4章 5










 車内販売のワゴンがベルを流しながら遠ざかっていく。ジノは買ったばかり のハーフボトルのワインをあっと言う間に半分にすると、大きくため息をつい て座席に沈み込んだ。
 まったく大変な24時間だった。ミュンヘンの酒場でひと暴れした後すぐに チューリヒに飛び、徹夜のデータ分析。夜明けとともにバイクを飛ばしてドイ ツに戻り、ボーデン湖畔の教会でまた鬼ごっこ。
 気が張り詰めていた間は感じなかった眠気と疲れが今どっと出てきたようだ った。
 ジノは向かい合わせの座席にごろんと体を横たえている森崎を見つめた。だ がまだ自分は休んでいる暇はない。森崎を早く若林たちのところに送り届け、 入手した証拠物件をドイツサッカー協会に提出しなければならない。シュナイ ダーの嫌疑を晴らすために。
 しかし彼にはひとつ気にかかっていることがあった。
 自分たちが相手にしているのが強大なESPの持ち主だという若林の指摘であ る。なのにその相手はいまだ姿を見せていないばかりかこれまでのところ攻撃 らしい攻撃も仕掛けてきていない。黙って攻めさせるだけ攻めさせておいてカ ウンターアタック。イタリア得意の戦術をつい思い浮かべてしまう。
『ワカバヤシ』
 ジノはポケットから封筒を取り出した。数枚の書類を自分の膝の上に広げ る。
『…ヘルナンデス!』
 意外に返事は早かった。
『無事か? 今どこだ』
『列車の中だよ。そっちに向かってる。モリサキも一緒だ』
『ヘフナーは?』
 尋ねられてジノが一瞬迷う。
『いや、それが…』
『俺はここにいるぜ』
 説明を始めようとしたジノの耳に突然別の声が響いた。
『外を見ろ。左側だ』
 ジノはさっと立ち上がった。通路側の窓越しに外を見る。川沿いに走る列車 の対岸に道路が平行していて、列車の後方から見覚えのある赤いバイクがわず かずつ追いついてくるのが目に入った。
『ヘフナー!』
『やっとつかまえたぜ』
『…何だ、別行動中だったのか』
 横から驚いたように口をはさんだのは若林である。
『まあ色々あってな…』
『ワカバヤシ、シュナイダーの受け取ったっていう百万マルク、あれの解明が なんとかできそうだよ』
 詳しく回顧している時間はない。ジノはヘフナーの無事を知るや、さっそく 切り出した。
『無実の証明、だろうな』
『もちろん』
 ジノは広げた資料に目を落とす。
『ペーパーカンパニーの存在は事実だった。架空のトンネルを利用して不正利 益をあげていたんだ。そしてその金はH・ヒンツ社のある一部に流れていた…』 『副社長の一派だろう』
 裏金によって勢力アップを図り、次期総裁に躍り出ようと目論んだ彼らの工 作を、ジノはデータを分析することによって、若林らは相手陣地に不意討ちを かけることによってあぶり出したのである。
『君たちの特攻精神には感服するよ』
『ゴール前でじっと待ってるのは性に合わんのでな』
 キーパーにあるまじきことを言って若林はにやにやする。同じ場にいる若島 津が相変わらずの仏頂面で先を促した。
『で、シュナイダーとはどう関わってるんだ』
『簡単に言うと、口座を無断使用されたんだね。ドイツには当座預金という好 都合なものがある。利率は高くないが預金の出し入れが完全に無記名制になっ ていて、しかも通帳も必要ない。想像するに、他からの入金はあっても本人に よる引き出しがほとんどない口座っていうのを捜して、カムフラージュに利用 しようとしたんだ』
『それがたまたまシュナイダーのだった、って言うのか』
 ヘフナーがいまいましそうに舌打ちする。
『とんでもないとばっちりだ!』
『だがシュナイダーもシュナイダーだぞ。自分の収入ってもんにとことん無関 心で銀行におっぽってたんだからな。連中も隠居した暇なじいさんの口座くら いに思ったんだろうさ』
