4章 4











「ええと、こっちかな」
 男たちの叫び声が中庭から遠ざかっていくのを確かめてから、ジノはそっと 部屋を出た。少し伸び上がって周囲を見渡す。
 左には聖堂がそびえていた。バロック様式の堂々たる建物だ。が、どうもそ ちらでは人が大勢動いている様子である。朝から外部の人間が入り込んで騒い でいるのだから、教会側も気づいて対処し始めたに違いない。
 ジノはちょっと考えてから右手に進路を変えた。
「ああ、歩きにくい…」
 とんでもない案を出したヘフナーを恨みながら、吹き抜けのパティオになっ ているその回廊をジノはのろのろと進んだ。森崎を抱えて身をかがめている分 だけ、服の裾が足の超過分を隠してくれている。
「おっと…!」
 背後に近づいてくる人の気配に、ジノの顔がさっと引き締まった。回廊はち ょうどそこが突き当たりになっていて、その先は小さい礼拝堂に続いている。
「ちょっと、待ってください!」
 丁寧ではあるが勢い込んだ呼びかけが背に投げられる。が、ジノはわざと聞 こえないふりをして礼拝堂にずんずん入って行った。
「シスター、ちょっと、すみませんが!」
 回廊に比べればここは暗い。この暗さがカムフラージュに少しでも役立て ば、とジノは計算したのだが、いざ目の前に男が二人駆け寄ってくるとさすが に緊張する。距離を置いていたとは言え、数時間前からずっと追ってきていた 相手なのだ。
「お聞きしたいことがあるんですが…」
 手元で森崎のローブをごそごそとかき合わせながら、ジノはゆっくりと男た ちに向き直った。必死に背をかがめているにもかかわらず見合わせた男たちの 顔が自分より下にあることに気づいて内心あせる。
「若い男の3人連れを見ませんでしたか?」
 ジノは無言で首を振った。いやに人の顔をじろじろ見るじゃないか、こい つ。まさか知っててカマかけてるんじゃないだろうな…。
「聖堂側から外へは抜けられましたっけ?」
 もう一人が横から詰め寄ってくる。ジノは黙ったままうなづくとでたらめに 指をさしてみせた。――いいから早く行ってしまってくれ!
「おや?」
 最初の男が、今初めて気がついたと言うふうにジノの抱えたローブの塊を覗 き込んだ。
「重そうな荷物ですな。お手伝いしましょうか」
「…いいえ、結構です」
 汗が吹き出る思いで、ジノは小さく返事した。なるだけ声を作って。
「なに、遠慮はいりませんよ、シスター」
「そうですとも」
 二人の男はにこにこと愛想笑いを浮かべた。仕事のほうは完全に忘れて鼻の 下を伸ばしていると言う図であった。ジノは心の中で愕然とする。こいつら、 なんで疑わないんだ!
「これくらいお安い御用です」
 親切ごかしに手を伸ばしてくる男たちの頭越しにジノはさっと視線を投げ る。回廊のほうはまだ静かだった。ヘフナーはうまくやっているらしい。
「…一人で、大丈夫ですから」
 その不可解なまでのまとわりつき方にじりじりし始めたジノは、男たちにく るりと背を向けて振り切ろうとする。だがしかし彼は知らなかった。背丈は別 として、楚々としたシスター姿があまりにはまり過ぎていたのだ。どこかおど おどした人馴れしない様子がいかにも初々しい、などと彼らが不謹慎な解釈を していることに、もちろんジノはまったく気づいていない。
「さあ、我々が持ちましょう。どうぞこちらへ…」
 背後から囲むようにしてべたべたと体に手を回されるに至って、しかしつい にジノの寛容力も限界に達した。
「…しつこい」
 無理に縮めていた背がぐいと伸びた。うつむき加減にケープに隠れていた目 が突然殺気立った光を宿す。男たちは思わずビクリと動作を止めた。
「いらねえって言ってんだろ――!」
 聖職者とは思えないその叫びと同時に黒いスカートの裾が宙にひるがえっ た。その瞬間、ジノの腕をとりかけていた男のアゴに見事にアッパーキックが 決まる。
「ぐおおお―っ!」
 若くて美しいシスターにスケベ心を出したのが身の不運。不心得者はどっと ばかりに吹っ飛んだ。もう一人の男はまだ事態がつかめず、目を白黒させてい る。が、相棒が床の上で完全にのびてしまったのを見て一気に頭に血が上った ようだ。
「き、きさまー!?」
「神聖な教会で暴力沙汰はいけないね」
