5章 2












「おい、こっちからもう一つ足跡があるぞ…?」
「まだ新しいじゃないか。雪がやんでからのものだ」
 頭を寄せて口々にしゃべっている男たちがいた。
「じいさん、あんたの作業所に向かってるぜ!」
「あの馬鹿娘が! だからわしゃ町に出て働くなんて反対だったんじゃ。たわ けた男にだまされて逃げ帰って来るくらいならな」
 背を丸めて列の後に続く老人は声をかけられても気づかない様子で、一人ぶ つぶつとつぶやき続けている。口ぶりは乱暴だったが、ぎゅっと組んだ指が細 かく震えていた。
 その前を、毛糸のキャップをかぶった若い男がやはり深刻な顔つきでうつむ きながら歩いている。
「まさか、変なことを考えてないだろうな、まさか。無事でいてくれ、無事で …」
「大丈夫だよ、な、ヨーハン。おまえの妹がこっちに来るのを見たっていう人 がいるんだから」
 男たちの声は突然とぎれた。列の先頭にいた男が、小屋の窓のところで振り 返って大きく両手を振り回している。皆ぎくりとしてそちらを注視した。
「…おい、血、血だ!!」
「何だって!?」
 恐れていた言葉に、男たちは顔色を変えて駆け寄る。
「部屋の中が、めちゃくちゃで、ほら、血も飛び散って…!」
「エバ! エバ、いるのか!」
 兄が真っ先に飛び込んで行った。が、ドアを開けたそこに、いきなり障害物 が立ちはだかっていて衝突しかける。
「な、何だ、おまえは!」
 そこに突っ立っていた男に兄は逆上しかけるが、その顔を見た途端に腰を抜 かした。
「……あ、ま、まさか!!」
 相手の両肩をつかんだその体勢のまま金縛りになる。が、他の男たちはその 横をどどっとすり抜けて小屋に駆け込み、作業台の脇にぐったりともたれてい る女に突進した。
「エバ、大丈夫か、おい!」
「――あ? ああ、おじいちゃん?」
 目を開いた孫娘がそうつぶやくと、老人はほっとしたのか床に膝をついた。 その床に散乱している酒瓶を改めて見回し、状況を悟ったらしい。
「この馬鹿もんが、心配かけおって…!」
 老人は顔をくしゃくしゃにして怒鳴りつけた。他の村人たちも一斉にホッと 顔を見合わせる。
「ん、これは? 誰が手当てを…」
 老人が、エバの手のハンカチに目を止めた。
「あの、人が…」
 エバが手を伸ばした先を男たちはゆっくり振り返った。戸口で兄のヨーハン と向き合っているのは…。
「カールハインツ・シュナイダー!!」
 目の前で大きな声を出されてやっと、そのぼーっとした顔に僅かな変化が出 たようだった。感情もさることながら、酔いもまったく顔に出ないとは困った ものである。勧められるままに強い酒をこれでもかと飲んでしまったシュナイ ダーは、立ったまま完全に泥酔していたのだ。
「ど、どうしてあんたがこんな所に…!?」
「ヨーハン、ほら、あれだよ! あの新聞の記事!」
 村人の一人が声を上げる。
「どっかの村で子供を助けたって…。あれはやっぱり本物だったんだ!」
「お、俺…」
 酔っていないヨーハンのほうが真っ赤な顔になっていた。
「あんたのファンでさ、ずっとあの事件のこと心配してて…。それが、いきな り妹を助けてくれるなんて――こんな、し、信じられないよ!!」
 十歳ほども年下の、しかし彼よりも頭ひとつ背の高いシュナイダーをがばっ と抱きしめる。それを合図にしたように、他の男たちも駆け寄って歓声を上げ た。盛り上がっていないのはその中心にいる本人だけである。
「さあ、とにかくエバを家に連れて帰ろう」
 ヤケ酒の飲み過ぎで怪我までしてしまった孫だ。早くこの寒い小屋から暖か い自宅に運んだほうがよさそうだった。家族にも無事を知らせてやらねば。
「よし、早く帰って乾杯じゃ。さあ、あんたも一緒に」
 エバは兄がおぶって、老人は小屋の中の酒を拾い集めた。その何本かをシュ ナイダーの腕に押し込んで嬉しそうに笑う。
「……」
「何だ、どうしたね?」
 それでも反応のないシュナイダーを、老人は不思議そうに見上げた。
「…眠い」
 頭の中は夢見心地で思考は雲の彼方、周囲の声もほとんど聞こえていない状 態のシュナイダーは、そう答えるのがやっとのようだった。
「そうかい、ならうちに来てゆっくり休んでおくれ。エバの命の恩人じゃから な」
 酔っ払っているとは思っていない老人は、そう言って愉快そうに笑った。シ ュナイダーの背を横から後押ししながら小屋を出ようとする。
「カールハインツ・シュナイダー、だね」
 老人の前に立ちはだかるように、突然戸口に黒い人影が立った。老人はびっ くりして口を開ける。
