2章 5







「森崎っ!!」
 若林は飛びつくように森崎に駆け寄った。
「嘘だ、何でこんな…」
「すまん……」
 ヘフナーは絶句する。
「俺じゃ助けてやれなかったんだ」
「さっきのあいつは…?」
 若林が振り返った。若島津もゆっくりと周囲を見渡す。
「消えたようだな」
「一瞬だったんだ。モリサキがアレに呼びかけようとしたら、突然でかくなっ て…」
「でかく?」
 ヘフナーはつい先程の光景を思い出して眉を寄せた。
「ああ、そうだ。その時にモリサキが妙なことを言った。…何かそいつと会話 でもしているみたいに」
「…俺も聞いた」
「えっ?」
 若林とヘフナーが同時に声を上げた。若島津は側に立ったままじっと見下ろ している。
「森崎ともう一人誰かの声が、混線してるように重なって聞こえたんだが…」
「あの時か…」
 若林もさっきのメデューサもどきの光景を思い返す。
「おまえもずいぶん森崎と同調するようになったもんだな」
「腐れ縁ってやつだろう」
 この3年の間に夏冬あわせて5回、彼らは全国大会での対戦をしている。そ してそのいずれも東邦が勝利したのだが…。
「試合中にあんなに気苦労させられるなんて、思いもしなかったぜ」
 味方とならともかく、相手チームのGKの心理が逐一届いてくるのだからこ れはうるさいなどという範囲を超えている。ほとんど同病相哀れむの世界なの だ。もともとテレパシー能力を持たないはずの彼らがこういう仲に(?)なっ てしまったのは何といっても『増幅器』の存在ゆえだった。
「自業自得だろうが」
 若島津の日向への思い、森崎の日向への思い、そしてそれを結ぶ…乱入する と言うべきか…森崎への日向のこだわりが予想外のエネルギーを生んだのであ る。もっとも日向のこの手のこだわりというのはまず試合中に限られるのが救 いであったが。
「元締めが何を言う」
 若林の売り言葉をきっぱりと買う若島津であった。
 普段は遠く離れているが、代表チームを招集するたびに再燃するこの二人の 反目は、今やライバル関係を超越して完全にエンタテイメントと化していた。 無論、周囲にとっての、であるが。
 火花を散らすと言っても、元来実力第一の世界である。どちらが代表のゴー ルに立とうと、それはその時々の状況に過ぎない。つまり彼らの対立はあまり にパタン化しているのだ。かと言って水面下で陰々鬱々とするタイプでもな く、結果、彼らは一種のファンサービスに徹することとなる。
「おまえらなっ…!」
 ついにヘフナーが声を張り上げた。
「同調はわかったから、モリサキを早く元に戻すか何かしろと言うんだ!」
「ああ、そうか…」
 若林は気を取り直すと、森崎の耳元で大声を出した。
「森崎! 森崎! 返事をしろ!」
 ヘフナーの腕の中で、森崎はぴくりとも動かない。ヘフナーは眉をひそめて 若林を見た。
「死んだ…わけじゃないよな」
「だといいが」
「おいっ!」
「あまりオカルトに走りたくはないがな」
 若林は真顔だった。
「森崎の魂はここにはない」
「うっ」
「波長が合っちまったんだな、そう、あまりにピタリと」
「で、吸い込まれたのか、あの『悪意』に」
 若林は厳しい顔でうなづいた。
「戻るならいい。早ければ早いほど。でも、もし戻らなければ…」
「戻らなければ…?」
 3人は顔を見合わせた。
「どこから、どうやって戻るんだ…」
 答える者はない。
 と、その時若島津がはっと背後に視線を向けた。
「急いだほうがよさそうだぞ」
 若林もそちらを見やって舌打ちした。駅舎側からばらばらと走って来る影が 目に入ったのだ。ヘフナーは黙って森崎を肩にかつぎ上げる。
「故障はまだ直ってないのか?」
「アレが消えたんだから、もう大丈夫だとは思うが」
 俺と同じようにな、とヘフナーは付け加えた。
 それに応えるかのように急行列車が鋭く汽笛を響かせた。
「突っ切れ!」
 彼らの列車は1本隣のホームだった。雪に隠れかけた線路の上に飛び降りて 横断するしかない。男たちはその間に分散してキーパーたちを挟み討ちにかか った。
「くそ、しつこいぞっ!」
 若林はちらりとヘフナーに目をやった。もちろん平気な顔をしているが、森 崎をかついでいる分だけ一人遅れている。
 先に動きを見せたのは若島津だった。くるりと方向を変えて、今まさにヘフ ナーの前に立ち塞がりかけた男に体当たりを食らわせる。柱の陰からヘフナー に飛び掛ろうとしたもう一人は、背後から若林に蹴り飛ばされた。ヘフナーは 駆けながらひょいと頭を下げてそれを避ける。
「よほど俺たちをこの先に行かせたくないようだな」
「邪魔されると余計行きたくなるんだよなぁ」
 さすがにあの代表チームのGKだった。ボールの扱いはともかくとして、攻 め込んでくるトラブルに対するあしらいにも手慣れたものだ。誰に感謝すれば よいのだろう…?