 自分のことは都合よく忘れているらしい。飛びかかってきた男を両腕を広げ てがっちりキャッチすると、じたばたする相手を簡単に押え込んだ。森崎を包 んでいたローブをさっと引っぱって男にかぶせ、手早くサッシュでぐるぐる巻 きにする。ああ、何と勇ましくも凶暴なシスター。
「呼吸はしてもいいけど、声は出しては駄目だよ」
 ほとんどイモムシと化した相手にジノはまじめくさって指を振り立てた。そ れから祭壇の上の聖母子像を見上げ、静かに十字を切る。彼はあくまで敬虔な カトリック信者なのだ。だが緊急事態は緊急事態。ジノはシスターの衣装を投 げ捨てると、森崎を抱えて後も見ずに礼拝堂を駆け抜けていった。














 一つには季節の問題があった。
 彼が初めてここを訪れたのは、確かに緑の夏だったのだ。
 見覚えのあるようなないような白い塊が、その下にあるはずの彼の記憶を、 輪郭を丸くなぞりながら抱え込んでいる。
 だが、木立ちはそこで途切れ、とうとう家の形が彼の前に現われた。この地 方独特の傾斜のきつい大きな切妻屋根と素朴な木彫の破風が白と黒のコントラ ストを際立たせて、6年前の既視感を蘇らせる。弾ける笑い声、きらめく小川 の水、生まれたばかりの子犬たち…。
「ここだ…」
 シュナイダーの胸で何かが泡立つ音がした。雪の中で立ちつくしたまま、彼 は記憶の中の光景にまぶしそうに目を細める。
 懐かしさ、とは違う。ここは彼の家ではないのだから。だが彼はここに帰ら ねばならなかったのだ。
 雪はやんで、西の方にはわずかに雲の切れ間も見えている。と、シュナイダ ーははっと目を凝らした。何かが変だ。
 ザックを再び肩に掛け直すと、シュナイダーはまた雪をかき分けて道を進み 始めた。近づくにつれ、歩が速くなる。
――変だ! こんなじゃない、変だ!
 かつて頑丈に敷地を囲んでいた木の柵が雪の重みで崩れているのを目の端に 止めながら過ぎる。大屋根の母屋の前に来て、シュナイダーはやっと足を止め た。
 理由がわかったのだ。彼が感じた違和感の。だがそれを振り払うように、シ ュナイダーは勢いよく入口への階段を駆け上がった。力任せにドアを押し開 け、家の中に飛び込む。
 中は暗く、冷え冷えとしていた。人々が揃って笑いさざめき、日々の暮らし のあれこれを語り合っていたその大きな部屋にはただ静けさが冷たく沈澱して いるのみであった。木の床のあちこちに倒れた椅子が放置され、厚くほこりが 溜まっている。人が住まなくなって久しいことは一目で察せられた。
 しばらくそれを呆然と眺めていたシュナイダーはやがてゆっくりときびすを 返して戸口に戻った。外の雪景色の白さが目に痛かった。
「…ほんとに、誰もいないのか」
 階段に座り込んで頬杖をつく。何日もかけてようやくたどり着いたのに、そ こにはもう誰もいないなんて。
「ん…?」
 シュナイダーは顔を上げた。音が、したのだ。何かが壊れるような…。
 すぐに立ち上がって周囲を見る。母屋とは別棟の、敷地の奥に立つ小さな小 屋からその音は聞こえたようだった。
 歩いて行く途中で足跡と合流した。彼が来たのとは別方向の森からここまで たどっている。おそらく村の方向だろう。足跡はまっすぐにその小屋に続いて いた。
 小屋の扉がここだけ新しく修理されていて、人の出入りがあることが窺え た。シュナイダーはちょっと耳を澄ませてから静かに押し開ける。途端にむっ とするほどの強いアルコールの匂いが彼を襲った。
 床にはびんが散乱している。
 その中に、人が倒れていた。長い褐色の髪が肩に散り、その肩が微かに動い ている。
 シュナイダーはぎくりと目を見張った。ごろんと仰向けになった相手と目が 合ったのだ。その若い女は焦点の合わない目でしばらくシュナイダーを見てい たが、やがてゆらりと体を起こした。血の気のない唇がゆっくり動く。
「誰よ、あんた」
 意識がはっきりしていない様子だ。シュナイダーははっとする。女の腕が、 ひじから下がべったりと血にまみれているのだ。
「探しに来たわけ? 帰ってよ! 一人にして!」
 シュナイダーより4、5才ほど年上であろうか。ブルネットの女は自分の傷 には構う様子もなくこちらを睨みつけている。
「あ、いや。…俺は」
 探しに来て発見したわけではもちろんない。だが怪我をして倒れていた人間 を前にして、はいそうですかと引き下がるわけにもいかないのだ。
 しばらく黙って目を合わせているうちに、女の方が疲れたようにゆっくりま ばたきして、緊張がふと緩んだ。
