
 ヘリコプターから振り落とされ、底無しの真っ暗な虚空を落ちていったのは覚えてい る。確か森崎の叫び声が聞こえたような気がして…。記憶はそこで途切れていた。
 なぜ自分はこんな所にいるのか。ここはどこなのか。――それがさしあたっての問題 だった。ふと見ると、戸口の内側にのれんが掛けてある。
「そば処フランボワーズ…? なんだそりゃ」
 のれんの文字を読んで首をひねる。そば屋というのは店内の様子から見て納得がい く。が、しかしこの名前のセンスは…。
「なんだぁ、あんたは! 今日はウチは休みだよ」
 突然の声に振り向く。店の奥に通じる仕切りののれんを手で分けて若い男が二人立っ ていた。不審げに若島津を上から下までじろじろと見る。なにしろぐっしょりと濡れて いるのだ。
「…雨やどりかい?」
「ええっ! 雨降り出したのかー?」
 若島津が答えようとするより先に、少し年かさのほうの青年がそう叫んで表に走っ た。
「…なぁんだ、降ってなんかいないじゃないか。あせっちまったぜ。天気次第で所要時 間がかなり違ってくるからな」
 戸口で一人でしゃべり一人で納得している。
「南葛から東京までだと1時間は差がつくからな。ああよかったよかった」
「えっ、南葛?」
 思わぬ地名を耳にして若島津は振り返る。
「ここは南葛市なんですか、静岡の…」
「そうだよ。何だ、あんた道にでも迷ったのかい? こんな夜中になんて」
 戸口を閉めながら年長の男が店内に戻って来た。
「それより、この寒いのにそんなに濡れてちゃだめだ。ちょっと待ってな」
 若い方が奥に一度引っ込む。若島津はその後を見送りながら素早く思考をめぐらせ た。
 そば屋、南葛。――森崎の家なのか、ここは!
――あいつ、俺を自分ちに運んじまったんだな。
 あの後のいきさつはわからない。しかし意識を失うその瞬間に、一つの同じ夢を共有 していたような、森崎の気配と体温をそばに感じたような記憶だけがどこかに残ってい た。
 そしてこうして運ばれて来たのが森崎の実家だったとなると――救ってくれた人物が 誰なのかもはや疑いようはない。
 しかし当の本人がここにいないということは、その身に何か起きたのだろうか。
 若島津の耳に若林の言葉が蘇る。――ひとつ間違えば…と。
「あんた、どこか行く途中なのか?」
 残った年長の男のほうが話し掛けてくる。
「あ、そう…、千葉へ」
 あとの3人がどうなったのかは気になったが、とりあえず行き先と言うとそこしかな かった。
「千葉か。じゃあ俺のトレーラーに途中まで乗ってくか? これから築地まで行くとこ だ」
 そこへさっきの男が戻って来た。
「馬さんも話し相手ができるしね。…あ、これタオルどうぞ」
 若島津は頭を下げながら男の顔をちらっと観察した。
「こっちがきっと森崎の兄弟だな。どことなく顔が似てる。
「それから、これ、靴だけど――あんた、サイズは? …お、なら大丈夫だ。俺より背 があるから足もでかいかと思って弟のを持って来たんだ。古いけどとりあえず履いて な。なに、返さなくてもいいからさ」
 人の良さも誰かさんと同じらしかった。
「なんだよ、おまえんとこは弟のほうが足がでかいのか」
「ああ。一番下のがサッカーやってるんだ。身長もそろそろ追い越されそうで、嫌にな るよ」
 森崎の兄と、馬さんと呼ばれたトレーラーの運転手のやりとりを聞きながら若島津は 髪を拭き、ソックスとスニーカーを履き替えた。スニーカーには南葛中の校章と「森崎 有三」のマジックの文字があった。そのいかにも彼らしい几帳面さに持ち主の顔が浮か び、同時に先程の不安が頭をもたげる。
「おっ、そろそろ出るわ。…じゃな、優一、毎度悪いがこのカセット借りてくぜ」
「ああ、気をつけて」
 店の外まで出て若島津はもう一度森崎家の長男に丁寧に礼を言うと、そばの路上に停 めてあった目いっぱい派手にイルミネーションで飾り立てたトレーラーに乗り込んだ。 刺激的な正月だ、本当に。
 元日の夜はもう0時をまわって2日に入っていた。この夜の夢が初夢と呼ばれること を思い出して若島津は大きくため息をつく。
――さっきのアレが初夢か。さぞいい一年になるだろうな…。
