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何がマズイと言ってこのタイミングだろう。総務部の窓を破って飛び出した
その先でばったりと出会ったのが事もあろうに副社長その人だったのだから。
「…と、と」
思わず足踏みをしてしまう。数人がかたまって何やらひそひそと打ち合わせ
をやっているその場に、走って来た勢いで飛び込みそうになったのだ。
「あっ、おまえら…!」
実は見覚えのある顔ばかりであった。知らないのは一人年かさの男だけ。だ
がその男が誰なのかはすぐに答えが出てしまった。
「副社長、こいつらです! ワカバヤシです!」
顔を突き合わせた瞬間、不意を突かれて絶句してしまっていた副社長は、部
下たちの声にさっと顔色を変えた。
「なんだって…!?」
彼らの驚きはもっともであった。一日あれだけ追跡した挙句にまんまとまか
れ、その対策を立て直そうと本拠地で合流したまさにその場に相手が現われた
のだから。
「…失礼したな」
いつまでも驚かれているわけにはいかない。二人はくるりと向きを変えると
反対方向に駆け出した。背後で、待てーっ!という叫びが聞こえたが、それに
応じている暇はもちろんない。
「有名人はつらいな」
駆けながら若島津が茶化す。若林はじろりとにらみ返した。
「あの手配書には致命的なミスがあるぞ…」
建物を離れると雪が深くなる。走りにくいのは確かだが、条件は追っ手も同
じである。
「シュナイダーをマークするために何人かリストアップしたようだが、あの中
でマトモにやつと付き合えてた人間が何人いるってんだ?」
何より、その筆頭に置かれたことを内心気にしている若林だった。別に奇人
変人リストというのではないが、第三者にそういう目で見られるというのは多
少傷つくものがある。
「つまりシュナイダーは身内にも、部外者にも理解不能ってことか」
「そこまで言うと見もフタもないが…」
そろそろ敷地の外れに来ているはずだった。彼らが入り込んだ場所とは別方
向になるのだが。
「まあ性格分析は後回しだ。要は今あいつがどこにいてどうなってるのかって
ことだからな」
「同感だ」
二人は立ち木を抜けて道路へと走った。またひとしきり雪が激しくなる。
「…待て」
若林の足が止まった。同時に若島津も振り返る。
「声がしなくなったぞ」
「…車か」
二人とも小刻みに息を整えた。氷点下でのランニングなどしないに越したこ
とはない。冗談抜きで肺が凍ってしまうのだ。彼らほど若くはない……ついで
に日本ユース代表のバケモノ連中と付き合いのない……追っ手の男たちが、
早々にランニングを諦めてくるまでの追跡に切り換えるのは当然だろう。
「何だ」
じろじろと見つめられて若島津がむっとする。
「あのな、俺はそっちに隠れてるから、おまえヒッチハイクやってくれ」
「何だと?」
「ヒッチハイクはな、ヤローの二人連れってのが一番不利なんだ。成功率で言
えば次はカップル、一番いいのが女一人」
「…きさま!!」
若島津は文字通り髪を逆立てた。もっともさっきの霊感とは違って単に風に
あおられていただけだったが。
「まあ怒るな。確率の問題だ。そうでなくても交通量が少ないんだからな」
若島津の拳が届かない範囲にさっと下がってから若林は手を振って見せた。
「グズグズしてるとまた連中にとっつかまるぞ」
「覚えてろよ…」
若島津は半ばヤケクソになって歩道に立った。しかし昔からヒッチハイクの
だ〜い好きな相棒を持っている彼は、言われなくてもそのノウハウについては
熟知していたのだ。
時間帯といい、天候といい、ヒッチハイクには最悪の条件だったが、程なく
一台の乗用車がスピードを緩め、ウィンカーを出して歩道側に寄せてきた。か
なりの長期戦も覚悟していただけに若島津はそれでもほっとしたが、同時に若
林の作戦がまんまと当たったことに舌打ちする。
その時、突然別の影が視界に飛び込んだ。一台のバンが乗用車の前に強引に
割り込んできたのだ。
「危ないっ!」
それを見て若林が植え込みから飛び出した。バンはそのまま横すべりを起こ
して真横に歩道に突っ込んでくる。
が、若島津の目は冷静だった。乗用車のクラクションが耳をつんざく中、ギ
リギリまで見切って最後の一瞬にぱっと飛びのく。バンは派手なスリップ音を
きしらせて、若島津が立っていたまさにその場所にぴたりと止まった。
シルバーのボディに原色がシュールに組み合わされ、その上に大きなロゴが
散っている派手極まりない車である。そのドライバー席の窓がするする下り
る。途端、若島津の表情が変わった。
「いよーっ、健、相変わらずだな!」
追っ手か、と身構えかけていた若林は呆然とする。窓から身を乗り出して手
を振る顔にしっかり見覚えがあったのだ。
「なーんだ、そっちは若林くんじゃないか、さあ、二人とも乗った乗った!」
思わず回れ右をしてその場を立ち去りかけた若島津を、若林はやっとのこと
で車内に押し込んだ。二者択一。この際選択の余地はなかったのだ。
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