「…あんた、見たことない顔ね。村の人じゃないんだ?」
 その口調はさっきより穏やかになっていた。ふらふらしているのは怪我のせ いと言うより酒のせいらしかった。シュナイダーはポケットを探ってハンカチ を引っぱり出す。女は不意を突かれてびっくりしたようにシュナイダーを見上 げた。
「君はこの家の人か?」
「…いいえ」
 シュナイダーの寡黙ながらうむを言わせない態度に気圧されたのか、女はも う抵抗しなかった。簡単な止血の手当てをされるままになっている。
「ここの人たちはどこへ行ったんだ。ヘフナーが、ヘフナーの家族がいたはず だ」
「ヘフナー?」
 女は首を振った。
「違うわ。ここに住んでたのはアウグステおばさんよ。でもおばさんは3年前 に亡くなったし…」
 女は口を閉ざして、ハンカチを巻かれた自分の腕にぼーっと目を落とした。
「…ふん、私も死んでしまいたかったのに。あんな男に振り回されて騙された 馬鹿さ加減を消しちゃいたかったのに」
 がっくりとうなだれると、女は声を上げて泣き始めてしまった。
「ここで酔いつぶれて眠ってしまったらそのまま何も知らずに死ねるって思っ たのに! あんたさえ来なければこのまま…!」
 シュナイダーは困惑する。どうやらこの女は死に場所を求めてここに来たも のの、酒に酔って暴れているうちに割れたびんか何かで傷を負ってしまったら しい。本当に死ぬ気だったのか、それともヤケ酒の挙句だったのかはわからな いが。
 ともあれ、酔っぱらい相手にそこまで踏み込むすべのないシュナイダーは自 分の話を続けることにした。
「えーと、アウグステおばさんって人は知ってる。ヘフナーの大おばさんだ」
「なに、あんた!」
 しかし女はそんなシュナイダーの言葉を一言でさえぎった。
「じろじろ人のこと見てないで、ほら、飲みなさい!」
 コップに透明な酒がなみなみと注がれる。見たことのない酒だ。ちょっとた めらったが、女にじっと睨まれてシュナイダーは喉に流し込んだ。
「――!!」
 途端に火を吹きそうになる。その様子を見て女が噴き出した。
「馬鹿ねえ。知らないの? これはシュナップスよ」
 ビールやワインならシュナイダーもある程度飲めるのだが、これは蒸留酒、 しかもウォトカやジンと同類の強いスピリッツで、アルコール度は比較になら ない。
「うちのおじいちゃんの手造りなのよ。ここが空き家になってから作業所に使 わせてもらってるの」
 女は手にしていたびんのラベルをシュナイダーに示した。無骨な手書きの字 で「さくらんぼ」と書いてある。見ればそこここに散らばっているびんのそれ ぞれに「りんご」とか「プラム」等の名前がついていた。
「これが…さくらんぼの酒?」
「気に入った?」
 女はまだくすくすと笑いながら別の一杯を差し出す。
「あんたまだ坊やなのね。名前は?」
「カールハインツ・シュナイダー」
 頭がくらくらするのを自分でも意識しながらシュナイダーは無愛想に答え た。2杯目を飲んで、目まいが少しおさまる。もちろんそれは錯覚で、実際は 酔いが深まっただけだったのだが。
「どっかで聞いた名前ね…」
 女も考え込むふりをするが、しょせん思考は働いていない。シュナイダーに 勧めながら自分も何杯もあおっているのだ。酔っぱらい二人はその朦朧とした 頭で会話を続ける。
「それよりおばさんを知ってるって言ったわね」
「俺は6年前、ここに来たことがある。ヘフナーに招かれて、ここで夏の休暇 を過ごしたんだ」
 シュナイダーはコップを手に、小屋の内部を見回した。
「ここに来れば、ヘフナーに会えると思ったのに…」
「……ああ、そうか、わかったわ。それってグスタフのことね、あのちびちゃ ん!」
 誰がちびちゃんだって…? シュナイダーの思考はさらに宙を舞い始める。
「おばさんの甥っ子が結婚しないで子持ちになって、ここに預けてったのよ ね。あの子、学校入るって町に出て、それからも時々ここに顔を見せてたみた いだけど、今はどうしてんのかしらねえ」
 見たら驚くぞ。
「俺もそれが知りたい」
 今初めて知ったヘフナーの生い立ちは、彼にはどうでも良い事だった。浮力 を感じ始めた体を持て余しながら、コップの中で揺れる透明な空間をただじっ と眺める。
「…だから俺はここに来たんだ!」










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