4章 2










「そら」
 若島津の目が険悪な色に変わる。若林は大きな掌でぱしぱしとローションを 叩きつけながら、もう片方の手でシェーバーを差し出していた。
「俺は済んだからもういいぞ」
「……」
 沈黙が重い。若林は鏡から振り返った。
「どうした、早く受け取れよ」
 だが若島津の冷たい目は変わらない。
「ああ、これな。心配いらん。おまえの兄さんに借りたやつだ。地元民のじゃ ないから安心しろ」
 言うなり投げてよこした。わざと勢いをつけたのは若林の計算である。若島 津は意に反してついがっちりキャッチしてしまった。そのシェーバーに目を落 としてきっぱりと言う。
「俺が心配してるのは、おまえの後、だってことだ」
「何だと?」
 若林の眉がぐいっと上がる。
「俺はビョーキは持ってないぞ!」
「どうだか」
「…野郎!」
 あまり質のいい冗談でないのは確かであるが、ここで乱闘が始まってはたま ったものではない。案の定、すぐに苦情の声が上がった。
「ほらほらお二人さん、地震に慣れていないドイツ人がびっくりしますよ」
 身体に毛布を巻きつけたままの格好で、剛が体を起こした。床いっぱいに毛 布の吹き溜まりができている。未明のうちに国境を越えて会場までたどり着い た一行は、そのまま楽屋の一つに転がり込んだのだ。2、3時間でも仮眠を、 ということで雑魚寝となったのだが、言っているうちに残り二つの山から頭が 出て来た。一つは勢至、もう一つは剛たちを招いた気の毒な楽屋の主だった。 ともに寝ぼけまなこで二人のGKを見やる。
「いいよいいよ、どうせ起きなくちゃな。サウンドチェックの前にセッティン グ済ませとかないと」
 口ヒゲをこすりながら剛のスタジオ仲間であるドイツ人ギタリストはもぐも ぐと言った。窓がなく変に細長いこの部屋は、楽屋と言うより今のところ家畜 小屋かまたはギターの保管庫の様相を呈している。一方の壁に大きな鏡があっ て、所狭しと林立するギターの群れを倍に見せているし、空いた床にも分解し かけのギターのボディや部品が散乱したままなのだ。
「何だ?」
 水が入ってあっさりと乱闘をおさめた若林が振り返った。若島津がじっと壁 を見つめている。部屋の隅に唐突に付いている洗面シンクの脇にポスターが一 枚貼ってあったのだ。
「けっこう遠いな…」
 それはロードマップをデザインした西ヨーロッパ地図であった。若島津は地 図の上下に眼を動かしながら口の中でつぶやく。その目がたどっているのがミ ュンヘンとハンブルクであることに気づいて若林はうなづいた。
 シュナイダーの生まれ故郷、ハンブルク。渡独以来若林がずっと本拠地とし ている街。しかし3年前にシュナイダー自身が離れ、シュナイダーの両親も発 ち、今はマリーが一人寄宿学校に残っている。北海と結ばれた港湾都市と、ア ルプスを背にした南の都市ミュンヘンとは、こうして見るとなるほど遠さが実 感できる。
――シュナイダーはこの遠さをいつも見ていたんだろうか。
 若林はふと思う。ホーム、アウェイの旅の繰り返し。しかしシュナイダーに とって一度失った故郷は決して手元にたぐり寄せることはできないのだ。
「おい」
 若島津の声に若林は我に返った。
「ミュンヘンとハンブルクってのは途中に山地があってさえぎってんだな」
「ああ、ハルツの山か。ブロッケン山」
 若林はうなづいた。確かにミュンヘンとハンブルクを直線で結ぶと、かつて 東ドイツ領にあったハルツ山地が立ち塞がる形になっている。
「なになに…?」
 顔を洗いに近寄ってきた剛がその二人の間から顔を割り込ませた。
「『ファウスト』だろ? ワルプルギスのよぉる〜」
「歯を磨きながら歌わんでください。気持ち悪い」
 しかしさすがに大学で独文を学んだだけのことはある。ちゃんと読破したの かどうかは知らないが、ともあれ物語の中でファウストが悪魔の狂宴に出会っ た伝説の山、ブロッケン山は実在の山なのだ。
「けど、魔女ってのは俺たちにとっちゃトモダチかもしれんぞ」
「ほふほふ」
 身支度をしながらドイツ人ギタリストが嬉しそうに話に加わってきた。歯ブ ラシをくわえたまま剛も相づちを打つ。
「キリスト教が入って来た時に邪魔になって、本来の原始宗教が『異端』って ことにされたんだよな」
 森の民が信仰していた素朴な神々はいつしか邪悪な「魔女」や「妖怪」にす りかえられ、闇へと追いやられていった。もとより善でも悪でもなく、その両 方の正確を併せ持つ自然界の精霊たちだったのに。
「だからさ、俺たちの音楽も異端としての自分を認識することがエネルギーに なるわけだ」
「おー、哲学者だねえ、リヒャ」
「るっせー!」
 茶化す剛に、部屋の主はタオルを投げつけた。くすくす笑いながら剛は裸の 上半身にそれを引っかける。
「てことは今日のコンサートもつまりは魔女集会なんだよね」
「出るほうも聴きに来るほうもな…」
