3章 3










 無人のはずの深夜の総務部。その広いフロアをヒールの音が横切っていく。
「とんでもないわ」
 壁際のファイル棚の前に立ち、ヨアンナは腹立たしげに頭を振った。抱えて いた書類ホルダーから鍵を出し、手馴れた様子で扉を開ける。尾行者がいると は夢にも思っていないようだ。
『こんな時間まで残業とは感心なもんだな』
『ワーカホリックは日本人だけの専売特許じゃないぞ』
 秘書は手にしたファイルをそのまま自分のホルダーにはさみ、棚を離れた。 それからふと気がついたように会長室のドアを見やる。一体何が会長を動かし たのか。病身とは言え、実際の業務にそう差し障りのあるほどの容態ではなか った会長は、しかしそのほとんどの時間を本社のこの一番奥の部屋で無為に過 ごしていた。まるで会社そのものにすべての意欲をなくしたかのように。
 それは体力的なものよりも精神的な衰弱と彼女の目には映った。だからこそ 副会長の野心に手を貸す決心をしたのではあったが。
「…それが専務の誘いにあっさり乗ってスイスへ、だなんて」
 自分たちの知らない所で何かが進行しているようで、不可解さより不安感が 先に立つ。ヨアンナは少しためらってからドアを押し、会長室に入った。
 点灯すると、デスクの前に置かれたサイドテーブルが目に入った。会長と専 務が手合わせしたチェスの盤面がそのままに残されている。まだ数個の駒が残 っている中に白のキングが一つ倒れていた。それが投了のサインだということ は知らないヨアンナは、手を伸ばして拾い上げようとする。
 が、その手がぴくっと止まり、キングは指の間からカタンと音を立てて落ち た。
「…誰っ!?」
 悲鳴に近い声を上げて、さっとヨアンナは身構えた。
「誰なの、そこにいるのは!」
 部屋の入口に二つの黒い影がゆっくりと姿を現わした。
「あなた、ハンブルクのワカバヤシ!」
「一軍に上がりたての俺を知ってていただけるとは光栄ですね」
 口調に笑いを含んでいたが、会長秘書を見つめる若林の視線は鋭かった。
「それとも既に俺のことは調査済みだったってことですか?」
 若林の手からひらりと滑り落ちたのは、ウルム駅で追跡者の車の中から持ち 出した書類であった。若林の名を筆頭に、シュナイダーと交友のある知人友人 の名とデータが順に列挙されている。シュナイダーの動向をマークするための 文字通りブラックリストというわけだった。
「あなたたち、一体どこから…!?」
「質問に答えてもらえますか」
 狼狽のあまりしどろもどろになっている会長秘書に、若林は厳しく言い放っ た。
「F・ヒンツ社はシュナイダーを追っていた。そのためには俺たち周囲の人間 に危害を加えることも辞さなかった。これは事実ですね?」
「そ、そんなことは…」
 激しく首を振って後ずさりしようとしたヨアンナの手から、書類ホルダーが ばさりと落ちた。3人の目が同時にそこに注がれる。床に散乱したそれは…。
「なるほど、バイエルン・ミュンヘンの内部資料か」
 中の一枚を若島津が拾い上げた。書類の右上にはバイエルンのエンブレムが しっかり入っている。コピーを何回も重ねてかすれているのが、正規のルート で入手したものでないことを物語っていた。
「しかしね…」
 若島津から受け取った書類を一瞥して、若林はちょっと眉をしかめた。
「シュナイダーをサッカー界から追放して、何のメリットがあるというんで す、あんたたちに」
「…偶然だったのよ!」
 秘書は顔を歪めた。
「相手があのシュナイダーだとわかった時、私たちがどんなに当惑したかわか る? 全てを秘密裡に処理しなければならなかった時に、あんな誰もが注目し ている人物の名を突きつけられて…!」
「相手? どういうことです。あんたたちは何をしようとしてたんです、あい つに!」
 若林が一歩を踏み出した。ヨアンナはびくっとして身を引く。その背がサイ ドテーブルにガタン、と突き当たった。
「こっちが聞きたいくらいだわ!」
 秘書の顔は興奮に青ざめていた。
「あれが私たちの最後の切り札だったのよ。それを、それを彼が台無しにして …」
「チューリヒのペーパーカンパニー、か」
 ヨアンナの表情が一変した。
「そう、知ってたの、全部わかってんのね! やっぱりあなたたち、シュナイ ダーと示し合わせて…!」
