5章 3












「え、な、なんだ!?」
 ワンフレーズ終わり、リードギターのリヒャの合図でブレイクからソロに入 る。が、勢至はスティックを握ったまま思わず腰を浮かしかけた。
「ま、待てよっ、こら!!」
 突然ぞろぞろとステージから下りはじめたメンバーに驚いて引き止めようと したその途端、前からピンスポットを浴びてどしんと座り直す。
「どどど、どうなってんだぁ…!」
 これだけうろたえながらも演奏だけは止めることなくしっかり続けられるの だからさすがはプロだった。と言うより、それだけ性格が穏当にできているの だろう。
 ステージ上の照明(ボーダーライト)が落ちてスポットだけになると聴衆は 一斉に喚声を上げる。数秒のブレイクだけのはずが、完全なドラムソロになっ てしまっていた。
「…剛っ! リヒャルト!!」
 助けを求めて呼べど叫べど、袖の暗がりに消えて行った連中の返事はない。 その必死な叫びがいわゆる「シャウト」ととられたのか、客席全体がうおーっ とそれに呼応する。やってられんとはこのことである。
 なにしろ勢至はあくまでジャズドラマーなのだ。まあジャンル分けもあまり 意味のあるものではないし、ジャズもロックも演奏テクニックに大きな隔たり はないのだが、さすがにヘビーメタルとなると話は別だ。
「剛っ! 俺はおまえみたいに器用な真似はできないんだからなっ!!」
「いいねえ、彼。一曲目あたりはまだ戸惑ってたみたいだけど、ほらもう俺た ちのスタイルに合わせてるじゃないか」
「そりゃ、俺の長年の相棒だからね」
 袖では無責任な会話が交わされている。
「それにあいつ、頭に来るとノルんだよ」
「剛さん!」
 そこへ若林が駆け込んで来た。袖から合図を送ったのは彼なのだ。
「やあ、どうかしたのか?」
 剛もぱっと真顔になる。若林がこういうことをするからにはそれだけの理由 があるはずだった。
「すぐこのライブを中止するんです。会場に物騒なものを持ち込んでるやつが いると、今ヘフナーが…」
「それは無理だな」
 ギターを下ろしながらリヒャが口をはさんだ。ウーベと、ギュンターのバン ドのメンバーであるベーシストも、缶ビールで喉を潤しながらうなづく。
「客を見てみろよ。この状態で中止を告げたらどうなると思う。起こるかどう かわからん危険のためにもっと大きい危険を冒すってのか?」
「しかし…」
 承服しかねる顔の若林であった。が、その隣にいた剛はちゃんと話を聞いて いたのかどうか…。
「そうかぁ、ヘフナーくんが来てるのか。懐かしいなあ…」
「剛さん、おそらく昨夜の連中です。やつら、あの時あんたの顔を見たはずな んだ!」
 標的にされるとわかっていてそれでもステージに立つ気か、と真剣な表情が 問う。が、剛はそれににっこり笑ってみせただけだった。
「そ、そして君のもね、若林くん」
 その場で軽くジャンプして靴先をとん、と打ちつける。スタンバイ、なの だ。3人のドイツ人たちも再びギターをかけると、めいめいにステージへと歩 き出した。
「忠告わざわざありがとう。気をつけるよ」
 一度背を向けてから剛はくるりと振り返った。指を2本、揃えて立てて笑顔 を見せる。
 若林はそれを見送って苦笑した。それから中幕の陰の椅子にゆっくり歩み寄 る。
「やっぱりおまえの兄貴だよ、ほんと」
 椅子にもたれたまま目を閉じている若島津をじっと見てから若林は腕時計に 目を落とした。意識を「向こう側」へ送ってからそろそろ15分。まっすぐ相 手の意識と同化した森崎の場合と違って、若島津は地図も磁石も持たずに真っ 暗な森に入って行ったことになる。まして長くかかればかかるほど今度は戻る ことが難しくなる。危険は大きかった。
