第四章 シュヴァルツヴァルトの森で
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「嘘だろ、おい…」
それは地方版の片隅のごく小さな記事だった。ある村のファスナハトの祭を
取材に行っていた記者がたまたま見聞した事件、という扱いになっている。
ヘフナーは一度眉を寄せ、それから新聞を鼻先に近づけた。
『K・H・シュナイダーが人命救助!?』
朝とは言え空は暗く、今日も陽射しは望めそうにない。ヘフナーの住むケル
ンならそれでもこの時刻は駅も朝の通勤客で混み始めているだろうが、この国
境近いのどかな終着駅には人の姿もまばらであった。
腹ごしらえの軽食を構内のキオスクで買い、ついでに新聞を手に入れたヘフ
ナーだが、ベンチでそれを広げた途端、信じられない記事にぶつかったのだ。
ほんの数行の記事をヘフナーは何度も何度も読み返した。
『あれがシュナイダー本人であったにしろ違うにしろ、感謝する心に変わりは
ありません。でももし本当にシュナイダーだったのなら、私は彼のスキャンダ
ルは事実無根だと強く確信します』
猛火の中から少女と老女を救い出して名乗りもせずに去った「カール」が残
した謎は、記者の心をいたく動かしたらしい。そのシュナイダーが現在渦中の
人であるだけになおさらだったのだろう。記事は救われた少女の父親の言葉で
感動的に締めくくられていた。
「あいつ、どういう気なんだ?」
彼が追って来たシュナイダーの痕跡はこの駅で途絶えていた。新聞にある村
はここからは逆方向のかなり奥まったところにある。しかし、一体何のために
そんな場所に?
「ただ逃げてるようには思えんしな…」
ベンチの森崎を見下ろす。
「そう思わんか、モリサキ」
「彼には逃げる必要なんてまったくないよ」
答えは眠り顔の森崎からではなく、ヘフナーの背後から返されてきた。
「追っ手を意識してるかどうかは別にして、やはりどこか目的地があるんじゃ
ないかな、彼は」
「………」
ヘフナーはゆっくりと新聞をたたんだ。そして無言で立ち上がるとまっすぐ
ジノと向き合う。
「おはよう、グスタフ」
後ろに手を組んで、ジノがにっこりと会釈した。
「その村へ行ってみるかい?」
「…その名で呼ぶなと言ってるだろうが!」
質問には答えず、ヘフナーは低くうなる。ジノはジノできょとんと目を丸く
していた。
「あれっ、モリサキ…?」
人の話を聞いていないのはお互いさまのようである。ジノはベンチにもたれ
たままの森崎にじっと目を留めていた。
「どうしたんだい。眠ってるんじゃないんだろ? まさか…!?」
「中身が、行方不明だ」
顔色を変えかけるジノにあっさりと説明する。
「シュナイダーを追っているやつは『力』を、それも俺たちとはケタ外れの
『力』を持ってるらしい。こいつはそれに引き込まれちまった」
「どうすれば、いいんだい?」
ジノは眉をひそめて森崎の青白い顔を覗き込んだ。ヘフナーはいらだたしげ
に髪をかき混ぜる。
「それがわかればな…」
「あ、まずい!」
ジノが飛び上がるようにして叫んだ。
「何だ!?」
そのジノの顔を見て、ヘフナーはとっさに森崎を抱きかかえた。そのままジ
ノに押されて柱の陰に隠れる。
「まいたつもりだったんだけど、駄目だよね、一本道だったし、この駅まで」
「てめえ、余計なもん案内して来やがって…!」
「余計はひどいよ。ほら、こっちのお土産を評価してほしいな」
ジノが胸ポケットからちらりと白い封筒を覗かせた。
「安心したまえ、シュナイダーはやっぱりシロだよ」
ヘフナーは無言でジノを見つめた。それから森崎を肩にゆすり上げる。
「おまえ、どうやって来た」
「車で、と言えたらいいんだけど、僕は四輪の免許を取っていないのでね」
目で駅舎の外を指す。石造りのエントランスに赤いデュカーティが停まって
いた。じろりとにらみ返すヘフナーに、ジノはにっこりと応えてみせた。
「ドイツ車でなくて悪いけど、緊急事態だからね、これで我慢してくれない
か」
「連中、どこから連れて来たって?」
森崎を荷物のように間にはさんで無理やり3人で乗ってしまう。ジノはスロ
ットルを操作しながらちらっと背後を振り返った。
「もちろん、チューリヒだよ」
その視線が、何かを起こす。
駅舎前に積み上げてあった郵便貨物の山がぐらりと揺れた。飛び出して来た
男たちは、突然倒れ掛かってきた大小の荷物をもろに浴びて足が乱れる。その
隙をついて派手なカラリングのイタリア製750ccバイクが急発進した。
「あとの二人はどこだい?」
若林を介さないとテレパシーは使えない。ジノは風に逆らって大声を出し
た。ちなみに彼のヘルメットは森崎にかぶせてある。ヘフナーは腹のあたりで
ごつごつするヘルメットに迷惑そうな顔をしながら怒鳴り返した。
「今頃はスイスだ! 昨夜ヒンツ社に直接乗り込んだらしいぞ!」
「そっちもいい成果があったならいいね…」
チューリヒにはジノの家の会社が契約しているトレーディング・オフィスが
ある。世界各地の為替相場の動向をにらむのがその役目であるから、もちろん
24時間態勢で動いている。ジノは当直スタッフをうまく言いくるめて、一晩
中そのオフィスで情報収集に当たったのだ。
「証拠も大切だけど、動機はわかっていないだろう?」
「シュナイダーがシロだってことをサッカー協会のやつらに飲み込ませるには
まだ足りんってことか!」
「だね」
ジノは首を振った。
「それにもう一つ、シュナイダーの身柄を早く確保すること」
夏にはドイツじゅうからバカンス客が押し掛けるこの湖畔の町は、真冬の今
は人気も少なく、どの家も雪に包まれてしんと静まっているばかりである。
「あー、やっぱり駄目だ!」
ジノが突然叫んだ。
「振り切れないよ。ヘフナー、君、重すぎるよ!」
「何だと! 俺一人のせいにするな!」
いかにパワーが身上の750ccでも、3人はひどすぎた。ただの3人では
ない。魂を失っていても体重だけはしっかり残している森崎と、それを前後か
らはさむヨーロッパ選抜GK(一人は『元』だが)である。イタリアの伊達男
デュカーティもこれにはお手上げだろう。
すぐ背後に迫る乗用車をミラーで確認して、ジノはスロットルにかけた手に
ぐっと力を入れ直した。
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