 寝静まった南葛の市街は見る間にはるか後方に見えなくなってしまった。そして、彼 の予感は思った以上に早く現実となるのだった。







「おや、奇遇だね」
 自分のほうがよほどその場にいることを驚かれてしかるべきなのだ。それをあっさり 先回りして驚いてみせる。いつもの穏やかな眼差しと口元に浮かべた優しげな笑みは常 にその本心を反映したものとは限らなかったが、その多重構造こそが彼の真骨頂と言え た。つまりはこれが三杉流の外交術なのである。もちろん、出会い頭の発作をも外交手 段にしかねない少年であるから事は穏便に運ぶに限る。
 若林は思わずホテルのロビーの真ん中に足を止め、視線をゆっくり床に落とした。
「ヘフナーも一緒だったのか。やあ、しばらくぶり」
 出された手を素直に握り返したのはヘフナーが三杉の本性を知らないからではなく、 単にその鬼気迫る人当たりの良さ(?)に飲まれたからだった。
 時間が遅いこともあって広いロビーも人影はほとんどなく、吹き抜けの大シャンデリ アのきらきらしい輝きばかりがその場を支配していた。
 当然この場では若林とヘフナーの姿は一種異様な浮き方をしている。髪も服もすっか り濡れそぼり、あちこち泥や引っかき傷がついているし、何よりぐったりと消耗しきっ た表情で大柄な二人が肩を並べているとそれだけで異次元を作ってしまっていた。
 一方スーツを一分の隙もなく着こなした三杉は、そんなことはまったく目に入ってい ないかのように振る舞い、にこやかなまま自分の連れの人物を紹介した。
「こちらはドイツ商工会議所理事のクルト・ハウアー氏。今度の州議会議長の癒着事件 の聞き取り調査メンバーの一人として来日中だ。もっとも明日早々に帰国するそうだ が」
 二人は上の空で交互に握手を交わし、その紳士が一人ホテルから出てタクシーに乗る のをぼんやりと見送った。そして三杉の声にはっと我に返る。
「君たちもここに泊まってるのかい?」
「み、三杉! おまえ、どうなってんだ」
「僕は今夜ロンドンから帰国したばかりさ。成田から直行してここでハウアー氏と二三 打ち合わせをしていたんだ」
 答えながら三杉がエレベーターホールへ歩き始めたので、若林とヘフナーも転がるよ うにして後を追う。
「しかしおまえ、入院してたんじゃ…」
「今もしているよ。ロンドンで…代理人がね」
 若林が目を見開く。
「言っただろう? 僕には監視が張り付いていたんだ。君に帰国してもらった後、僕も ドイツに飛んで色々と動く必要があったんだ。幸いパリには岬くんがいたし」
「――岬!?」
 思わぬ名前に若林は言葉を失う。そして事の次第を飲み込んだ。体格こそ一回り小柄 ではあるが、同じジュニアユース代表の名MF岬太郎はこの三杉とたいそうよく似た面 差しをしていることでは定評があった。日本人は皆同じに見えるとさえ言うヨーロッパ の人間には区別がつかなくても無理はない。似ていると言われることを互いにひどく嫌 う当人たちであったが、この際利用できるものは曲げてでも利用しようという三杉の方 針が私情を上回ったのだろう。
「まあ、交換条件は出されてしまったがね、非常事態だから多少のことはやむを得ない …」
 その内容が彼にとって不本意なものであったろうことは、語りつつふっと眉を曇らせ たことでも察せられた。もっとも、この二人の大空翼を巡る深く静かな確執には若林自 身も何度か巻き込まれて身の危険を感じたことがあったので、そこはもうこれ以上追及 しないほうがよさそうだと若林は判断した。
「それより今言ってた癒着事件てのは何なんだ! それにおまえがここにいるってこと は、合弁のプロジェクトの件は一体…?」
 自分の部屋の扉を開けながら三杉は若林の性急な問いかけをやんわりと受け流した。 「それより、まずシャワーでも浴びたまえ。僕のでよければ着替えもある。…ヘフナー にはちょっと無理だとは思うが」
 先ほどから日本語で続けている会話で完全に蚊帳の外になっているヘフナーを振り返 って、三杉はここでにっこり微笑みかける。
「ヘフナー、君、浴衣を着てみたくはないかい? ここのホテルの浴衣は外国人用にエ キストラサイズも用意されているからね」
