4章 3










「シュナイダーのやつ…!」
 ヘフナーは一声叫ぶと道路脇の植え込みにダイビングした。抱えた森崎の体 を受け止めるようにしながら、雪の上をごろごろと転がる。
「何を考えてやがるんだ、一体!!」
 植え込みの向こうは一面に雪の吹きだまりだった。2、3回も転がると完全 に雪ダルマである。ヘフナーの悪態もこの朝数度目。この数日間につのらせて きたイライラが、今朝の新聞記事で一気に弾けたのか。
「君もいい勝負だと思うけれど…」
「何だと!?」
 ジノは転倒したデュカーティの脇で起き上がったところだった。怒鳴り返そ うとしたヘフナーは、その背後に白いバンが突っ込んで来るのを見てがばっと 跳ね起きる。
「後ろだ! 跳べ!」
 ジノは肩越しにさっと車を見返した。右手でとんとシートを踏み切って、植 え込みの前に立つ。
「ヘルナンデス!!」
 ジノの手からふわりとヘルメットが落ちた。ヘフナーは目を見開く。地面に 落ちる寸前にジノの足がヘルメットをとらえ、一閃したのだ。足元の雪が四方 に飛び散り――次の瞬間、銀色のヘルメットは車の正面を直撃していた。
「おまえはな…!」
 背後の轟音を置き去りにして駆け込んで来たジノにヘフナーが冷たい目を向 ける。
「ヘルメットをボールと一緒にするな! 相手は一般人だぞ!」
「蹴っちゃいないよ」
「なにっ?」
 森崎を抱えて立ち上がったヘフナーに横から手を添えて、ジノはあっさりと 答えた。
「形こそパントキックだけどね。ほんとに蹴ってたら足が痛いじゃないか」
 そりゃまあ堅さの差は歴然としているが。
「すると…飛ばしたのは…?」
「うん」
 一面に雪に覆われたここは四方を植え込みに囲まれてちょっとしたオープン スペースとなっている。駆け出しながらジノはにっこりうなづいた。とりあえ ずその先にそびえている大きな建物を目指しているのだが、ジノの笑顔を受け て、ヘフナーはデコボコした深い雪に足をとられそうになった。
「でも言っておくけど試合中は自重しているよ。第一『余裕』がないだろう? 君も知っての通り」
 ゴール前に立つキーパーの緊張度が、こういう事態におけるそれを上回ると いうのもよく考えるとコワイ話であるが。
「そんな物騒な力を試合で使われてたまるかよ」
 ヘフナーは顔をしかめてみせた。
「暇つぶしに使うことはあるんだけどね、実は」
「おい…」
 味方が押している時、つまり敵陣で試合が展開している時はキーパーはおお むね孤独に自軍にとどまっているわけで(自分で攻撃に参加するプレイは、よ ほど追い込まれた状況です、普通は)、その間キーパーは手持ち無沙汰と言え なくもない。同業者としてそのへんの事情を知っているヘフナーは、その『暇 つぶし』が常識の範囲内であることを祈るしかなかった。なるべく。
「それより、その便利な力でなんとかしてほしいもんだな、これを…」
「え?」
 ヘフナーは肩にかついだ森崎を目で指した。膝まである雪をかき分けて逃げ るのにこのハンデは実際大きいのである。いかにヘフナーと言えど。
「ああ」
 ジノは首を振った。
「駄目だよ。僕の力じゃ運べないな」
「どうしてだ」
 ようやく建物までたどり着いて、ヘフナーはどさりと森崎を下ろす。そこは 石造りの回廊だった。妙にしんとした建物の内部と、そして今横切ってきた雪 の庭とを順に窺う。
「この力は生きてるものには使えないんだ。それ自体の意志があるからね」
「意志、な」
 一言繰り返しておいてヘフナーは耳を澄ませた。どう見ても間違いはない。 ここは教会の中庭だ。さっき通り抜けてきたのは、雪に埋もれてはいたがつま り墓地だったのである。
「ならこいつもこの状態で『意志』だけはちゃんとあるわけか」
「そうだね。――少なくとも死体じゃない」
 互いに背を合わせるようにして周囲に目を配っていたジノに、ヘフナーはじ ろりと鋭い視線を返す。