「待てよ!」
 若林はちらっと若島津を振り返りながら秘書をさえぎった。
「俺たちはあいつを探してるんだ。あいつは俺たちには何も言わずに消えちま った。あんたたちこそ居場所を知ってるんだろう!?」
「嘘!」
 若林に肩をつかまれて、ヨアンナはキッと睨み返す。
「でなければどうしてここに来られるの。どうしてここを知ってるって言うの よ!」
「………!?」
 言葉を返そうとして、若林は絶句した。
 気配が…突然彼を襲ったのだ。思い圧迫感が全身にかかり、目の前がすうっ と暗くなる。
「若林っ!!」
 硬直した彼の背に、若島津の鋭い声が飛んだ。
「そこを…離れろっ!!」
「きゃあっ!!」
 ヨアンナが悲鳴を上げる。二人のすぐ横にあったテーブルが、ぐらっと揺れ たかと思うと、チェスボードの上の駒が一度に宙に巻き上げられたのだ。同時 に、背後から若島津が飛びかかった。若林とヨアンナをなぎ倒すようにして床 に伏せる。
「なに、なんなのよっ、これっ…!」
 彼らの頭上で激しく舞っていた白と黒の駒が、急にくるくると勢いを失い、 一つ、また一つ床に落ち始めた。頭を抱えたままヒステリックに泣き叫ぶ会長 秘書から手を離し、若林が用心深く周囲を見渡した。部屋に充満していた放電 のような緊張感はいつの間にか消えている。
「…例のか、また」
 床に座り込んだまま、若島津が手近の駒を無造作に手に取った。天井の照明 に翳してみるが、もちろん何の変哲もない白のポーンであった。
「この女がやったわけじゃなさそうだな、少なくとも」
 若林はつぶやいて向き直った。若島津に手を差し出し、にやりと笑う。
「さっきは助かったぜ。おまえのタックルがなけりゃ、もろにくらってた」
「油断するなってことだ」
 若島津はその手を無視してとん、と立ち上がった。
「おまえの出力はデカすぎて、嫌でも目立っちまうんだ。ターゲットにしてく れってなもんだぜ」
「…俺たちがここに来ることは予測されていた?」
 若林は部屋を見回し、そしてはっと一点に目を止める。チェスボードだ!
「答えろ、このチェスは誰のだ! …いや、この駒を置いたのは誰だ!?」
 若林に両肩をゆすぶられ、ヨアンナはぼーっと目を上げた。
「…会長と、専務が、今夜ここで対局してそのままにして行ったものよ」
「会長と、専務…?」
 おうむ返しにしながら若林は背後の若島津と顔を見合わせた。
「その二人は今どこにいる?」
「もういないわ」
 ぽつりとヨアンナが答える。
「つい30分ほど前にここを出たわ、二人とも。スイスの別荘で転地療養する 会長を送って行ったのよ」
「…さっきの車か!」
 若林が突然叫んだ。若島津も振り返る。
「若島津、あれだ、やっぱりあれに乗ってたんだ!」
 二人が門の前ですれ違った黒い乗用車。若林の感覚を一瞬かすめた不吉なも のは、間違いではなかったのだ。
「スイス…。スイスのどこだ! その別荘ってのは!」
「…あなたがたがご自分で探せば?」
 若林につかまれたままヨアンナがくっくっと笑い始めた。結い上げていた長 い金髪が乱れて、肩口にぱらりと掛かる。
「今頃私のパートナーも必死に追ってるわ。…追って、追っても追いつけっこ ない相手を…!」
 顔をしかめて若林は手を離した。ヨアンナはまたふらふらと床に座り込む。
「そうよ、初めから無理だったんだわ、あの人には。社長の椅子も、何もか も!」
「…ヘルナンデスの推理は正しかったわけだ」
 絶望から我を失っている秘書にはもう目もくれず、若林はさっき手渡された バイエルンの資料をポケットに入れた。
「シュナイダーは、何かの形でこいつらの不正と接点を持っちまったんだな」
「あいつがそんなにマメなやつか?」
 若島津は手の中の白い駒をもう一度見てから、肩越しにぽんと放り投げた。
「こういう連中を相手に正義のヒーローをやってたとは考えられんな」
「意外性のあるやつではあるが…」
 悩みはむしろ若林のほうが大きかったかもしれない。が、その若林の背を、 若島津がどん、とどやした。廊下のほうからばたばたと人の駆けて来る音がす る。若島津は目で窓を指した。
「…しかねえな」
 若林はちょっと肩をすくめてみせた。
「後でガラス代請求されたら、FIFAにまわしちまうか」