「な、なんじゃ、あんたらは…?」
「失礼」
 このへんの村では見かけない都会風のなりをした男たちが、老人を押しのけ てシュナイダーの腕をとった。そのまま何も言わず立ち去ろうとする。
「こら、待たんか!」
 後ろから飛びついた老人をうるさそうに払いのけ、男たちは雪の中に出て行 く。シュナイダーは外の空気の冷たさにちょっと眉を動かしたものの、何が起 こっているのかまではわからない様子で、両側から抱えられている。
「じいさん、どうしたんだ!」
 先を急ごうとしていた村の男たちがその騒ぎに気づいて駆け戻って来た。老 人はシュナイダーが連れ去られた方向をにらみ、帽子を握って振り回してい た。
「馬鹿者! それはわしらの客人じゃ。勝手に連れて行ってはいかん!」
 しかし彼らが見たのは、農場の門の前を走り去る黒い乗用車の後ろ姿だけで あった。










「だからどうしてそこで怒らなくちゃいけないんだい?」
 ジノは心底不思議そうにヘフナーに抗議した。
「すんなり入れてもらえたんだからむしろラッキーだって思わなきゃ」
「…おまえこそ、なんでアレの義理の弟だって主張しなかった」
 関係者以外立入禁止の通路をどしどしと突き進みながら、ヘフナーはむすっ と睨み返す。潜り込めるかどうか不安半分でやって来た会場の楽屋口で、あっ さりと顔パスが通ってしまったのがショックだったらしい。
「そりゃ、君でだめならそうしようと思ってたけどね」
 まあ係員もギュンター・ヘフナー本人だと思ったわけではないだろうが、そ っくりな男が目の前に突然立ちはだかったその無言の迫力が相当なプレッシャ ーとなったはずである。思わず通してしまうほどの。
「第一、口であれこれ説明するよりも、君なら一目瞭然だし」
「誰が一目瞭然だ!」
 ついに忍耐の限界に達したヘフナーが足を止めてジノに食ってかかろうとし たその時――。
「よ、ジュニアじゃねえか!」
 彼らが行き過ぎたばかりのドアが開いて、サングラスの男がひょいと顔を出 した。
「何と信じられない場所で会ったもんだ。どういう風の吹き回しだぁ?」
 としのころは30代後半、茶褐色の髪をえりあしのところで短く束ね、肩に はぐるぐると巻いたケーブルをかついだまま気さくな笑顔を見せる。すぐ目の 前で顔を突き合わせていたジノは、ヘフナーの頬がぴくっと引きつるのをしっ かり目撃してしまった。
「あれほどギュンターから逃げ回ってたのによ、わざわざ仕事先に訪ねてくる なんて」
「俺を…ジュニアと呼ぶのはやめてくれって言ってあったはずですよ!」
「ねえヘフナー、そんなに怒ってばかりいると体に悪いよ、きっと」
 横から親切な忠告をするジノであったが、その一端を自分も担っていること は忘れ去っているらしかった。
「…そうとも、だから俺はこういう環境に近づかんように心掛けてきたんだ、 ずっとな!」
「おや、そっちはアンジェラの…」
「ええ、イタリアから来ました。確か、シュタイニッツハウプトブルガーさ ん、でしたね」
 まあ、すらすらとよく。
「よしなよ、ルディでいい」
 ギュンター・ヘフナーと組んでそろそろ15年、家族ぐるみの付き合いのラ イティングエンジニアは、自分の長すぎる名前には何の未練もないらしく、ひ らひら手を振ってそれを払いのけた。
「ええと、こっちは僕らの同業者ですが、ちょっと今眠ってるのでこのまま失 礼します」
 ヘフナーが肩に担いでいる森崎を指して、ジノは何の罪悪感もなく紹介す る。普通なら多少不審に思うところを、さすがにこの世界に長いシュタイニッ ツハウプトブルガー氏は何の追及もせずに納得したようだ。
「へえ、面白い組み合わせだな。それで、ギュンターに会いに来たわけか?」
「いいえ、そうじゃないんです。日本から来たゴー・ワカシマヅに用があって …」
「日本人の…?」
 階段を上がりながらルディは天井を指さした。
「すると…、これ、かい?」
 えっ、と見上げると、廊下のところどころにステージ進行をモニターするス ピーカーが設置されている。なるほどさっきから音楽が流れていたわけだ。
「なんか内輪のノリで、今日だけの限定ユニットを組んだって言ってたぜ。オ ープニングアクトのサービスに。ジッパのベースのヤツとかも参加してるっ て。確か、ゴーってのはボーカルだったよな」
 ルディは言葉をちょっと切ってその音に耳をすませた。
「さっきサウンドチェックの時に見てたんだが、面白いヤツだったな。メタル 畑じゃないって話だが、すげえ声してるし、ちゃんと『演じ』てる。ありゃか なりの役者だぜ」