「当然だ。死体にさせておくもんか」
 一晩ずっと付き添っていた間、森崎の冷え切った体は彼につらい記憶を蘇ら せたのだ。幼い頃から故郷の森で多くの動物たちを飼い育てていたヘフナー は、同時に数多くの別れも経験してきた。楽しい時間はいつも「死」によって 突然の中断を強いられた。命とはこんなに簡単になくなってしまうのか…。愛 した動物が死ぬたび、彼は悲しみと言うよりやりきれない思いに打ちのめされ たものだった。生まれてすぐ彼のお守り役になったという大きな白犬が年老い て死んだ時、彼は誰の手も借りず、墓所までその犬を抱きかかえて行った。腕 の中の頼りない重さ、その体の冷たいこわばり。それが別れの全てだった。
「…こいつは生きてるんだ!」
「もちろんだよ」
 感情が顔に出ることのない男の本音を、ジノはにこっと笑って受け止めた。
「だって、キーパーだろ、モリサキは」
 どういう意味だと聞き返すより先に、二人の耳に足音が届いた。彼らが来た のとは反対の方向からだ。
「くそっ!」
 見回しても通路はここ1本しかない。ヘフナーは森崎を引きずるようにして 柱の陰に身を寄せ、その側に扉を見つけると足で一蹴りした。
「大丈夫かい?」
 少し遠慮がちにジノが室内を覗き込む。
「いいから入れ!」
 ヘフナーは今度は慎重に森崎を下ろし、扉を閉めて耳を当てた。ジノは部屋 の真ん中に歩を進めながらぐるりと見回す。窓のない、薄暗い部屋であった。
「控室って感じだね、神父さまの」
「いずれ見つかっちまうな、これでは…」
 ヘフナーが壁際の大きな木箱に目を止めた。
「おまえんち、カトリックだよな」
「もちろん」
 バチカンのお膝元イタリアではそれが当たり前というふうに、ジノはうなづ いた。
「なら作法に抜かりはないな」
「えっ、何の…」
 言いかけたジノの目の前に、黒い衣がばさりと突き付けられる。
「おまえはモリサキを頼む。俺がやつらを引きつけておくから、駅に戻ってモ リサキと列車に乗るんだ。ワカバヤシたちと早く合流しないと」
「君は?」
「気にするな、すぐに追いつくさ」
 ヘフナーは衣装用の木箱から黒いローブを出し、森崎にも頭からかぶせる。
「庭の足跡がある以上、いつまでもごまかしていられんしな」
 そして自分はまた扉にぴたりと貼りついて、頭の中で素早く逃げ道を想定す る。
「…グスタフ!」
「何だ、早くしろ!」
 呼ばれて振り向いた先に真っ赤になったジノの顔があった。
「君ねえ、僕にこれを着ろって言うのか?」
「サイズに多少無理があるのはわかってる。気にするな」
「サイズじゃなくて!」
 着てしまってからジノは気づいたのだ。これがまぎれもなく尼僧服であるこ とに。だがヘフナーは相手にしなかった。
「坊さんの服だと顔を隠せんだろうが。ほら、早くケープもつけて用意しろ」
 ジノは悲しそうな顔をしたが、自分たちが追い詰められていることも十分わ かっていた。それ以上の抵抗はやめ、手早く身支度をしてから胸の前で十字を 切る。
「サンタマリア、我が罪を許したまえ」
 中庭ではまた人声が反響している。ジノはおくるみの赤ん坊を扱うようにそ っと森崎を抱き起こした。
「いいな、俺がまず飛び出して墓地のほうへやつらを引っぱって行く。おまえ はスキを見て聖堂の方から表に出るんだ」
「わかったよ。でも気をつけて」
 ジノはポケットからキーを出してヘフナーに投げた。ヘフナーは手を上げて それを受け、扉に手を掛ける。物音をもう一度確認して、それから振り返って にやりと笑った。
「じゃ、な。――おまえ、そいつ似合うぜ」
「…あのね!」
 叫びはもちろん声に出せないままとなる。扉はかすかに軋んで閉じられた。 苦笑を浮かべてそれを見送ったジノは、ずるずると森崎を引き寄せた。









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