 その口から出てきたのはなかなか見事なクイーンズ・イングリッシュであった。学齢 前からついていた複数の家庭教師と、ここ数年の実地訓練の成果は、既に学校教育の意 義を完全に無視している。
「ユカタ…。ああ、キモノのホームウェアだな。それはぜひ試してみたい」
「ジャパネスクに徹するなら和菓子もある。生菓子を届けてもらえるよう、着いてすぐ に手配しておいたんだ」
 銀座の老舗の名前を事もなげに挙げる。いわゆる一見の客は対象にせず、馴染客から の予約注文の分しか作らないという店に、元日の夜に新宿まで届けさせるというのだか ら只事ではない。
「ああ、いつもあの店と決めているんでね」
 若林の疑問にこれはあっさり種明かしする。
「1ヶ月近くも日本を離れていたから、いい和菓子を早く口にしたかったんだよ」
「和菓子っておまえ…、肥満は心臓に悪いって知らんのか」
「君に言われるとなかなか説得力があるね」
 あくまで三杉は笑顔を崩さない。
「俺は肥満しとらんっ!!」
「誰もそんなことは言っていないよ。…ああ、ヘフナー、浴衣と丹前はそこのクロゼッ トに入っている。帯も忘れずに」
 さっそくバスルームに向かおうとしたヘフナーに声をかけて若林の怒気をあっさりか わす。いかなGSGKでもこの天才的戦略家にはかなおうはずがなかった。若林はあく まで正攻法の男なのだ。
「それに訂正させてもらうなら、和菓子は洋菓子に比べてはるかに健康的だよ。ダイエ ットの面でもね」
「…三杉」
 若林の煮詰まり方を横目で確認した上で三杉は真顔になった。ネクタイを緩め、ソフ ァーに深く身を沈める。
「僕の依頼に君は十分に対応してくれたようだね。生命の危険さえも冒して。いかに大 変だったかはそのジャケットの弾痕を見てもわかるよ」
 言われて若林は自分のレザージャケットの右脇に手をやる。あの時、ビルの上で撃た れた時に貫通して行った痕である。ちゃんと観察すべき所は見逃していないのだ、三杉 は。
「だが、その甲斐あって今回の事件の全容がつかめた上に汚職スキャンダルとして黒幕 を追いつめることもできた。本当に感謝しているよ」
 若林は呆気にとられた顔で三杉を見つめた。
「なに、つまり…」
「当初の情報の通り、うちの合弁相手のライバル社と、表に出せない融通をし合ってい たんだ。そして当の本人が公用で来日している今が唯一のチャンスだった。これまでも 何度か証拠を押さえかけるたびにトカゲの尻尾切りでその本人にまで手が伸ばせなかっ たらしい。しかし今回どうしても当人が動かざるを得ない状況を作ればそのスキを突く ことができる…」
「待てよ、おい、俺を当て馬に使ったって言うのか!?」
「――オフサイドトラップだ」
 思わず声を荒げかける若林の目をまっすぐに受け、三杉は静かに言い放った。
「自陣深くまで敵を呼び込む必要があった」
 しばしの沈黙が流れる。その間に空転しかかる頭脳をかろうじて立て直した若林は、 今度は低く切り出した。
「…一つ教えてくれ。あのディスクの情報はただの罠で、合弁のためのプロジェクトな んかじゃなかったってことか?」
「いいや、僕が作ったプロジェクトが入っていたのは本当だ。ただ、キーワード用のほ うのディスクの余白に、議長が横流ししていた政治献金についてのデータを『ついで に』入れてあったというわけでね」
 連中のあの執拗な追跡の本当の目的がようやく理解できて若林はガックリ肩を落と す。こいつを敵に回すことだけはやめよう。何をおいてもだ。
「三杉、シャワー借りたら俺は病院に戻ることにする。また痛みがぶり返してきたし、 頭もクラクラする」
「おや、それはいけないね。でも今夜はもうこんな時間だ。朝までここで休んでからに したまえ。この5日間の君の冒険談もぜひ聞かせてほしいしね」
 貴公子の特上の笑顔が怖かった。新しい年の初めに、サッカー「だけ」への精進を強 く心に誓う若林であった。



                                                               ―― 第五章・おわり ――





<<五章−1 | MENU | エピローグ>>