 まさかあんなスーパースターのだったなんて、と叫んでいたヒンツ社の秘書 を若林は思い返した。
『で、提出はできるのか』
 要約しすぎた若島津の問いに、ジノはちょっと戸惑ってから答えた。つまり シュナイダーの汚名返上の可能性である。
『そうだね、これだと状況証拠の範囲を出ないのは事実だ。やはりヒンツ社内 部の証言なりがないと決定的とは言えないだろうな。これでサッカー協会や警 察が動き出してくれれば話は早いんだが』
『あおったマスコミ連中にも責任を取って名誉挽回をしてもらわんとな』
『そっちはそっちで妙な展開を始めてるんじゃないのか』
 ヘフナーと若林は今朝それぞれ新聞で見つけた記事の情報交換をして互いに 呆れる。
『まったく、やつは水戸黄門か』
 諸国漫遊の人助け…なんてのがヘフナーやジノに通じるわけはないが。
『でもそれがシュナイダー本人だとしたら、少なくとも無事なことだけは確認 できたわけだ』
『無事、ね…』
 若林は不満そうに頭を振った。
『ヒンツ社の連中が俺たちを狙ったのは、シュナイダーが連中の不正に気づい てその証拠を押さえた上で俺たちと動いていると思ったかららしいんだが…』
『問題はあの「火の玉」だろうな』
 若島津が横から結論を急ぐ。ジノは思わず自分の目の前にいる森崎の青白い 顔に目をやってしまった。
『結局わかったのはヒンツ社と例のESPとは別口だったってことでな…』
 若林はさっきの会長室での不意討ちの顛末をヘフナーとジノに説明した。
『スイスの山荘だと?』
『そうだ』
 問い直すヘフナーに、若林は言った。
『そこへ行けばおまえの望んでた直接対決ができるわけだ。ま、せいぜい鼻を きかせてくれ』
 列車走り続けていた。その先に待っている運命を知らないまま…。












「おやおや、早速ですかな」
 管理人夫妻との打ち合わせをすませて戻って来た専務は、暖炉の前の安楽椅 子に身を沈めてチェス盤に手を伸ばしている会長を見て朗らかに声をかけた。
「いかがです、ここはお気に召しましたか?」
 専務は芝居がかって礼をとった。
「こんな山の中ですが、身の回りの世話は管理人がしっかりやってくれます し、私の部下も何人か置いて行きます。まあ、あなたには快適な生活を約束で きますよ」
「……霧だね」
 顔を上げた老会長は専務の言葉には気づかなかったのか、ゆっくりと窓に目 を移した。その表情は反応に乏しく、体を動かす様子もおっくうそうに見え る。
「この下は谷に面してますからね。特に朝の霧はひどいもんです。だがこれは 晴天の兆しだな」
 その谷の眺望に向かって張り出している広いバルコニーは、その先端が既に 霧にのまれて白く霞んでいた。無論、他にもアルプスの山々もまったく見えな い。自分でも何度かここに滞在したことがあるという専務は、得意げに天気予 報までしてみせた。
「ともかく煩わしいことはさっぱり忘れてここでゆっくりと療養なさってくだ さい。会社の方は一切心配無用でね」
 雑事から解放されて心静かに日々を送る、と言えば聞こえはいいが、裏がえ せばていのいい隔離策である。忠実そうな言葉を並べながら、専務の表情の裏 にはぎらぎらとした野心の影がはっきりと見て取れた。
「ん、どうしました?」
 専務の言葉にやはり返事をする気配はなく、会長はまた盤面に目を戻す。専 務はやれやれというように側に歩み寄って身をかがめた。
「ああ、例の対局の続きですか。モスクワでのあのチャンピオン戦ですな」
 チェスは、仕事一筋にやってきた会長の唯一の趣味だった。誰かと手合わせ するよりも、一人で駒を並べてチェス・プロブレム(日本で言うと詰将棋)を 解いたり、こうして昔の名勝負を盤上に再現してその応酬のあれこれを吟味す るのが楽しいらしい。モウロクしてもこの時だけは頭脳が働くと見える…。同 じくチェスをたしなむ専務は、テキスト片手に嬉々として解説してみせる会長 にいつも心の中で苦笑したものである。
