2章 4














 ヨアンナは机から顔を上げて壁の時計を見た。専務が会長室に入って、既に 40分が経っている。いったい会長と何をしているのか…。次第に苛立ちがつ のる。
 副社長はさっきまたウルムからの緊急連絡を受けて、その対応に慌ただしく 出て行った。
「後手、後手にまわりすぎだわ」
 口の中でつぶやく。
 会長秘書にまでなれたのはやはり現副社長が顔をきかせたために他ならない が、その当人が果してさらにトップを目指せるのか、それともここで一騎討ち に敗れて失脚するのか…。その確率は正直に見て五分五分よりわずかにリード している程度だろう。彼らの切り札は、一つ間違えば逆に最大の致命傷になり かねない。
 ヨアンナはふと弱気になっている自分に気がついた。野望は男を大きくする というが、そのチャンスを確実にものにできるかはひとえにその器量にかかっ ている。彼女が自分の将来を賭けた男は果してそれだけの器量を持っているの か。自分ももう若くない。万一専務派がトップにつくようなことになれば、も う乗り換えるなどというのは不可能だろう。
「そうだわ」
 ヨアンナは思いついて席を立った。ドアの前で遠慮がちに声をかける。
「会長、お薬の時間が過ぎてますが…」
「どうぞ」
と、返事があったがそれは専務の声であった。ヨアンナは少しつんとしてみせ ながら部屋に入った。
 そう広くはない会長室の中央、会長の…今は使う機会もほとんどない…デス クの正面で、2つの人影が卓をはさんで向かい合っていた。大きな安楽椅子に 会長、その向かいで専務が手を宙に浮かせてじっとチェス盤を睨んでいる。銀 色の髪をした会長は確かにもともと老けて見える人物だったが、このところの 生気のない表情がそれをさらに際立たせていた。
(なんだ、チェスの相手に呼ばれただけじゃないの…)
 心の中でそうつぶやきながら、ヨアンナはちらりと盤面に視線を投げた。彼 女はチェスの知識はないが、盤がかなり進んでいることだけはすぐわかった。 専務は白のクイーンを握りしめてしきりに頭を抱えているのだ。さて、本当に やり込められているのか、それともわざと勝たせようとしているのかまではわ からないが。
「では…」
 ほとんど根負けという感じで専務はクイーンを置いた。それと同時に会長が ゆっくりと顔を上げる。
「チェックメイト、だな」
「はぁ〜、駄目だ、また負けてしまった」
 専務は大袈裟に両手を振り上げるとヨアンナに向かってちらりと苦笑してみ せた。ヨアンナはさっと目を逸らすと、サイドボードに近寄る。医師が処方し た薬が何種類か、小さなトレイの上に並べられているのだ。
「では私は一度失礼しますよ」
 背中で専務の立つ音が聞こえた。
「一時間ほど後にお迎えに上がりますから」
 スプーンがカチャンと鈍い音を立てた。ヨアンナが振り向くと専務の視線に ぶつかる。
「会長はスイスの別荘で休暇を過ごされるんだよ。ちょうど向こうに出張する んで、私がお送りすることにしたんだ」
「そんなこと…」
 聞いていない、と言いかけて口をつぐむ。これはどういうことなのか。
「医師も勧めてたんだろう、静かな所で療養するようにと」
「それはそうですけど、いくら静かでもこんな冬のさなかに山で過ごすなん て」
「雪が深いといっても会長はお屋敷から出ることもないのだし、何にも煩わさ れずにゆっくり過ごすには最高の条件だと思うがね」
 むきになるヨアンナに、専務は余裕の笑みで応じた。
「それにこれは会長ご自身が望まれたことなんだよ」
 ヨアンナはびっくりして会長を見た。老会長はぼんやりした様子で局の終わ ったチェス盤を眺めていたが、その視線にゆっくりと顔を上げた。
「私の留守は頼むよ、ヨアンナ君」
「会長…?」
 専務は何を目論んでいるのか、こんな時に。そう、こんな時に! 自分たち があと少しで切り札を押さえられるという今…。そしてその最後の決め手とな るK・H・シュナイダーを追って奔走しているこの時に…。
「では失礼」
 簡単に会釈して、専務は会長室を出て行った。まだ呆然としながらその後を 見送っていたヨアンナは薬のことをようやく思い出す。
「あの…」
 声をかけても振り向かない会長を怪訝に思って、ヨアンナは側に歩み寄っ た。
「ご気分が悪いんですか?」
 会長はさっき白のキングを追いつめた最後の手をぼーっと見つめていた。そ の手には黒のビショップが握られている。
「いや、何でもないよ」
 たっぷり十数秒たってから、会長はそうつぶやいたのだった。













 シュナイダーはベッドに腰をかけてブーツを履こうとしていた。外はまた雪 である。日に一度村に来る郵便屋に同行できるとの話で、シュナイダーは出発 の用意をしているのだった。
「あの、学生さん…」
 ノックと同時にドアが開いた。助けられた少年の叔母だった。
「郵便馬車が来ましたよ」
 シュナイダーはうなづいて立ち上がった。赤いザックを手に取る。
「もっといていただけたら良かったんですけど」
 女は手を伸ばしてシュナイダーの髪に触った。
「ほら、おまじないですよ。あさってからファスナハトの祭なんです、この村 は」
 春を待ちわびる古い謝肉祭の行事が、この地方では独自の文化の中で今も残 っていた。それはキリスト教布教とともに表面的に姿を変えていった土着の宗 教の名残りでもあった。
 シュナイダーはちょっとびっくりして自分の頭に手をやる。女が乗せたのは 小さなひいらぎの葉であった。冬にも緑を失わないひいらぎは不死の象徴であ り、幸運の印だとされている。
「マチアスはまだ目が覚めてませんけれど、あの子の代わりに心から感謝しま すわ」
 昨夜一度気がついた少年は、華族の顔を認めてほっとしたのか、また深い眠 りに落ちてそのまま静かに眠っているらしい。
「…いえ」
 シュナイダーは軽く会釈するとドアをくぐって家の外に出た。そこに待って いたのは馬車ならぬ馬ソリであった。荷台の黄色い角笛のマークだけがなるほ どブンデスポストであることを物語っているが。
 シュナイダーは少年の両親に握手を求められて、また困った顔になった。
「ホーーッ!」
 威勢の良い掛け声とともにソリは動き出した。昨日ほどではないが、やはり 雪が飽くことなく降り続いている。シュナイダーは膝掛け代わりの毛布を胸元 まで引き上げてまぶしそうに雪景色を見やった。
「母ちゃん…」
「マチアス、よかったわね」
 その頃、家の中では少年が目覚めていた。
「どこか痛い所はあるかい?」
 父の問いかけにも少年はぼんやりした目を向ける。
「…どこ行ったの?」
「え、何だって?」
「あの人は、どこなの…?」
 少年はいらだって半身を起こそうとする。
「僕を助けてくれた、あの人だよ! カールハインツ・シュナイダー!」
「えっ…? あの学生さん?」
「僕、見間違えるもんか! あれはほんとに、シュナイダーだったんだ。バイ エルンのストライカーだよ!!」
 両親は顔を見合わせた。息子にもう一度目をやり、そして二人同時に窓の外 を振り返った。もちろん、ただ雪が降りしきっているだけの風景だった。








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