3章 5










 時間の感覚が既になくなっていた。
 森崎は手ごたえのない足元にふわりと座り込んで、自分の掌をまじまじと見 る。
 ここが実体のない世界だとしたら、今いる自分は一体何なのだろう。明るさ も暗さも、暑さも寒さも、空腹も痛みもここにはない。
―俺、死んじゃったんだろうか…。それともこれって夢なんだろうか?
 並んで座っている少年をこっそりと見る。
「モリサキが来てくれて、嬉しい」
 と、その少年がぽつんと言った。言ってから森崎を振り返ってにこっと内気 そうな笑顔を見せる。
「今まで僕の話を聞いてくれた人なんていなかったから」
 森崎はちょっとつらい気持ちになる。今の時点で少年はむしろ対決すべき相 手であり、森崎の役目も少年を追及するところにあるのだ。シュナイダーを救 うために…。
「家族のこと?」
「…うん」
 少年はまた暗い目になった。
「僕、嫌われてたんだ。父さんも、母さんも、僕のこと…」
「どうして!?」
「僕が、変な力を持ってたから…」
 森崎は目を丸くした。
「…じゃ、やっぱり君はエスパーなんだね」
「エスパー? なあに、それ」
「あ、いや、いいんだ」
 森崎自身、よくわかっているわけではない。若林のその能力を―偶然に―知 ったのはもうずいぶん前のことであったが、そのことが結局森崎の日常に直接 かかわることはなかったからだ。そう、あの3年前の東京での事件を唯一の例 外として。
 若林はいつも森崎も仲間だと言ってくれるが、森崎にはよくわからない。若 林のテレパシーを受ける能力のことを言われているのかもしれないが、それは 若林自身の力の強さの故なのだろうし、たまたまキーパーという同じ立場にい ることがそうさせているのだろう、としか思ったことはない。
「…他に、覚えてることはないの?」
 少年の悲しげな顔がつらくて、森崎は話を別に向ける。それでも手がかりだ けは必要なのだ。
「住んでた所とか」
 少年は首を振った。
「駄目だよ。自分のことを考えようとすると、いつも頭の中がぼーっとしてし まって…」
「君が誰で、どうしてこういうことになったのか、それがわかればシュナイダ ーを助けられるんだ。…そしてきっと君も」
「僕も…? 助かる?」
 目を見開く少年に、森崎はうなづいて見せた。
「そうだよ。それに俺には仲間がいるんだ。外からもきっとなんとか手助けを してくれるよ」
「仲間? 仲間って何…?」
「知らないの?」
 森崎の胸が痛む。この子は両親にさえ疎まれ、おそらく友達もなく、その力 ゆえにこのような空間に閉じ込められてずっと過ごしてきたのだ。まったくの 一人きりで。
「友達だよ。俺のことを大事に思ってくれる人のこと」
 一瞬自分の差している3人の顔が浮かんで、その定義に少々違和感を覚えて しまったが、この際一般論で通すしかない。
「大事に、思ってくれる人…」
「うん、俺のことも、君のこともだよ」
 森崎の言葉に、少年はびっくりして顔を上げた。
「僕の…ことも大事に思ってくれるの、その人たち」
「もちろんだよ!」
 森崎は力いっぱいうなづいた。静岡の明るい太陽に当たりすぎたせいか、南 葛の人間は一様に楽天主義である。ことに小学校の時からあのむやみに明るい 少年を中心に一緒にサッカーをやってきた連中は例外なく。
「モリサキって、変わってるね」
「そ、そう?」
 少年がくすくす笑い出したので、森崎は当惑しながらも少しほっとする。少 なくとも少年が悲しんだり怯えたりするより、笑顔でいてくれたほうがどんな にいいか。
「モリサキと話してると何でもかないそうな気がするよ」
 誉められてるのかな。きっとそうだね。












「スイスだって?」
 剛の目が好奇心にキラリと光った。
「へえ、追われてるのに目的地があるわけ?」
「追われてるんじゃありません。追ってんです」
 相変わらずむすっとしたまま若島津が答えた。剛は嬉しそうに勢至を見や る。
「だとさ」
 走り続けながら運転を入れ替わるという離れ技をやってのけた勢至はひたす ら雪道と格闘中で、そんな剛の相手をする余裕はない。
「…俺もいい加減諦めてるよ」
 まっすぐ前を睨みながら勢至が独り言のようにつぶやいた。
「おまえとコンビ組んじまった時にな」
「人生、いろいろあったほうが面白いよ、勢至くん」
「…まあ退屈だけはしないだろうけどな」
「ありがと」
 にっこりする剛は無視しておいて、勢至はミラーで背後の車をもう一度しっ かり確認する。そして後部座席の二人に声をかけた。
「シートベルトは固めに締めておいてくれよ。ちょっとばかし揺れるから」
「揺れる?」
 尋ねたのは命じられた二人ではなかった。
「ここは前にも夜中に走ったことあるだろ。新雪の時は路面の状態は一定とは 言えないが…、要注意のコースだ」
 雪道と言っても新雪と踏み固められた雪とでは条件は大きく異なる。駆動輪 のコントロールひとつとってみても、その条件のわずかな違いを読み取りなが ら対処していかなければ、漫然と操作していては即、命取りだ。
 剛はにこにことうなづいてみせた。長年の付き合いである。そのへんの呼吸 はちゃんと心得ているらしい。それに彼だって無駄に命を捨てたいわけではな い。
「つまりそこで勝負をつけるってことかな」
「つけられるならね」
 勢至は前を睨んだまま小さくため息をついた。
「俺、クルマの腕を磨きにヨーロッパに来たんじゃないはずだけどなあ」
「それもいいんじゃないの? 成果は成果さ」
「…あんたのほうは何の進歩もしてないようですね」
 後部座席から暗〜い声がかかる。もちろんそれで動じるような可愛い兄では なかった。
「おまえの進歩はすごいな。なにせあのしづ姉そっくりになってきたもんな あ」
 高等部に進んでからますます体格がごつくなって相棒に嫌な顔をされている 彼だが、女顔は相変わらずなだけに、逆に凄みが、いや、迫力が増したとのも っぱらの評判であった。…主として代表チーム内での話だが。(東邦のチーム メイトたちは良くも悪くも慣れてしまっている…)
 ただし感情表現において大変なものぐさである若島津は、幸いめったにその 凄みをフルパワーで発揮する機会はない。わざわざその逆鱗に触れようなどと 思う命知らずはいないからだ。…そう、この兄以外には。
「に、い、さ、ん…!」
「おっと…」
 他人のふりして…、もちろん他人だが、二人の漫才を静観していた若林が、 そのくせ実に絶妙なタイミングで険悪な空気にストップをかける。さすがのス ーパーセーブだった。
「始まったみたいだぞ」
 ぴたりとついてきていた2台の乗用車が、彼らのバンの両側からはさむ形で ぐんぐん迫って来ていたのだ。勢至がミラーをちらりと見た。
「…もう少し、待っててくれよぉ。橋までもう少し…」
「橋って?」
 勢至は答えるかわりに舌先で唇をなめた。ネッカー川にかかる大きなアーチ 橋が前方に近づいて来る。
「つかまってるんだぞ」
 低く、勢至がつぶやく。それが戦闘開始の合図だった。









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