4章 6









「何だろう…?」
 顔を上げて周囲の様子を窺う。
「どうかしたの、モリサキ」
「…ちょっと待って」
 森崎は立ち上がった。彼らを囲い込んだまま一切の変化を見せなかった白い スクリーンに何か動きが感じられる。
 波。…そう、波立つ、という感じがぴったりだった。何かが変化しつつあ る。その変化の兆しが、彼には見えないこの闇のどこかで確かに鼓動している のだ。
 フリッツはそんな森崎の真剣な顔に不安の表情を向ける。森崎はじっと目を こらし、そのままつぶやいた。
「…行ってみる」
「どうしたの! ねえ、どうしたの!?」
「動いてるんだ。出口かもしれない」
「出口? ここから出られるの!?」
 フリッツも弾かれたように立ち上がった。両手を握りしめ、森崎の背に呼び かける。森崎は一歩一歩感触を確かめるようにそろそろと前に進んで行った。 「動いてるって、何が?」
「引っぱられるみたいな、それとも…?」
 足を止めてゆっくりと周囲に首を巡らす。
 磁場――とでも言うしかない力の流れを森崎は直感的に感じていた。ゴール に一直線に向かってくる時のストライカー。その攻撃の焦点に集中する圧倒的 な力。その前に立ち塞がるキーパーにとって、それは無条件に「危険」を意味 する。この感じはそれと異様に似ていた。そしてその力は今はっきりと彼に照 準を合わせて、まっすぐ押し寄せて来るのだ。森崎はフリッツにはそこまで説 明はせずにまた一歩を踏み出した。
「やだ、モリサキ、ここにいて! こわいよ!」
 背後でフリッツの悲鳴のような声が響いた。
――こわい? こわいって、何が?
 振り返ろうとしたその瞬間だった。頭上から大きな黒い影が覆いかぶさる。 あっと思う間もなく森崎はまるで押し潰されるように暗黒の嵐に包まれた。












 ひどい耳鳴りだった。耳だけでなく全身が痺れるような不快感が攻めつけて くる。森崎は両腕で自分の体をぎゅっと抱きしめてこらえるが、ゆっくりと身 を低くするよりなく、ついに膝をついてしまった。
――これが、フリッツの言っていた「あいつ」のパワーか…!
 さっきまで一方向に確かに向かっていたはずの「流れ」が、突然コントロー ルを失って暴れ出したという感じだった。
「フリッツ…!」
 無理に顔を上げて叫ぶ。だが、少年の気配はない。体が引きちぎられそうな 重みが自分にのしかかってくるのがわかる。
「まさか…」
 少年が訴えていた言葉が頭を横切った。彼にESPによる外部攻撃を強要する黒 い大きな「力」。それがいつか自分をも呑み込んでしまう、と。
「フリッツが力を使わされているんだ!」
 しかし何に向かって? シュナイダーか、…それとも若林たちへの攻撃か?
 苦痛というよりは恐怖、恐怖というよりは絶望に近いものが森崎を包む。自 由にならない体、自由にならない思い。目の前に迫る圧倒的な力に対して立ち すくむしかできないとしたら…。
 森崎はぎゅっと目を閉じた。振り払いたい、振り払わねば! 彼は今シュー トレンジの真正面にいるのだ。
「フリッツ!!」
 ぱっと目を開く。闇はまだ彼を押え込み、猛り狂い、耐え難い重圧感で空間 を支配していた。森崎はじりじりと上体を起こし、前方の闇を睨みつけた。
 何か、形が見える。
「そこに…いるのか!?」
 返事はなかった。森崎は苦労しながらわずかずつにじり寄る。
「フリッツ!?」
 少年は体を丸め、うつろな目で闇を見ていた。その黒く重い力の渦は、放さ ない、とでも言うように少年を囲み、うなりをあげている。
「おい、しっかりするんだ!」
 森崎の手がようやく少年の腕に届いた。はっと目を上げて、少年は森崎を凝 視する。その顔には血の気がなく、表情にははっきりと恐怖が広がっていた。
「…モリサキ」
 ゆっくりと唇が動いて、あとは一気に涙声となった。
「だめだよ、僕、逃げられない!」
 渦巻く闇の轟きが焦点を結び始めていた。漠然とした風のうなりから、規則 的な機械音に変化しつつある。どこかで聞き覚えのある音…。
「大丈夫だ、早くこっちへ! ほらっ!」
「いやだ、食われる、食われるよ! あいつが来る!!」
 少年の叫びと同時に、二人の頭上に割れるような轟音がのしかかった。長い シルエット。それがものすごいスピードで横切っていく。
「列車だ!!」
 あっけにとられて見上げていた森崎は、はっと少年に視線を戻した。少年は 呆然と目を見開いている。
「フリッツ! まさか、あれに何かしたのか!?」
「線路と…鉄橋に…」
 あとは声にならず、少年は森崎の胸に顔をうずめた。その背に回した森崎の 腕にぎゅっと力が入る。
 誰が乗っているのかはわからないが、狙われる以上今度の件にかかわる誰か であることは間違いなかった。もしそうでないにしても列車には大勢の乗客が いる!
「フリッツ、大丈夫だ。まだ間に合うよ。一緒に止めよう」
 声に不安を出さないよう努力しながら森崎は少年を強く引き寄せて祈った。
 まだ間に合う。…きっと。
 走り過ぎる列車の重い影が、一瞬止まったかに見え――次の瞬間、スロービ デオを見るように次々と寸断されていく。同時に、激しい爆発音が弾けた。
「止まれ、止まれ、止まれ――っ!!」
 人々の悲鳴が降ってくるのを感じた時、森崎は我を忘れて絶叫していた。列 車の幻影が刃となって彼らの頭上の闇を切り裂き、一面に青白い閃光に照らし 出される。
 と、同時に、すべてが空白となった。












