橋に差しかかったと同時に勢至は一気にブレーキを踏み込んだ。瞬間、車体
にかかっていた全ての摩擦力がふわりと消える。
あっと思った時には窓の外の白い風景が宙に浮いたようにものすごい速さで
右から左へ流れた。凍結した路面でスライドが起きたのだ。
「おーっ、来た来た来た!」
一瞬目まいを覚えながら、若島津は助手席ではしゃいだ声を上げている兄が
昔から大の遊園地好きだったことを思い出してしまった。テールが大きく右に
振られ、車体は橋に対してほぼ真横の体勢のまま加速度的な滑りに乗ってい
る。
が、勢至の表情は落ち着いていた。
そのまま橋げたに突っ込むかと思われた瞬間、ごく慎重にステアリングを戻
し始める。タイヤのグリップ感を確かめながら今度は一気にではなく、僅かず
つ、慎重に、である。
「ほぉ〜」
若林が感動の声を上げた。ほとんどスピンに近かった車体の回転がふっと緩
み、次の瞬間に反対車線に入って平行に戻されていたのだ。そしてその180
度の方向を得たと同時に一気にパワーオン。つまりバンは高速のまま…、ほん
の1、2秒のことだったが、橋上でUターンをやってのけたのである。
「あー、お気の毒」
振り返った剛が笑顔でコメントする。はさんでいたはずの相手が突然スピン
を起こしたのに仰天しただろう2台の追っ手は、おそらく反射的にステアリン
グを切ったかブレーキ操作を急いだかしたに違いない。
こちらはもちろん故意でない派手なスリップを起こしてハンドルコントロー
ルを失い、両側の橋げたに相次いで突っ込んだ。1台は鮮やかに橋梁を飛び越
して川岸の雪の吹き溜まりにすっぽりとはまりこんだし、もう1台は欄干から
車体半分乗り出したところのびみょ〜なバランスのままかろうじて宙に止まっ
ている。
「橋の上は風にさらされるだろう? 路面の凍結の度合いが道路とは極端に変
化するんだ」
ギアを戻して勢至は簡単に言ってのけたが、その難しい条件を逆手にとるだ
けのテクニックなしに実行できるものではない。今、何をどう操作してこの結
果に至ったのかほとんどわからなかった残り3人だが、その点にだけは確信が
持てた。
「だから好きさ、勢至」
「…こ、こらっ、離せよ!」
振り切ったとは言え、まだ逃亡中には違いない。そのことをまったく無視し
て運転席の友人を抱擁していた剛が、その体勢のままふいっと後ろを見た。
「で、どうするのかな?」
にっこりと若林に笑いかける。
「何かいいことが書いてあったみたいだね、その書類」
若林はさっきから手にしていた書類を宙に浮かせてぽかんとした。あのカー
チェイスの中悠然と書類に目を通していた方も通していた方だが、ちゃっかり
それを観察していた剛の目も並みではない。
「よく車の中で字が読めるねえ。俺なんて、すぐ気分悪くなるもんなぁ」
「わかったのか、奴らがシュナイダーを巻き込んだいきさつ」
あくまでとぼけた口調を改めない兄は黙殺して、横から若島津が口をはさん
だ。若林は重々しくうなづく。
「大体はヘルナンデスの分析の通りだな。ただし、会社ぐるみじゃない。さっ
きの女も含めた一部のしわざだ」
「要はサッカー協会の連中にスキャンダルの真相を証明できればいいんだ」
「本人も早いとこ見つけ出さなきゃならんがな」
若林は書類をまたポケットにねじ込んで、さっきから好奇心満々の顔でこち
らを見ている剛と目を合わせた。
「で、お二人はスイスにどんな用事があるんです?」
「へへへ」
剛は奇妙な笑いでそれに応えた。
「ロックフェスがあるんだよね、明日の土曜日」
「まさかあんたも出るんですか?」
兄のその笑い方に含みを読み取った若島津が嫌そうに訊く。
「出るかもしれないなぁ」
横から勢至が、違うだろ、と小さく抗議するのを笑顔で受けておいて、剛は
また二人のキーパーに目を戻した。
「こっちのスタジオで知り合いになった奴がいてさ、まあ、裏方の手伝いみた
いなことを頼まれたんだ。でもそれより、お目当ては別にあるのさ」
「目当て?」
剛はボックスから透明ファイルを引っぱり出して、中から1枚のグラビアペ
ージを抜き取る。それは5人編成のバンドのステージショットであった。
「XIP−D−DO(ジッパ・ディ・ドゥー)?」
「なんです、このど・メタルは」
「そのギタリストをよく見てごらん。バンドは何度か移ってるけど、もう15
年くらいのキャリアのある人気プレーヤーだよ。ギュンター・ヘフナー」
「え…!?」
「ヘフナー、って…?」
同時に叫んだ二人のキーパーに、剛はにっこりとうなづいて見せる。ステー
ジの中央でライトのハレーションを浴びているギタリスト…それは確かにヘフ
ナーそっくりの顔をした男だったが。しかし…。
「若く見えるだろ。30を少し越えてるってさ」
剛の言葉が二人に不吉な予感を与える。
「あいつ、そう言えば家族の話って一度もしたことなかったな…」
そもそもヘフナーに家族がいることすら想像できないという話もある。
「ここで紹介してもらえるっていうから、楽しみにしてるんだ。ヘフナーくん
の親父さんだよ」
「――――!」
硬直してしまった二人を責めるわけにはいかないだろう。剛はいかにも嬉し
そうにその反応を見ていたが。
「かわいそーに…」
勢至がぽつりとつぶやく。
「ちょっと待て!」
若林は次の瞬間我に返った。
「あいつは一体いくつなんだ? 実の父親が30過ぎ…!?」
微妙に視線を外しながら若林と若島津はそれぞれに頭の中で引き算をする。
「まあまあ、二人とも」
パニックを引き起こした張本人がのんきな声をかける。
「いいんじゃないの? 恋愛は自由なんだから」
そう簡単に割り切れれば人生悩みはなくなるだろうが…。
「さすがはヘフナーの親父、とでも言うか…」
「…他にどう言やいいんだ!」
結局引き算の答えは何度やり直しても10代半ばとしか出ないことに暗然と
なりながら、二人の10代キーパーは声を落とした。
「うちの上の兄貴なんか30目前だぞ」
ともに上に年の離れた兄・姉のいる若林、若島津は実はどちらも父親は50
才を軽く越える年齢だったりする。ヘフナーの父の職業より、その年齢にショ
ックを受けたのも無理からぬことだった。
「こっちの切り抜きも面白いよ」
言った途端、剛の手からグラビアがひったくられる。
「いささか覗き趣味の記事だけどね」
「家族と過ごすギュンター・ヘフナー…?」
念を押されなくても気分はもう完全に女性週刊誌の読者だったかもしれな
い。食い入るようにその写真を見つめ、そしてぽかんとする。
「なんだ、こいつは…」
写真に写っているのはギュンター氏とその妻らしい若いブロンドの女性、そ
して3人の幼い少年たちであった。父親氏がもろに長髪のロッカーであること
を除けば、ごく平和な家庭の図である。
「これがあいつの家族…?」
「まともだな」
実にまともだった。そこにヘフナーの存在を想定しない限りは…。
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