第三章 南南西に進路をとれ
●
バスは遅れていた。峠を一つ越えてやってくるそのバスは、終点のこの村で
折り返し麓に向かうはずだったが、一向に現われる気配がない。これだけの雪
なのだ、都市部ならあっさり運休しているところだが、谷あいの村々を結んで
のんびりと運行されているここの路線は、この程度の雪にへこたれることはな
い。のんびりと走り、のんびりと遅れ、利用客ものんびりとただ待つのであ
る。
負けずにのんびりしていたシュナイダーもさすがにどうも変だ、と思い始め
たところだった。こじんまりしたバスの待合室で、周囲の客たちのそのゆった
りとした空気にすっかり馴染みきってただぼーっと待っていたものの、そろそ
ろ4時間ばかりが過ぎようとしている。北ドイツ人特有の几帳面な性急さは、
日常生活に限って言えば…シュナイダーにはほとんど見受けられない。周囲の
客たちのペースに染まっていたのも事実だったが、それ以前に自分を取り巻く
時間に対する執着心が薄いのに違いない。
と、その時、居合わせた人々が一斉に立ち上がって外に目をやった。何やら
けたたましい物音が道の向こうから響いてくるのだ。シュナイダーもワンテン
ポ遅れて外を見た。
小雪のちらつく中、村の中心を通る道を大勢の人々が列を作って練り歩いて
来る。先頭で大きな木のリースをかかげ持った男が大声で口上を述べている様
子だ。その後に恐ろしげな顔の木彫りの仮面をつけた数人が、見物人を脅すよ
うなそぶりを見せながら跳ね回り、さらにその後からホルンや打楽器を携えた
一団が続く。恒例の冬送りの行事、ファスナハトであった。
現在はキリスト教の暦に合わせた祭日(カーニバル)になってはいるが、本
来は自然と共存する原始信仰の流れを伝えるもので、山国のつらく厳しい冬を
克服するための呪術的な儀式なのだ。
シュナイダーは目を丸くした。ケルンやリオデジャネイロのような華々しい
パレードで知られる観光化されたものもあるが、彼の生まれ育った北ドイツで
はカーニバルと言ってもごく内輪の無礼講でしかない。
「わしらも行こうぜ!」
バス待ちをしていた地元の男たちが目を輝かせて飛び出して行った。シュナ
イダーもつられるように建物を出る。ちょうど目の前を行列が通り過ぎようと
していた。
「お兄ちゃん、見に行かないの?」
急に声をかけられてシュナイダーははっと視線を下ろした。同じ軒の下に小
さい女の子が立っていてシュナイダーを見上げている。7、8才くらいだろう
か。白レースのエプロンをつけ、栗色の髪に祭りの日らしい大きなリボンを結
んでいる。
「……?」
「あれよ、ファスナハトの行列」
「…うん」
シュナイダーは上の空で答えた。少女の顔に一瞬妹の姿が重なったのだ。い
や、違う。マリーは金髪だ。そう、それにこれくらい小さかったのはもうずっ
と前だった。
「君は…?」
「あたしいいの。父ちゃんを待ってるから」
女の子は道の反対側を指した。おそらくシュナイダーが待っているバスで帰
って来るのだろう。
「それにおっかないでしょ、あれ」
女の子の目の先をシュナイダーも追った。冬の魔の象徴である悪鬼たちが、
髪を振り乱して村人の間を練り歩く。冬は追われ、まもなく春がやってくるの
だ。
「悪い子は食われる、ってばあちゃんが言ってたけど、あたしは大丈夫よ。悪
い子じゃないわ」
自分を納得させるように少女は言った。それでも顔には不安そうな表情が浮
かんでいたが。
「あたしユリアナよ」
唐突に少女は名乗った。
「お兄ちゃんは?」
「…カール」
「まあ!」
少女は目をまん丸にした。
「父ちゃんと同じ名前だ!」
そりゃ、よくある名前だから…。シュナイダーがそう答えようとした時、行
列の周囲でまた大きな歓声が上がった。道化役の男たちがわざと観衆の中に飛
び込んで大暴れを始めたのだ。衣装に付けられた大きな牛の鈴がけたたましい
音を響かせている。だが群集は群集で、触ると一年の幸運が得られるという道
化の杖に争って手を伸ばして、もう大変な騒ぎになっていた。まさに無礼講で
ある。
「ねえ、カール。あたし、おなかすいちゃった」
その騒ぎに目を奪われていたシュナイダーは、少女の言葉に戸惑った。
「え…」
「カールは? おなかすいてるでしょ」
ただ立っているだけでフィールドの隅から隅までをその威圧感で支配してし
まう、そんないつものシュナイダーをここで想定してはいけないのだろう。な
にしろここは見知らぬ土地、道に迷った挙句にまだどうやって目的の地に行け
ばいいのかよくわからないという状況である。昨夜泊まった村の人々が別れ際
に無理やり着せ付けてくれた上着やマフラーにもこもこと埋もれてしまってい
る彼の姿には、とてもこの少女に太刀打ちできるだけの迫力はなかった。
「ね、ね、お昼一緒に食べましょうよ!」
「…?」
そう言われてもシュナイダーはどうしてよいのかわからない。確かに今朝早
く食事をして以来だから空腹なのは事実だったのだが。
|