3章 1



第三章 南南西に進路をとれ







 バスは遅れていた。峠を一つ越えてやってくるそのバスは、終点のこの村で 折り返し麓に向かうはずだったが、一向に現われる気配がない。これだけの雪 なのだ、都市部ならあっさり運休しているところだが、谷あいの村々を結んで のんびりと運行されているここの路線は、この程度の雪にへこたれることはな い。のんびりと走り、のんびりと遅れ、利用客ものんびりとただ待つのであ る。
 負けずにのんびりしていたシュナイダーもさすがにどうも変だ、と思い始め たところだった。こじんまりしたバスの待合室で、周囲の客たちのそのゆった りとした空気にすっかり馴染みきってただぼーっと待っていたものの、そろそ ろ4時間ばかりが過ぎようとしている。北ドイツ人特有の几帳面な性急さは、 日常生活に限って言えば…シュナイダーにはほとんど見受けられない。周囲の 客たちのペースに染まっていたのも事実だったが、それ以前に自分を取り巻く 時間に対する執着心が薄いのに違いない。
 と、その時、居合わせた人々が一斉に立ち上がって外に目をやった。何やら けたたましい物音が道の向こうから響いてくるのだ。シュナイダーもワンテン ポ遅れて外を見た。
 小雪のちらつく中、村の中心を通る道を大勢の人々が列を作って練り歩いて 来る。先頭で大きな木のリースをかかげ持った男が大声で口上を述べている様 子だ。その後に恐ろしげな顔の木彫りの仮面をつけた数人が、見物人を脅すよ うなそぶりを見せながら跳ね回り、さらにその後からホルンや打楽器を携えた 一団が続く。恒例の冬送りの行事、ファスナハトであった。
 現在はキリスト教の暦に合わせた祭日(カーニバル)になってはいるが、本 来は自然と共存する原始信仰の流れを伝えるもので、山国のつらく厳しい冬を 克服するための呪術的な儀式なのだ。
 シュナイダーは目を丸くした。ケルンやリオデジャネイロのような華々しい パレードで知られる観光化されたものもあるが、彼の生まれ育った北ドイツで はカーニバルと言ってもごく内輪の無礼講でしかない。
「わしらも行こうぜ!」
 バス待ちをしていた地元の男たちが目を輝かせて飛び出して行った。シュナ イダーもつられるように建物を出る。ちょうど目の前を行列が通り過ぎようと していた。
「お兄ちゃん、見に行かないの?」
 急に声をかけられてシュナイダーははっと視線を下ろした。同じ軒の下に小 さい女の子が立っていてシュナイダーを見上げている。7、8才くらいだろう か。白レースのエプロンをつけ、栗色の髪に祭りの日らしい大きなリボンを結 んでいる。
「……?」
「あれよ、ファスナハトの行列」
「…うん」
 シュナイダーは上の空で答えた。少女の顔に一瞬妹の姿が重なったのだ。い や、違う。マリーは金髪だ。そう、それにこれくらい小さかったのはもうずっ と前だった。
「君は…?」
「あたしいいの。父ちゃんを待ってるから」
 女の子は道の反対側を指した。おそらくシュナイダーが待っているバスで帰 って来るのだろう。
「それにおっかないでしょ、あれ」
 女の子の目の先をシュナイダーも追った。冬の魔の象徴である悪鬼たちが、 髪を振り乱して村人の間を練り歩く。冬は追われ、まもなく春がやってくるの だ。
「悪い子は食われる、ってばあちゃんが言ってたけど、あたしは大丈夫よ。悪 い子じゃないわ」
 自分を納得させるように少女は言った。それでも顔には不安そうな表情が浮 かんでいたが。
「あたしユリアナよ」
 唐突に少女は名乗った。
「お兄ちゃんは?」
「…カール」
「まあ!」
 少女は目をまん丸にした。
「父ちゃんと同じ名前だ!」
 そりゃ、よくある名前だから…。シュナイダーがそう答えようとした時、行 列の周囲でまた大きな歓声が上がった。道化役の男たちがわざと観衆の中に飛 び込んで大暴れを始めたのだ。衣装に付けられた大きな牛の鈴がけたたましい 音を響かせている。だが群集は群集で、触ると一年の幸運が得られるという道 化の杖に争って手を伸ばして、もう大変な騒ぎになっていた。まさに無礼講で ある。
「ねえ、カール。あたし、おなかすいちゃった」
 その騒ぎに目を奪われていたシュナイダーは、少女の言葉に戸惑った。
「え…」
「カールは? おなかすいてるでしょ」
 ただ立っているだけでフィールドの隅から隅までをその威圧感で支配してし まう、そんないつものシュナイダーをここで想定してはいけないのだろう。な にしろここは見知らぬ土地、道に迷った挙句にまだどうやって目的の地に行け ばいいのかよくわからないという状況である。昨夜泊まった村の人々が別れ際 に無理やり着せ付けてくれた上着やマフラーにもこもこと埋もれてしまってい る彼の姿には、とてもこの少女に太刀打ちできるだけの迫力はなかった。
「ね、ね、お昼一緒に食べましょうよ!」
「…?」