 自分が行ってやっていれば…、という思いがちらっと頭をかすめた。が、森 崎と共鳴を起こしているのは自分ではない。若島津なのだ。
「ふん、こんな時にベンチウォーマーとはな」
 日本を離れて既に6年。自分はその間、森崎から目を離さざるを得なかっ た。そして代わりに側にいたのは南葛のチームメイトたち、そして戦い続けた ライバルたち。
 もちろんこの6年を悔いるわけではない。森崎は若林と離れていたことがお そらく良かったのだ。彼の指示をひたすら頼りにしながらゴール前でかちこち になっていた森崎はもういない。森崎はもはや誰の代役でもなく、南葛の正ゴ ールキーパーとして、日本代表の1人としてフィールドに立っているのだ。
 娘を嫁がせた父親の心境にも似て、ついしんみりしかけた若林の耳に、その 時、小さな音が届いた。
 カチリ、と撃鉄を起こして、銃が彼の頭に突き付けられている。それを目の 端で確認してからゆっくりと向き直る。
「ワカバヤシ、だね」
 帽子を目深にかぶった男がそこに立っていた。
「我々と来ていただこう」
 銃を持った男の後ろからさらに3人が静かに姿を見せた。めいめいスタッフ 用のジャケットを肩に羽織っているのは、場所を考えたカムフラージュか。
「君をお待ちかねの方がいらしてね」
 男たちが両側から腕をつかもうとしたその瞬間、若林はくるりと身を翻す と、正面の男に肩から突っ込んだ。その腕を膝で蹴り上げ、勢いですぐ横の男 を二人同時になぎ倒す。宙に弾け飛んだ銃がくるくると回って黒い中幕にぱさ り、と突き当たった。それに飛びつこうとして、若林ははっと動きを止める。
「君の友人にも、ぜひ一緒に来てもらうことにしよう」
 中幕の陰で、男の1人が椅子の上の若島津をしっかりと押さえつけていた。 若林に倒された最初の男が蹴られた腕をさすりながら立ち上がる。
「君が現役のプレーヤーだということをうっかり忘れていたよ。できればもう 少しおとなしくしていて欲しいもんだ」
 男は帽子を拾い上げて、にやりと笑いかけた。
「その方が君のためにもいいと、私は思うがね」











 背の高さが幸いした。ステージ下に押し寄せた聴衆の、波打つように踊り跳 ねる中を、抜き手を切ってじりじり進む。
――彼も気の毒にな。
 ルディもやり過ぎなのだ。三原色のスポットがドラムセットを中心に乱舞し まくっている。その中でたった一人、ドラマーがどしゃばたと孤軍奮闘してい た。
――ジャズ出身のわりに健闘してるが、あまり長びかすとバテるぞ。
 若者たちの振り上げる手が左右からぶつかってくるのに顔をしかめながら、 ヘフナーは袖の方をしきりに窺っていた。もちろんこの演出は若林の差し金に 違いない。剛たちに事態を伝えるために。
 その途端、大歓声がホールに轟いた。照明の落ちた中、4つの影が跳ねるよ うにしながらステージに戻って来たのだ。リードギターのリヒャルトがソロを 続けるドラムの方へ首を向けながらカウントを取り、勢至のタムスケールがト ップシンバルで弾けたと同時にユニゾンで爆発する。
 ギター・リフの後に剛の高いボーカルがかぶさると、場内の興奮はさらに高 まった。まったく無名の――今日限定の特別ユニットなのだから当然だが―― オープニングアクトがこれほどの熱狂を受けるとは、フェスの関係者にも予想 外のことだっただろう。だが、本当に予想外の事態はこの後に控えていた。
「…あれか」
 ヘフナーは鼻をくん、と動かして斜め後方を振り仰いだ。ステージ下から見 ると右手ほぼ真上にコントロール・ルームがある。客席からは普通死角になっ て見えないように作られているのだが、今回は本来オーケストラピットのスペ ースにまで客を入れているため、この位置からもガラス張りのブースの中が見 えるのだ。音響をはじめステージ進行すべてを管理するそこには数人のスタッ フが詰めているはずだが、その中の様子がどうも普通でないのをヘフナーの目 は確認した。