 言われて二人も耳を傾ける。実のところ、言われなければ気づかなかっただ ろう。本来はジャズボーカリストのはずの若島津剛は、しかし完全にヘビメタ の世界になじみきって見事な歌を披露している。ヘフナーは肩をすくめた。
「面白がってるな、ゴーは」
 ルディに招き入れられて、二人は小さなブースに足を踏み入れた。一方の壁 が大きくガラス張りになっていて、その下にステージが見下ろせる。機械に向 かっていたエンジニアが振り返って手を上げた。
「OKです、ルディ。やっぱりさっきのは配線違いですね」
「ほら、見てみな。ここでステージのライティングを操作するんだ。もっとも 基本のとこはあらかじめ曲ごとにプログラムしてあるからほとんどそのまま任 せっきりで済んじまうがな」
「へええ、すごいなあ」
 家業のこともあって機械には目のないジノである。
「会場内のライトがここで制御できるんですね」
「ん、ちょっと右がきついな。バランス直してくれ」
 モニターを覗きながらルディが指示を出す。コンピュータ制御ができるとは 言え、細かい調節はやはり人間の目で最終決定するということらしい。
「……おい!」
「え…?」
 会話には加わらず無関心にステージを見下ろしていたヘフナーが、突然ジノ の肩をぐいと引き寄せた。
「銃を、持ち込んでるヤツがいる…」
「な、なんだってぇ…!? 冗談じゃねえぞ!」
 いきなりの爆弾発言に、部屋のスタッフたちが顔色を変えた。もちろんヘフ ナーの指摘は目で見てのものではない。「危険」を本能で察知する野生動物の 嗅覚を持つ男は、その場の空気を確かめようとするように眼下の光景をにらみ つける。
「…ゴーを、狙う気か!」
「まさか!」
 ジノも並んでブースの窓に飛びつく。ステージ下では若い聴衆が熱狂の中腕 を突き上げ、頭を振り回しており、誰がどこにいようと、それを見分けること は不可能だった。
「――くそっ、間に合うか!」
「おいっ…!?」
 ヘフナーは森崎をジノに押しつけると、呼び止めようとするルディを振り切 って後も見ずに飛び出して行った。
「ど、どうする? ディレクターに連絡して、ライブは中止するか!?」
「バカな、無理だ! この混乱の中で下手に止めちまったら大パニックで余計 な被害が出てしまうぞ」
 ルディは乱暴に頭のヘッドセットをむしり取った。
「一体…、どういうことなんだ、ジュニア!?」
「ワカバヤシ――!!」
 そのヘフナーは、階段を駆け下りながら大声を出していた。
「どこだ、返事しろ、ワカバヤシ!」
『ヘフナー? …どうした!』
 耳にその声を確認して、ヘフナーはぐっと唇を噛んだ。












 そうだ、あれは森崎じゃない。あれは俺かもしれなかったんだ。白い闇にど こまでも沈んでいくその無力感…。
 若島津は眉をぎゅっと寄せた。記憶はそこだけ鮮明だった。病院のベッドの 上で、彼は長い夢を見ていたのだ。
「サッカーなんか嫌いだ!」
 嫌いだから――彼は闇雲にサッカーに没入した。空手は嫌いとか好きとかの 次元ではない。それは生まれた時から側にある日常の延長だった。だがサッカ ーは違う。
 白い弾道が鋭く空間を切り裂き、まっすぐ彼を射抜いた。高いホイッスルと 観衆のどよめき。空高い太陽からの逆光がすべてを覆う一瞬に、彼はその顔を 見た、と思った。
「日向さん…!」
 ちきしょう、と拳が地を打つ。選ぶ余地はない。
 あれは森崎ではなかったのだ。宙に舞った小さな体…。重いクラクションの 絶叫が音楽のように耳に響いて――次に目覚めるとそこは病院だった。
「若島津さん、…良かった!」
 自分のほうが死にそうな目をして覗き込んでいたのはタケシだ。俺は道路に 飛び出して、トラックにはねられたのだ。
 夢は続いている。長い、長い夢だ。
「日向さん!!」
 俺は俺を選び取ったはずだ。なのになんであんたがここにいる。
 見たくない夢。見たくない未来。――そうだ、あれは一体誰だったのか。白 い、一面に白い野の中で一人立っていたのは…。
「…日向さん!」
 あんたの力は借りない。あんたはここには要らない。弾道にはじかれる前 に、俺はきっと届いてみせる。何度でも手を伸ばして…。
 夢は終わらない。若島津は握りしめていた両手をゆっくり広げる。
「ここは…どこだ!?」
「若島津!!」
 振り返ったその前に、森崎が大きく目を見開いて立っていた。
 白い、白い野の中に。








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