「…早く、ヘフナー!」
 場の把握・状況の先読みにかけてはヘフナーもGKとしてもちろん負けては いない。ゆっくりと動き始めた列車を見るや、ホームにいくつも放置されたま まの荷物用カートの一つに森崎の身体を放り出した。さらに残りの空カートに 突進し、追いすがろうとしていた男たちに向かって思い切り蹴り飛ばす。その カート雪崩れに逆に追われる男たちにはもう目もくれず、ヘフナーは森崎を乗 せた自分のカートに飛び乗った。
 夜も更けた時刻に何やら突然騒ぎが起こったのに気づいて、駅舎から駅員が 飛び出してきた。ホームの惨状に思いっきり目を見張る。
「待て待て待てーっ!」
 カートをスケートボード代わりにした分だけヘフナーが勝ちを拾った。カー トからすばやく森崎を抱え上げ、最後尾の車両のステップにかろうじて飛びつ く。しぶとく追いすがろうとしていた追っ手の手は一歩の差で空をつかんだ。
 ウルム駅で思わぬ足止めを食った列車は、遅れを少しでも取り戻すべく見る 見るスピードを上げて夜の闇に消えて行った。後のことは知りません、とでも 言いたげに。
「…行っちまったぞ」
「そうだな」
 足の下に一人ほど踏みつけていることに気づいているのかいないのか、無感 動に若島津が同意した。
「ま、森崎のお守りはヘフナーに任せればいい。俺たちは俺たちの用事を片付 けるとしよう」
 まだ逃亡中なのを忘れているらしい。若林は行くぞ、とも言わずに駆け出し た。若島津もそれくらいは読んでいたのか、ほぼ同時に走り出す。追っ手に国 鉄職員さんまで加わりかけてはなおさらであった。
 駅舎とは反対側に、線路をどんどん横切って行く。雪混じりの風が横から頬 を打つが構ってはいられない。
「6人いたということは…」
 追っ手一行は当然車でここまで来たはずである。少なくとも2台に分乗し て。
「あれだ!」
 木柵の向こう側に2台の車が停められていた。エンジンはかけたままであ る。…凍結を防ぐためだろう。だが半時間ほどの間にすっかり雪に埋もれてい た。若林はウインドウの雪を手で払い、ドライバーズシートをじっと覗き込 む。やがて軽い音を立ててドアロックがぽんと上がった。
「開いたぞ」
「おまえ、いっそ転職したらどうだ?」
 若島津の無表情な皮肉ににやりと笑い返すと、若林はドアをちょっと蹴飛ば しておいてから…こちらも凍結しているのだ…、勝手に開けた。
「どうだ?」
 しかしこれはどう言いつくろっても車上狙いの行為以外の何物でもない。二 人はごそごそとボックスや座席の周囲を調べ回った。
「俺にドイツ語を読めってのか?」
「見当で構わん」
 若林は束になった書類を引っ張り出して、難しい顔で目を走らせる。彼が言 っているのは、車内に何かしらの身元証明になる手掛かりがあるはずだ、とい うことらしい。
「あいつら、妙なところで素人臭いだろう。その道のプロならこういうヘマは しないだろうしな」
 そのヘマに追い込んだ自分たちについては触れずに、若林はあっさりとそう 決めつける。
「素人が銃を持って追い回す国なのか、ここは」
 若島津は眉を寄せながら、見つけたマップ類を掻き回していた。
「自由主義の国だからな」
 若林の手が止まる。呑気に答えながらシート裏のポケットから黒い手帳を見 つけて引っ張り出した。
「ふーん…」
 手早くページをめくりながら若林はつぶやく。
「やはりヘルナンデスの言ってた線か」