 そう言われてもシュナイダーはどうしてよいのかわからない。確かに今朝早 く食事をして以来だから空腹なのは事実だったのだが。
「ばあちゃんち、あっちよ」
 彼の半分ほどの背丈しかない少女に手を引っぱられて、シュナイダーは人だ かりとは別の方向に歩き出した。
「はい、これパン」
 今朝自分も手伝って焼いたのだと得意げに付け加える少女の手からシュナイ ダーは不思議そうに縄編みパンを受け取った。
「ちょっと待って、ばあちゃん捜してくる!」
 少女が案内して来た大きな家は、どうやら宿屋を兼ねたレストランになって いるらしかった。低い天井の下にテーブルと椅子が何組か並んでいる。
「なんだか…」
 シュナイダーは周囲を見回した。さっきから変な匂いがしているような気が する。
「きゃあ! ばあちゃん!」
 隣の部屋から少女の絶叫が聞こえた。シュナイダーは急いでその声のほうに 走る。
 古い造りのその台所に、少女がへたり込んでいた。広い床の真ん中に木の扉 があり、その板の隙間から白い煙が洩れているのだ。
「カール!」
 少女は背後に現われたシュナイダーにすがりついた。
「ここ、開けて! ばあちゃんが、ばあちゃんが…」
「この下は…?」
 煙に顔をしかめながらシュナイダーは重い扉を引っぱり上げた。途端に煙が 噴き出てくる。
「店の倉庫なの。ばあちゃん、お酒を片付けるって朝から入ってたから…きっ とまだ中にいるわ!!」
 自分を押しのけるようにして少女が先に地下に下りて行ってしまったので、 シュナイダーはしかたなく後に続いた。
「ばあちゃーん!」
 そこはかなり広い貯蔵庫だった。壁一面に棚がしつらえてあって、さまざま な食料品や酒の瓶などが並んでいる。が、煙が地下室一杯に充満して中はよく 見通せない。
「…ばあちゃん、ばあちゃん!!」
 少女は煙を手で避けながら声を限りに呼ぶ。シュナイダーもじっと目を凝ら した。
「ユリアーナ!」
 かすかに声が聞こえた。反対側の壁際だ。煙の間に人影が一つ動いている。
「ばあちゃーん!」
 煙にむせながら二人は駆け寄った。
「大丈夫? 早く出なきゃ!」
「ユリアナ、駄目…。立てないよ」
 祖母はぐったりと壁にもたれていた。少女は鋭くシュナイダーを振り仰ぐ。
「手伝って!」
 太ってはいたが老人のこと、そう重いわけではない。シュナイダーは一人で ひょいと抱え上げた。
 が、祖母は立った拍子に激しく咳き込み、バランスを失ってシュナイダーも ろとも壁にどしんと倒れてしまった。
「……?」
 頭をぶつけたシュナイダーがくるりと振り向いて壁を凝視した。
「ドア…?」
「あ、それはお酒の樽を運んできた時に使うの。でも駄目よ。いつも向こう側 から鍵がかかってるから」
 大きな木の扉であった。シュナイダーはさっき降りてきた天井の入口と、こ の扉を見比べた。この煙をくぐって少女と祖母を上に押し上げるのとここから 出るのとではどちらが手っ取り早いか…。
 シュナイダーは少し下がって助走をつけた。バキッという鋭い音に少女が身 をすくませる。が、次の瞬間大きく目を見開いていた。扉は見事に砕けて、そ こには馬小屋の空間が広がっていたのである。
 祭りの途中、煙に気づいて駆けつけて来ていた村人たちが、半地下の馬屋か らでてきた3人にわっと歓声を上げた。祖母はすぐ向かいの家に運ばれ、ユリ アナは大人たちに抱き上げられた。
「カール!」
 人垣から声が上がった。シュナイダーは条件反射でそちらに目をやった。 と、目に入ったのは。
「バスだ」
 軒先越しに、彼が朝から待っていたバスの姿が見えた。これに乗り損なえば またいつになるかわかったものではない。シュナイダーは全速で駆け出した。
「カール!」
 また声が上がる。が、それは今向こうから駆けて来た男に対してのものらし かった。すれ違う時、運転手姿のその男がちらりとシュナイダーに目を止めた が、シュナイダーは構っている間もなくバスを追う。
「カール、今、ユリアナが…!」
 父親は両手を広げて娘を抱き止めた。かぶっていたバス会社の制帽が雪の上 に落ちる。
「父ちゃん!」
「大丈夫か、ケガしなかったか、ユリアナ」
「うん」
 少女はうなづいて父親の肩越しに指をさした。
「カールがドアを蹴って助かったの」
「えっ!?」
 父親は娘の指す先を振り返った。一度閉まったドアをまた開けてもらって、 シュナイダーが乗り込むのが遠くに見える。
「カール兄ちゃーん、バイバーイ!」
 父親はここまで自分が運転してきたバスが走り去るのを、無邪気に手を振る 娘と交互に見た。
「じゃ、今の…本物か?」
「何がだい、カール」
「信じていいのか、こんなこと…」
 父親は呆然とした顔で首を振る。
「本物の……カールハインツ・シュナイダーが、なんでうちの娘を助けるんだ …?」
 少し煤に汚れた顔で、少女はにこっと父親を見つめた。








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