「おい、こっちからもう一つ足跡があるぞ…?」
「まだ新しいじゃないか。雪がやんでからのものだ」
頭を寄せて口々にしゃべっている男たちがいた。
「じいさん、あんたの作業所に向かってるぜ!」
「あの馬鹿娘が! だからわしゃ町に出て働くなんて反対だったんじゃ。たわ
けた男にだまされて逃げ帰って来るくらいならな」
背を丸めて列の後に続く老人は声をかけられても気づかない様子で、一人ぶ
つぶつとつぶやき続けている。口ぶりは乱暴だったが、ぎゅっと組んだ指が細
かく震えていた。
その前を、毛糸のキャップをかぶった若い男がやはり深刻な顔つきでうつむ
きながら歩いている。
「まさか、変なことを考えてないだろうな、まさか。無事でいてくれ、無事で
…」
「大丈夫だよ、な、ヨーハン。おまえの妹がこっちに来るのを見たっていう人
がいるんだから」
男たちの声は突然とぎれた。列の先頭にいた男が、小屋の窓のところで振り
返って大きく両手を振り回している。皆ぎくりとしてそちらを注視した。
「…おい、血、血だ!!」
「何だって!?」
恐れていた言葉に、男たちは顔色を変えて駆け寄る。
「部屋の中が、めちゃくちゃで、ほら、血も飛び散って…!」
「エバ! エバ、いるのか!」
兄が真っ先に飛び込んで行った。が、ドアを開けたそこに、いきなり障害物
が立ちはだかっていて衝突しかける。
「な、何だ、おまえは!」
そこに突っ立っていた男に兄は逆上しかけるが、その顔を見た途端に腰を抜
かした。
「……あ、ま、まさか!!」
相手の両肩をつかんだその体勢のまま金縛りになる。が、他の男たちはその
横をどどっとすり抜けて小屋に駆け込み、作業台の脇にぐったりともたれてい
る女に突進した。
「エバ、大丈夫か、おい!」
「――あ? ああ、おじいちゃん?」
目を開いた孫娘がそうつぶやくと、老人はほっとしたのか床に膝をついた。
その床に散乱している酒瓶を改めて見回し、状況を悟ったらしい。
「この馬鹿もんが、心配かけおって…!」
老人は顔をくしゃくしゃにして怒鳴りつけた。他の村人たちも一斉にホッと
顔を見合わせる。
「ん、これは? 誰が手当てを…」
老人が、エバの手のハンカチに目を止めた。
「あの、人が…」
エバが手を伸ばした先を男たちはゆっくり振り返った。戸口で兄のヨーハン
と向き合っているのは…。
「カールハインツ・シュナイダー!!」
目の前で大きな声を出されてやっと、そのぼーっとした顔に僅かな変化が出
たようだった。感情もさることながら、酔いもまったく顔に出ないとは困った
ものである。勧められるままに強い酒をこれでもかと飲んでしまったシュナイ
ダーは、立ったまま完全に泥酔していたのだ。
「ど、どうしてあんたがこんな所に…!?」
「ヨーハン、ほら、あれだよ! あの新聞の記事!」
村人の一人が声を上げる。
「どっかの村で子供を助けたって…。あれはやっぱり本物だったんだ!」
「お、俺…」
酔っていないヨーハンのほうが真っ赤な顔になっていた。
「あんたのファンでさ、ずっとあの事件のこと心配してて…。それが、いきな
り妹を助けてくれるなんて――こんな、し、信じられないよ!!」
十歳ほども年下の、しかし彼よりも頭ひとつ背の高いシュナイダーをがばっ
と抱きしめる。それを合図にしたように、他の男たちも駆け寄って歓声を上げ
た。盛り上がっていないのはその中心にいる本人だけである。
「さあ、とにかくエバを家に連れて帰ろう」
ヤケ酒の飲み過ぎで怪我までしてしまった孫だ。早くこの寒い小屋から暖か
い自宅に運んだほうがよさそうだった。家族にも無事を知らせてやらねば。
「よし、早く帰って乾杯じゃ。さあ、あんたも一緒に」
エバは兄がおぶって、老人は小屋の中の酒を拾い集めた。その何本かをシュ
ナイダーの腕に押し込んで嬉しそうに笑う。
「……」
「何だ、どうしたね?」
それでも反応のないシュナイダーを、老人は不思議そうに見上げた。
「…眠い」
頭の中は夢見心地で思考は雲の彼方、周囲の声もほとんど聞こえていない状
態のシュナイダーは、そう答えるのがやっとのようだった。
「そうかい、ならうちに来てゆっくり休んでおくれ。エバの命の恩人じゃから
な」
酔っ払っているとは思っていない老人は、そう言って愉快そうに笑った。シ
ュナイダーの背を横から後押ししながら小屋を出ようとする。
「カールハインツ・シュナイダー、だね」
老人の前に立ちはだかるように、突然戸口に黒い人影が立った。老人はびっ
くりして口を開ける。
「な、なんじゃ、あんたらは…?」
「失礼」
このへんの村では見かけない都会風のなりをした男たちが、老人を押しのけ
てシュナイダーの腕をとった。そのまま何も言わず立ち去ろうとする。
「こら、待たんか!」
後ろから飛びついた老人をうるさそうに払いのけ、男たちは雪の中に出て行
く。シュナイダーは外の空気の冷たさにちょっと眉を動かしたものの、何が起
こっているのかまではわからない様子で、両側から抱えられている。
「じいさん、どうしたんだ!」
先を急ごうとしていた村の男たちがその騒ぎに気づいて駆け戻って来た。老
人はシュナイダーが連れ去られた方向をにらみ、帽子を握って振り回してい
た。
「馬鹿者! それはわしらの客人じゃ。勝手に連れて行ってはいかん!」
しかし彼らが見たのは、農場の門の前を走り去る黒い乗用車の後ろ姿だけで
あった。
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