 深夜の社内で何やら物音や悲鳴がするのに気づいた当直の警備スタッフたち があわてて総務部に駆けつけた時、そこに見たものは、派手に割られた窓と、 散乱する書類の中で放心状態で座り込んでいる会長秘書の姿だった。 












 時計は11時2分前を指していた。ヘフナーはホームの表示板を見上げたま ま、さっきから身じろぎ一つしない。
 シュトゥットガルト中央駅、11番ホーム。ミュンヘンから乗ってきた列車 は先ほどから行き先別に切り離し作業をしている。連結器がガチャン、と大き な音をたてた。ドーム状のガラス屋根にその音が微かに反響する。
 ヘフナーがはっと振り返った。その目の前を静かに車両が過ぎる。最後尾の 3両が、隣のホームで待機している北行きのローカル線に繋がれるのだ。その 入れ替わりに機関車がバックで入ってきた。そして残った6両に連結される。 引き込み式のこの駅では、入ってきた列車全てが進行方向を逆にして出発する ことになるのだ。
「おい、モリサキ」
 ヘフナーは背後のベンチの森崎に声をかけた。もちろん返事を望んだわけで はないが。
「ここで列車が別れる。北と南、そしてこの町。選択肢はこの3つのどれか、 だな」
 自分に念を押すようにつぶやいて、森崎の隣に腰を下ろす。ベンチの背にも たれかかるように「置かれている」森崎は、遠目には居眠りしているくらいに しか見えないだろう。その生気のない顔に目をやったヘフナーは、一瞬微かに 表情を曇らせた。
「おまえはどう思う、モリサキ」
 ヘフナーは手を伸ばして森崎の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。もちろん反 応はない。ヘフナーは手を止めてもう一度まじまじと見つめた。そして突然声 を荒げる。
「おまえはな、結局人がよすぎるんだ。いつだっていいように利用されて、そ れで喜んでるようなことだから、こんな奴にとっつかまったりするんだぞ!  え? わかってんのか、おい!」
 相手に意識がない以上、いくら怒鳴ってもそれは独り言でしかない。自分で もわかってやっている分、空しさが増すばかりだった。が、そのヘフナーの目 の前に、ホームをすたすたと歩いて来た駅員のびっくりした顔がぶつかった。
「…ああ、乗り継ぎですか」
 しかし駅員はのんびりと声を掛けてきただけであった。この男がつい1時間 前にウルムの駅で大騒動を起こしていたことを知ったらここまで平和な顔はで きないだろうが。
「ああ、まあ、そうです…」
 さっきまで大きな声を出していたくせにヘフナーは平然と立ち上がった。
「連れが寝込んでしまって…」
 実直そうな中年の駅員はそれなりに同情したようだった。
「いやぁ、この列車はここんとこトラブル続きでね。レールの点検の不備だ の、雪のせいだのと、これで4日続けて30分以上の遅れを出してるんですか ら」
「…4日?」
 聞き流しかけた言葉に、とっさに耳をそばだてる。
「じゃあ、水曜の夜も?」
「そう、ひどい雪でね、除雪車が立ち往生してしまって1時間くらい遅れたか な。結局北行きの列車には接続できなかったですからね」
 ヘフナーはもう聞いていなかった。頭の中で素早く計算式を並べる。シュナ イダーがここに着いた時間。接続できなかった乗り継ぎ列車…。
「じゃ、どうも」
 そうでなくてもこの大柄なドイツ人と日本人という取り合わせはそれだけで 目立つ。『死体を連れ歩いていた男!』などと評判を取らないうちに消えるに 限る。現に列車の中でも人目をごまかすのにけっこう苦労したのだ。
 ヘフナーの言葉をそのまま受け取って手を貸そうとした駅員は、片手にバッ グを持ったままもう片方の腕に軽々と連れをかつぎ上げたヘフナーを呆れ顔で 見上げただけになってしまった。
 ヘフナーは半分上の空でホームを横切ると、3両分だけ身軽になった急行列 車に向かった。乗り込む時、車体の行き先表示板にちらりと目をやる。
 それはシュヴァルツヴァルトの森深くに入って行く南行きの最終列車だっ た。ヘフナーはそのことをよく知っていた。幼い頃何度も往復した、これは彼 の故郷に向かう列車だったのだ。









 BACK | MENU | NEXT>>