5章 1




第五章 共鳴 ―レゾナンス―










『――森崎!』
 それは遠い声だった。森崎はびくっと目を見開く。さっきまでのことが夢で あったかのように周囲は穏やかな白い闇に戻っていた。
『森崎!!』
「え、若島津…?」
 森崎は反射的に叫び返していた。遠い。遠いがそれはすべての風の渦を超え た別世界からの響きを持って、森崎の耳にはっきりととらえられている。
『森崎! いるのか、そこに…!?』
「若島津、どこだ!」
 声は聞こえるが若島津の姿はまったく見えない。森崎は弾かれたように周囲 を見回した。
『…森崎!』
 突然、全身にふわりと何かが重なるような感覚が森崎を驚かせる。
 それは、「気配」を通り越して、人の体温を思わせた。
「若島津」
 森崎は悟った。若島津がいる。ここに。自分のいるまさにこの位置に。だが 次元に隔てられて、互いに姿はとらえられないのだ。
『おまえ、大丈夫か?』
「うん、まあ、とりあえず」
 森崎は息をついた。荒れ狂っていた嵐は遠のき、他に何の物音もしない。
『おまえ、どこなんだ。どこに捕まってるんだ』
「それが…、ここって何もないんだ。ただ白いだけで…」
『白い? 他に何も見えないのか?』
「うん、フリッツと俺以外には誰もいないし」
『フリッツ? 何だ、そいつは』
「小さい男の子だよ。俺と同じように、でももっとずっと以前からここに閉じ 込められてたらしくて」
 若島津は少し沈黙した。
『そいつが火の玉の正体ってわけか…』
「違うよ!」
 森崎はムキになった。
「フリッツは無理に『力』を使わされてるんだ。そうしなきゃ殺される、っ て!」
『…わかった』
 若島津の声がなだめるように響いた。
『ならシュナイダーはどうだ? どこにいるんだ、ヤツは』
「シュナイダーは無事だと思う。今のところ…」
『会ったのか? あいつも同じところにいるのか?』
「いや、彼はそっち側だ。だけど一人で立ち止まってる。何か探してるみたい に」
『探してる?』
 若島津の声がいぶかしげに繰り返した。
「時々姿が映るんだ。…でもなぜかはわからない。話しかけることもできない し…」
『…森崎』
 若島津の声がまた少し遠ざかった感じだった。
『……早く…なんとか戻る方法を…見つけるんだ』
「若島津!!」
『こっちへ…早く………』
 声は途切れ途切れになってやがてまったく聞こえなくなった。森崎を包んで いた温もりもいつのまにか去り、彼は思わず身震いをしていた。そしてはっと 周囲の異変に気づく。
「えっ、なんだこれ!」
 霧が晴れていくように、今まで白一色だった空間に建物の影が浮かび始めて いた。くすんだ灰色の建物が通りに沿って並び、それはヨーロッパの古い都市 で見られるような街の一角だった。
 あわてて見回すと、森崎は石畳の車道の真ん中に立っているのだった。だが 車はおろか、人の姿さえ見えない。森崎は全速で駆け出していた。
「――どこなんだ、ここは! どうして人がいないんだ!」
 叫んだ途端、頭上で鈍い衝撃音が響いた。1回、そして2回。
「うわっ!!」
 3回目はすぐ目の前だった。見上げていた建物の屋根が爆発音とともに砕け 散り、同時に赤い炎が上がる。あっと思った時には道を隔てた向かいの建物も 屋根が吹き飛んでいた。
「ば、爆撃…!?」
 森崎は呆然とする。周囲がにわかに騒然とし始めていた。サイレンが遠くで 響き、人の叫び声があちこちで交錯する。
「まさか、戦争が始まったとでも言うのか!?」
 完全に頭が混乱する。学校で習う程度しかヨーロッパ情勢の知識などない。 ベルリンの壁が崩壊してドイツは統一されたこと。でも東欧の各国では改革へ の動きがまだ不確かで内紛が起きたり難民が生まれたりしていること。そうい ったことはニュースで聞きかじってはいたものの、いきなり戦争になるなんて ことがあるだろうか。
 空が炎に染まって、その中を横切る爆撃機の黒い影を写し取る。通りはいつ の間にか逃げ惑う人で埋まっていた。悲鳴や怒号が飛び交う中を、森崎は何度 も突き飛ばされかけながら、何かに引かれるように通りを先へ先へと進んで行 った。
「誰か…! この子を!!」
 通りの向こうで叫び声がした。はっと見やると、燃え落ちた建物の前で数人 の男女が人垣を作っていた。一人が広場の噴水に走り、水をすくって運ぶ。彼 らが心配そうに囲んでいる倭の一隅が割れて中が見え、森崎は息を飲んだ。
「――フ、フリッツ!?」
 あわてて駆け寄る。人垣を押し分けて覗き込むと、服に焼け焦げを作ってぐ ったりと抱き起こされている小さい少年の姿があった。
「フリッツ!!」
 森崎の声に少年がゆっくりと顔を上げた。青い、深い目がまっすぐ森崎を見 る。
「……そうだ、僕、思い出したんだ」
 少年の声が、何かが歪んだように別のところから響いた。頭上のどこかから 響く声。
 同時に周囲の人影が刷毛ではいたようにすうっと溶けて消えていく。爆音も 悲鳴も既になく、足元の石畳も、広場も街並みも、すべてが白く渦巻いて流れ 去って行った。
「僕は、助けられなかった。父さんと、母さんを、助けられなかったんだ!」
 二人は元の白い空間に立っていた。あらゆる物音と風景が消え去った中、フ リッツがただじっと森崎を見つめていた。
「フリッツ…」
「父さんたちが憎んだ僕の力を…、僕はあの時使えなかった。家に爆弾が落ち て、目の前で壁も床も崩れていって火が押し寄せてきたのに、僕は動けなかっ た。助けられなかったんだ!!」
「君が悪いんじゃない、フリッツ。君のせいじゃないよ!」
 身を投げ出すようにして泣き伏してきた少年に、森崎は必死に同じ言葉を繰 り返した。
 消えていた記憶。それは耐えがたい悲しみから逃れるためのギリギリの自己 防衛だったのだろうか。あるいは自らの「力」を憎んで無意識の抵抗をしてい たのか…。
 森崎はぎくりとした。腕の中のフリッツが突然ふわっと光に包まれたのであ る。そう、まさにあの「火の玉」の光だった。
「フリッツ、一体…?」
 空間が軋んでいた。どこかへ動いていくかのように。
 それと同時に、抱き止めていたフリッツの体がすっと軽くなる。
「えっ…?」
 目を見張った時には、腕の中からフリッツの姿はもう消えていた。
