 若林は電流に打たれたように瞬間立ちすくんだ。体内の奥底からずしんと何 かが突き上げるような衝撃だった。
「い…まのは――?」
 呆然と振り向くと、側で若島津が同じように顔をこわばらせて目を合わせ た。二人同時に伝わったということは…。
「まさか、森崎が…?」
 つぶやいた途端、大音響のギターが目の前のPAを揺るがして炸裂した。同時 に金色のライトに包まれたステージに、この一瞬を待ち構えていた聴衆の歓声 が大波のように押し寄せる。コンサートの幕開けだった。
『ヘルナンデス! ヘフナー!』
 頭の奥がまだしびれているような感覚に顔をしかめながら、若林はその場に いない二人の名を呼んだ。
『……畜生!』
 回線がつながった途端、ヘフナーの乱暴な罵声が飛び込んできた。
『返事しろ、どこだ!』
『どうした、ヘフナー! 何があったんだ!?』
 通じないことを知っていても呼びかけずにいられなかったのだろう、ヘフナ ーのその狼狽ぶりに、若林も急き込んで問う。
『事故だ!! あいつらの乗ってた列車が――鉄橋から落ちて…。今、それが宙 に止まったんだ!!』
『何だと!?』
『…ヘフナー』
 怒鳴り合うような二人の声を、そこへもう一つの声がささやくようにさえぎ った。
『ヘルナンデス…!!』
『僕らは…大丈夫。ちょっとびっくりしただけ』
『おまえが、力を使ったのか?』
 彼らには見えないその場所で、ジノが大きく息をついているのがわかった。 さすがに動転はしていないようだが、かなり力の消耗をしたらしい。が、問わ れてそれに答える代わりに、ジノはずばりと問いを突きつけた。
『ワカバヤシ、君たちのモリサキに対する態度がちょっと変だとは思ってたが ――何か秘密があるみたいだね?』
 毅然とした声だった。
『…落ちてくのがわかった時、僕はできる限りの力を集中した。だけど、とう てい支えきれるわけもなくて…。その時モリサキが、突然白く光り出したん だ。一瞬、ものすごい熱を放って』
『あ……』
 今度は残りの3人が黙り込んだ。
 列車事故を引き起こそうとした「力」と、それを止めようとした「力」。そ の激突の大きさが、さっき彼らに届いた衝撃だったとしたら…。
『意識さえない彼に、なぜこんなことができたのか…。君たちには心当たりが あるんだろう?』
 ステージの袖の暗がりに立っていると、ステージの上も客席の熱狂も見えな いまま、音楽はもはや音というよりも物理的な振動として直接響いてくる。若 林はその圧倒的なウェーブを全身に受けながら3年前の衝撃を思い出した。
――森崎の「力」はあれからずっと眠っていた。自覚のないまま、また力の解 放が起きたら?
『すまん、隠すつもりはなかったんだが、なんつーか、うまく説明する自信が なくてな』
『わかった、話は後でゆっくり聞かせてもらうよ。ヘフナー、君はこの近くに いるのかい?』
 森崎が空中で止めた数両の車両は、慣性の力学に従って残り数メートルをゆ っくりと地上に降りた。町を横断する幅の広い運河の両岸にちょうど積み木の ように順に重なる。堤防の立ち木がいくらかなぎ倒された他は地上に大きな被 害はないようだった。
『ああ、俺は次の駅の手前だ。鉄橋は見えてる』
『じゃ、すぐここまで回ってくれ。脱出するから。会場までとにかく急ごう』
 ヘフナーは一言了解を伝えると、すぐバイクで走り出した。若林もやっと肩 の力を抜く。
「…意識のない『死体』のまま、そんな真似をするとはな。大変な野郎だ」
 独り言のようにつぶやきながら、若林は隣の若島津にゆっくりと向き直っ た。そして、ぎくりとする。
「若島津!?」
 そこに、目を見開いたまま、若島津が呆然と立ち尽くしていた。






【第四章 おわり】









 BACK | MENU | NEXT>>