3章 2










 まぶしい光が全身を包んだかと思った途端、森崎の意識がすうっと遠のい た。光の束が奔流となって彼を押し流し、上も下もわからなくなった次の瞬 間、森崎は何もない中空にいる自分に気がついた。
「…な、何!?」
 足の下に感覚がない。自分を包む空気にそよとも動きが感じられない。何よ り、今の今まで自分がいた世界がそっくり消えてしまっているのだ。
「…ヘフナー!」
 声を出したつもりが、声にならない。
「……!?」
 森崎は周囲の空気が突然動き出したことに気づいた。風ではない。もっと感 覚を包むような、静かな動きだった。
「誰、君は…?」
 少し離れた所に人が座り込んでいた。森崎が一歩を踏み出すと、相手が顔を 上げた。目にまだ涙をいっぱい溜め、しゃくり上げながら森崎をじっと見る。 金色の髪に青い瞳…。年のころは10才くらいの小柄な少年だった。
「そこで何をしているんだ!?」
 それは恐怖感ではなかった。しかし森崎は背に何か電気でも通っていくよう な異様な感覚にとらわれた。警戒…? おそらく若島津ならもっと具体的に危 険を感知できるだろうに、と心の中で考える。
「僕…出られないんだ、ここから」
 少年は片方の腕でぐいっと目をこすって口を真一文字に結んだ。が、見る見 る涙があふれる。
「ずっと出られなくて、こわいんだ」
 空間は動かなかった。森崎と少年を取り囲んで、握りしめるように、ただじ っと沈黙していた。










「どうだ…?」
 長々と続くコンクリート塀にもたれて若島津が無関心に尋ねた。尋ねながら 紙コップの熱いコーヒーを喉に流し込む。
「でかいな」
 塀の上に座り込んだ若林は半分は肉眼で、半分は隠れた能力で確認した第一 印象を口にした。雪闇の中、広々とした敷地内に点在するのは、機能的に配し た工場セクションと総務部を中心とした経営セクションの建物群である。ま た、社員用の低層集合住宅もその一隅に抱えており、まさに一つの「町」の様 相を呈していた。
「さて、どこらへんから接触するかだな…」
 こちら側から一番手前にあるオフィス部には、深夜近いというのにまだ点々 と照明がついている。
「…けっこういける」
 若島津はさっきから頭上の若林には目もくれず、立ったまま食事に没頭して いた。中身が大きくパンからはみ出ている豪快なサンドイッチにかじりついて ぼそりと感想を述べる。ちなみにこれらの飲食物は、ここF・ヒンツ社に来る 途中で駅前の軽食スタンドで仕入れてきたものである。
「俺のコーヒー!」
 大声で吠えて、若林は塀の上から飛び降りた。若島津の足元で、彼の紙コッ プはその熱で雪を溶かし進みながら半分以上埋もれている。
「アイスコーヒーにする気か!」
「氷も入れてほしいならそこらにあるぞ」
 若島津は口を動かしながら側の街路樹のつららを目で指し示す。若林はすぐ さま抗議を諦め、大事なコーヒーを雪の中から救い出した。
「待て、動くな」
 低いが鋭い若島津の言葉に、若林はさっと塀に張りついた。その前を乗用車 の音が通り過ぎる。若林はその車の後ろ姿をじっと見つめた。
「…何だ?」
 いつまでもその方向を睨んでいる若林に若島津が声をかけた。
「何か匂ったのか?」
「いや…」
 若林は頭をかいた。
「気のせいだろう。俺はヘフナーみたいにはいかん」
「で、いけそうか」
 若島津は食べ終わった食事のクズをぽんと側のゴミ缶にトスする。その唐突 な問いに若林はにやりと笑い返した。
「もちろんだ」
 直接敵地に乗り込む危険を冒すからにはそれなりの成果を期すことになる。
「証拠はそろそろヘルナンデスが押さえている頃だろう。俺たちは『現物』を 手に入れなくちゃな、早いとこ」
 若林はコーヒーを飲み干した。その動作のまま手を止め、やおら紙コップを ぐしゃりと握りつぶす。
「それより俺が気になってるのはあの『力』のほうなんだ。あの間抜けな追跡 者連中と、俺たちの行く先々で確実に準備して待ち構えているあの『力』が同 じとは思えん」
 若林は眉を寄せた。
「それに森崎を吸い込んだ後ぱったり気配が消えているんだ。どうも不気味で な」
 若島津は立ったまま、若林をじっと見返した。それはつまり森崎の魂の消息 も不明のまま手掛かりなしということだ。若島津は何も言わず、塀に近寄っ た。
「…先に行くぜ」
 へりに取りついたかと思った途端、トンと蹴り上げるようにして身を躍ら せ、塀の向こうに消える。
「野郎…!」
 出遅れるのも出し抜かれるのも大嫌いな若林であった。間髪を入れずダッシ ュする。愛想の悪いパートナーにもそろそろ慣れなくてはならないようだっ た。