「どうした若島津!? しっかりしろ!」
 耳元で精一杯の声を出す。肩に手を掛けようとして、若林はぎくっとした。 熱だ、こっちも!
「――あ、ああ」
 激しく揺すぶられて、若島津の目にはっと正気が戻った。
「おまえ、この熱…」
「森崎だ!」
 問いかけようとした若林をさえぎって、逆にその肩をがしりとつかむ。不意 を突かれた若林は、その手加減のない握力に顔をしかめた。
「…何だって?」
「森崎だったんだ! 今、森崎の声がすぐそばで聞こえたんだ!!」
 若林の眉がゆっくりと上がる。
「すぐ、そばだと?」
 彼らを狙う強大なESP。そしてそれとまともにぶつかってしまった森崎の力。 その激しい衝突の余波が若島津にもこうして届いたというのか…。
「おまえ、あいつとまた共鳴しちまったのか…」
「くそ…!」
 若島津は苛立たしげに首を振った。
「もう少し話ができれば、なんとか手がかりがつかめたかもしれなかったん だ!」
 何もない夜だけの世界。「力」を強要されているフリッツという少年。
 森崎の言葉はあまりに断片的すぎ、あまりに抽象的すぎた。
「そいつが殺される…? そう言ったのか、森崎は」
 若島津からその会話の一部始終を聞いて若林は考え込んだ。彼らが対してい る姿のない敵は、その実行においても直接手を下していないことになる。森崎 と共にいる少年が間接的に利用されているだけだとすれば、ヒンツ社の会長と 専務の行動はどう関連づけられるのか…?
「あいつのことだ、変に同情して腰を落ち着けちまってるんだろうが…」
 高熱があおっているのか、若島津は珍しくイライラとした表情を隠さない。
「畜生、こんな時、日向さんがいれば…」
「あぁん?」
 唐突な名前が出てきて、若林はあっけにとられる。若島津はほとんど八つ当 たり気味にそんな若林をにらみつけた。
「去年の冬の大会の話は聞いただろう? 結局ああいう思想のないパワーが一 番なんだ、あいつの力を動かすには」
 表現が過激だ。これも熱のせいか保証はないが。
「日向が、おまえと森崎の愛のキューピッドってわけか?」
「…少なくともおまえよりは当てになる」
 気が立っている相手に一応おちゃらけてみせる度量だけは評価しよう。しか しこれは墓穴であった。喉元に手刀を突きつけられて、さすがに若林も真顔に なる。
「あれがどういう所なのか、見当はついてるんだろう」
「い、いや、確実にとは言えんが…」
「…もう一度、俺を向こうに行かせてくれ。共鳴でも何でも構わん。俺があい つを連れ戻す」
「しかし…」
 ――危険、という言葉を若林は呑み込んだ。若島津が言っているのは危険か 安全か、ではなく、可能性があるかないか、なのだ。
「わかったよ。だが俺が感応できるのはあくまで意識層までだ。もしあいつが その先の無意識層にいるんだとしたら、もう俺は手を出せん」
 若林はびしりと若島津の目を見据えた。
「いいか、『道』はないんだ」
 若島津は黙って若林から手を離す。そのまま視線を流してステージに目をや った。ホリゾントと呼ばれる背景用のライトがちょうど赤に切り替わって、そ の横顔を染め上げる。
「俺の…見た夢を教えてやろう」
 久しぶりのステージでいかにも生き生きと歌っている兄に無表情な視線を投 げながら、ぽつり、と若島津が言った。
「白い背景が視界いっぱいに広がって…、そこに森崎がいるんだ。あれは一面 の雪の原なのか、それとも花なのか――目をこらしているうちに森崎がその白 さの中に埋もれていって…」
「若島津…!」
 額に片手を当てながら目を伏せた若島津に、若林が鋭く声を投げる。若島津 はゆっくり顔を上げ、そして苦しそうに笑顔を見せた。
「…もうあとはただ白いだけなんだ」










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