 一番に着替えを済ませてコーヒーを入れていた勢至がぼそりと言った。タオ ルを手にしたまま剛がきょとんと見返す。そしてニコ〜ッと全開の笑顔になっ た。
「じゃ、俺も出演していいってこと?」
「まあな。俺を巻き添えにしないなら、だ。どうせ初めから裏方だけで満足す る気はなかったんだろ」
 剛は眉を寄せて首を振った。
「だーめ! おまえも一緒! ドラムがいないんだから」
「そんなもん、打ち込みで間に合わせりゃいいだろ」
「駄目だよー、ヘビメタじゃドラムはまだまだ聖域なんだぞ」
 話が馬鹿馬鹿しく込み入り始めたようだ。
「それがヤなんだ!」
「君たち、そいつは聞き捨てならないな。ジャズ屋さんの偏見?」
 ミュージシャン同士の音楽的な論争と言うにはたぶんほど遠い次元のズレ方 をしているようだ。若林は半ばあきれ顔でそれを見ていたが、背後で若島津が さっさとドアに向かおうとしているのに気づいてあわてた。
「おい!」
 ドアにかけた手を後ろから押さえる。
「ヘフナーたちとここで合流することになってんだから」
 あと少し我慢してろ、と目で言う。若林の二人の兄は年がかなり離れている 上に育った地も別々だったりするので、こういうストレートな交流はほとんど 経験がないのだ。
「おーい、リヒャ、起きたか?」
 と、突然目の前のドアが開く。訪問者と二人のキーパーは至近距離で顔を合 わせてしまった。驚いたのはお互い様だが。
「ああ、なんだ、ウーベ」
 部屋の奥からギタリストが応じた。ウーベと呼ばれた長身の男はキーパーた ちに失礼、と会釈しておいて楽屋に入る。
「紹介するよ。今日のスペシャルユニットで一緒にやってくれる二人だ。こっ ちがボーカルのゴーで、そっちがゼージ、ドラムだ」
 ゼージじゃない、せ・い・し!…と、ドイツ式発音に抗議している間に出演 をOKしてしまったことにされてしまって、勢至はがっくりくる。
「うん、噂は聞いてるよ。俺はサイドギターのウーベ。今日はよろしくな」
 大きな手で握手を交わす。それからウーベはおもむろに脇に抱えていた新聞 を突き出した。
「なーなー、これ観ろよ。例のシュナイダーの件だけどな…」
 広げかけた時には新聞は手から消えている。見事なカットプレーであった。 ウーベは不審顔で振り返ったが、その顔が見る見る変化した。
「あ、あ…あんた、ハンブルクのワカバヤシ!」
 さっきは近すぎてわからなかったのだろうか。しかし若林はドイツから朝一 で届いたらしい新聞の見出しにひたすら釘付けになっていた。
「なんで、君がこんなとこに…!?」
 呆然とするウーベに、剛さんが説明している。
「俺たちの車をヒッチハイクして一緒に来たんだよね。ちなみにこっちは俺の 弟。日本でサッカーやってるんだ」
「へ、へーっ」
 ウーベは感心したように目を見開いていたが、やがて真顔になった。
「俺、ハンブルク近くの出身なんだ。だから今度の件も…」
 若林は記事から顔を上げてウーベを見返した。現在はバイエルン所属ではあ るがシュナイダーの人気は出身地ハンブルクでもまだまだ高いのだ。
「で、何だって?」
 横から若島津が促した。スポーツ欄の一番上、囲み記事の中にシュナイダー の写真が見える。
「…石頭め!」
 若林はびしりと新聞に平手をくらわせる。
「調査調査の一点張りだ! 協会の連中は先入観を優先しすぎなんだ!」
 本人の口から証言を得ないまま、一部マスコミのスクープの衝撃性が先走り して理事たちの心証を悪化させている様子が記事からはっきりと読み取れる。
「……証拠物件を提出しただけでは動かせん、か」
 例によって無表情な若島津の言葉に、しかし深い憤りは隠せない。あまりに 早くスターになりすぎた男、シュナイダーに対して、会議テーブルの上だけで サッカーに係わっている者たちがここぞとばかりに攻撃に転じたわけだ。古び た頭に煩わされるのはいつも若い彼らだった。現実に、彼の周囲でもお偉方の 前時代的な偏狭さがどれだけ彼らの世代を苛立たせていることか。
「ね、こっちにもシュナイダーくんの名前があるみたいだよ」
 隣の剛がくるりと体を曲げて新聞を下から覗いていた。若林は急いで新聞を ひっくり返す。
『遭難した少年を救助したのは本当にKH・シュナイダーだったのか…?』
 ローカル面の小さな見出しに全員が頭を寄せた。示されている地名には誰も 心当たりはないが、シュヴァルツヴァルトの中のここからそう遠くない所にあ る小さな村らしい。
「でもなんで彼がこんなところに…」
 シュナイダーが出奔中であることさえ知らないのだから、ウーベが呆気にと られるのは当然だった。
「他人を――助けてる場合か?」
 事情を知っているGKたちにとっても、それは謎でしかなかったのだから。










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