『ワカバヤシ!』
 返事がない。ヘフナーは視線をステージと頭上のブースの間で忙しく動かし ながら何度も呼び続けたが、結果は同じだった。
「くそっ!」
 強引に前へ進む。押しのけられて怒鳴り返しかけた者も、ヘフナーの迫力あ る無表情さに素直に道を空ける。
「ゴー!!」
 ステージまであと2メートルあたりまで近づいて、ヘフナーは精一杯の大声 を出した。
「上だ、上から狙ってる!!」
 が、剛はちょうど奥に下がり気味のポジションを取っていてそれに気がつか ない。ヘフナーは腕に抱えていたコートをぐるっと丸めると、力いっぱい放り 投げた。
 トレンチコートが宙で大きく広がってステージ中央にぱさりと落ちる。
観客はもちろん、演奏中のメンバーたちはぎくっと視線をくぎづけにした。つ い先ほど、物騒な情報を耳にしたばかりだから余計である。
「ヘフナーくん!」
 すぐその顔を認めたのか、飛んで来た警備員を上から嬉しそうにさえぎっ て、剛が両腕を広げた。
「さ、こっちへ! 早く!」
 今度はヘフナーの方が面食らう番だった。演奏は続いている。すぐ近くの客 たちこそ驚いたようだったが、遠目にはノリ過ぎたファンの行為としか映らな かったらしい。剛が手を伸ばしてその大柄な男をステージに引っぱり挙げる と、逆にどっと歓声が沸き起こった。
「ゴー! そうじゃなくて!!」
「はい、マイク」
 呆然としているベーシストの前からマイクスタンドを取り上げて、ヘフナー に突きつける。
「一緒に歌おう♥」
 ハートマークを飛ばしている場合でないことは知っているはずなのだが。ヘ フナーは思わず目まいを覚える。
「ゴー、ヤツはコントロール・ルームだ。占拠しているらしい」
「そりゃすごい」
 わかってるのか、この男。
「ブルースコードで行くからね。自由に乗せていいよ。俺が合わせるから」
 やっぱり聞いていない。隣ではリヒャルトが同じフレーズを延々繰り返しな がら場つなぎをしていたが、ギターを弾きながら複雑な顔でこちらをチラチラ 盗み見ている。おそらく、これとそっくり同じ顔をした大物ギタリストとの関 連性に悩んでいるのだろう。
「で、何を歌う?」
――来る。
 もたれかかるように剛が肩を引き寄せてくる。が、ヘフナーの頭の中ではま ったく別次元のバイブレーションが増幅し始めていた。
――来る! 近い!
『ワカバヤシ…!!』
 それは強烈な危険の匂いだった。まっすぐこちらに照準を合わせている。
――来る…来る!
『どこだ、返事しろ!』
 やはり何の反応もない。と、ヘフナーはステージ下のアリーナで妙にざわめ き出したことに気づく。
「おい、ギュンターじゃないのか、あれ」
「そうだ、ギュンターだよ…!」
「ギュンター・ヘフナーだ!」
 ヘフナーの拳がふるふると小刻みに震え始める。それを言ったらおしまい だ、などと客たちは知る由もない。
「よぉし!」
 ヘフナーはマイクをスタンドごとぐいっと引き寄せた。完全に目が据わって いる。
「…歌ってやろうじゃねえか!!」
「そう来なくっちゃ!」
 剛の笑顔がぱあっと弾けた。すぐリヒャに合図を送り、ジャンプ一番叫ぶ。
「行くぜーっ!」
 おーっ、と地響きのように返って来た声にギターがかぶさった。
――野郎、来るなら来やがれ!!
 案外火がつきやすいグスタフ・ヘフナーくんであった。









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