 風が吹いているような気がした。
 白い闇。現実世界と遠く切り離された空間。そこには何もないのではなく、 何ものも在ることを拒絶されているのだ。そう、その少年以外は。
「君の名前は…?」
 森崎はせめて言葉だけでもその闇を埋める足しになりはしまいかと、思った 通りを口にしてみた。少年は、しかし言葉よりも目の前の森崎という存在が嬉 しいのだろう、泣き顔を精一杯勇ましく上げると、森崎の顔をじっと見た。
「フリッツ」
「え、と…俺は森崎。日本人だ」
 念のために言い添える。ここで国籍が問題になるとは思えなかったが。
「モリサキ…?」
「出られないって、ずっとここにいたのかい?」
 少年はまた悲しそうにうつむいた。
「いつからかわからない…。何も覚えてないんだ、以前のこと」
 うつむいたままの少年の髪が、その時、きらりと何かの影に反射した。森崎 ははっとして視線を上げる。
「うわ!」
 視界の端に、白いものがすうっと横切った。
「シュ、シュナイダー!」
 宙高く、その姿は彼らの頭上を滑るように過ぎて行く。分厚いハーフコート にマフラー姿のシュナイダーが首を巡らした。一瞬二人のほうに目をやったか に見えたが、その視線は何も捉えている様子がない。おぼろげな、霞がかった ようなその像は、おそらく実体ではないのだろう。あっと思った時にはそのま ままた白い闇に溶けて行ってしまった。
「フリッツ、今のって…シュナイダーだろ!?」
 少年はまったく関心のない顔で、振り仰ぎさえしなかった。
「…色んなものが通って行くよ。でもどうせつかまらないんだ。誰も僕を見な いし、誰も助けてくれやしない…」
「でも…」
 森崎は拳を固める。
「知ってるんだろう、シュナイダーを。ドイツの、最高のプレイヤーの。君 が、君が追ってるんじゃないのか!」
 少年は少し首を傾げた。
「知ってるよ。でもどんな人かは知らない。僕はただ命じられただけなんだ、 彼を攻撃しろ、って。彼を追うすべての者を、って…」
「…命じられた!?」
 森崎は棒立ちになった。
「僕はここを動けないけど、僕が心に思い浮かべたらその力が届くって言うん だ、外の世界でも」
「言うって、それ、誰が…!?」
 少年の目に急に怯えの色が走った。手を伸ばして森崎の両手をぐっと握りし める。
「黒い、大きなものなんだ。言うことをきかないと、きっと僕なんて飲み込ん じゃうんだ。…ううん、言う通りにしてたって、きっともうすぐ僕、あいつに 飲み込まれる!」
 少年は森崎の胸にわっと泣き伏した。
「じゃあ、やっぱりシュナイダーは…」
 言いかけて森崎は口をつぐんだ。周囲にまた風の気配がして顔を上げる。 が、森崎は突然気がついた。
 風ではないのだ。
 この空間そのものがどこかへ向かって流れている! だが一体どこへ?
「意志…」
 若林が繰り返し言っていた言葉が心に浮かんだ。シュナイダーを追い詰め、 彼らを狙い、そしてこの少年を闇に閉じ込めた『誰か』の意志がゆっくりとこ の空間を押し流しているのだ。
「シュナイダー」
 森崎は頭上を見渡した。だがそこにはもう何の影も見えはしなかった。









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