「つまり、シュトゥットガルト本社からってことか?」
「らしいぜ」
 若林は言いかけて顔を上げる。
「おっと、戻って来たらしい」
 二人はさっと車内から身を引いた。左右のドアからそれぞれ降り立ってルー フ越しに目を見合わせる。
「…俺は遠慮しておく」
「俺だって無免許だ!」
 考えていることは同じである。なるほどどちらも先月18才になったばかり であった。
「おまえは地元民だろうが」
 若島津のこの一言で若林は黙ることになった。背後から近寄ってくる人影を 確認してさっさと運転席に滑り込む。そしてシートに深く座を占めると、目の 前のメーターやレバー類にやや不安げな視線を移動させた。
「まあ、ヘフナーよりはマシだろうさ」
 3年前のヘフナーの東京でのタクシー無免許運転を思い出せば、これは皮肉 だか本音だかはっきりしないが、ともあれ若島津も助手席に乗り込んだ。
 が、ドアを閉めようとしてふと気づいたように足元から雪をすばやく掌にす くい取る。
「何だ?」
「いや」
 雪玉をぽんと手で投げ上げて若島津は生返事をする。
「出すぞ」
「ああ」
 開いたままのドアに左手をかけ、若島津は雪闇の中をにらんでいた。異変に 気づいて足を早めた男たちは、あたふたともう一台に乗り込んでいる。若林は すばやくハンドルを切ってその後ろをすり抜けた。
「よっ、と」
 行き過ぎざま、若島津は狙いすまして雪玉を投げる。そしてすぐさまドアを 閉めた。
「うー、凍える」
「何をやったんだ」
 若島津はコートのえりをぐいっと合わせながら若林に横目をくれた。
「俺のスローイング・コントロールを信じるんだな」
「なに…?」
 親切に解説してやる気は毛頭ないらしい。若島津は無表情に応じながら1枚 の紙を若林の鼻先に突き出した。
「見ろ、おまえの名前がある」
「俺の?」
 さっきの捜索…車上荒らしとも言うが…で見つけ出した書類だった。
「手配書ってわけか」
 前方にできる限りの注意を払いながら若林はちらりと目をやった。
「ターゲットにされてたのはシュナイダーだけじゃなかったようだな」
 車は駅の敷地から出て一般道路に乗る。これ以上脇見運転をしているわけに はいかない。すぐ背後には追跡車が迫っている。若林はさっと書類を奪って片 手でぞんざいにポケットに突っ込んだ。
「あれ?」
 なんとか車の流れに入ることができてとりあえず肩の力を抜いた若林は、ミ ラーを見て声を上げた。
「何やってんだ、連中」
 追跡車が妙な動きをしていた。ハンドルをとられたかのようにフラフラとし たかと思うと急にスピードが落ち、後続車にクラクションを鳴らされている。
「おい、止まっちまったぞ」
「だから俺のコントロールは万全だと言ったろう」
 腕を組んだまま泰然と前を見ている若島津を若林はじろりと見返した。
「じゃ、さっきの雪玉…」
「排気管にしっかり詰めておいたからな」
 気の毒に、排気の逆流でエンジンが駄目になってしまったのだ。この寒さの 中ではいかに優秀なドイツ車でもどうしようもない。
「わかった。おまえの正確無比なコントロールに感謝するよ」
 残り百キロ弱の道中。追っ手がなくてもスリリングな深夜ドライブになるこ とだけは間違いなさそうだった。






【第二章 おわり】








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