「ところで一つ提案があるんですが…」
 会長がこれ以上ボケてしまわないうちに。―それは彼を含め社内のライバル たち皆の思いでもあったのだが。
「南米での新プラント事業ですがね、やはり本社とは別資本で進めるおつもり でしょうかな」
 その現地には、後継者とは名ばかりで会社の中枢からは完全に干されている 現社長が派遣されている。
「とすれば来期からの経営陣の組み替えもそろそろ手をつけるべきだと思うん ですがね…」
 会長は駒の一つを手に思案中らしく、専務の話にもただあいまいにうなづい ている。
「次の株主総会を待って、ということなんでしょうが、いっそ余計なお手を煩 わせるよりこの私に一任していただく方が良くはないでしょうか…」
「そうだな…」
 会長の言葉に一瞬だけ輝きかけた専務の顔は、しかしすぐに沈んだ。
「このポーンはまだ取れんな。ただ捨てにしておいて、こちらのクイーンを早 めに狙う、という手がいいかもしれん…」
 会長はチェスボードから目を離すことなく、ぽつりとつぶやいている。専務 は自分への返事でなかったことを知って見るからに落胆したようだった。
「…サインさえいただいておけば簡単に代行手続きができるんですが…」
「あ? 何か言ったかね?」
 駒を進めてからようやく顔を上げた会長はぽかんと専務を見返す。専務は露 骨に肩をすくめた。
「いや、結構ですよ。まあ次の機会にでも…」
 と、そこへ電話のベルが響いた。大股に部屋を横切って、専務は受話器を取 る。会長の反応に不機嫌そうだった顔が、相手の言葉にぱっと明るくなった。
「そうか、よくわかった。続けて監視していてくれたまえ」
 専務は受話器を置くと、会長を振り返った。
「会長、残念なニュースです」
 言葉と反対に表情は輝いている。
「昨夜遅く、本社の総務部に不審な侵入者があったそうです。賊はどうも副社 長の極秘プロジェクトを狙ったらしくて…」
 そこでわざわざ声を低める。どうせこの場にいるのは彼らだけなのだが。
「総務部の調べでは、そのプロジェクトというのが無届けの上にどうやら法に も抵触する類いのものらしいというのです」
 会長はさほど関心はなさそうに、しかし手は止めて専務の話に耳を傾けてい るようだ。専務はそれに意を得たりとばかりに大げさに声を張り上げる。
「副社長ともあろう人が、こういう失態は歓迎できませんな。そうじゃないで すか?」
 拳を振り上げておいて肩越しにちらりと会長を見やる。だが会長の表情にお もったような反応がないのを見て、専務はやれやれと言わんばかりに両手を下 ろした。
「では私はこれから本社に戻って詳しく調べるとしよう。またすぐこちらに伺 いますから、よろしく」
 最後の「よろしく」に言葉以上の期待を込めて、専務は会長の前を辞した。 いいタイミングだった。副社長の先手先手をとって、マイナス点を多少誇張し てでも会長に印象付けておくことだ。その分だけ彼の立場は有利になる。「腹 心の部下」から次第に「次期後継者」へとチャンスは広がっていくだろう。
 入れ違いに管理人のおかみさんが軽い食事を置いて行った。会長はそれにも 興味を示さず、また淡々とチェスボードに向かっている。
「予想外の動きというものはあるものだな」
 次の手となるべき白のルークを掌の上で無意識に転がしながら、会長は口の 中でつぶやいた。
「定石通りというわけにはいかんようだ」
 一瞬宙に止めて、それから叩くように黒のキングの前に置く。
「援軍は不要だ。消えてもらうとしよう」
 指の間から、いくつかの駒がぽろりと床にこぼれて行った。









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