5章 5









「旦那様、何か飲み物でもご用意いたしましょうか」
「あ、ああ」
 老会長は指し終えた駒から手を離して振り返った。気がつかないうちに、管 理人がドアを後ろに立っていた。
「私は酒はやらんのだ。後でコーヒーをもらおうか。夕食の時のコーヒーは旨 かった」
「かしこまりました。女房が喜びます」
 どうやら管理人はもっぱら酒のほうらしかった。
「でもあまり夜更かしなさらんほうがお体にはよろしいですよ」
 管理人は暖炉の前にかがんで薪を足しながら言った。
「いつもそんなにチェスに根をつめられるんで?」
「いや、私がでなくて、カパブランカが意地を張るのでな」
 会長は傍らに広げられた本の棋譜にちらりと目をやった。立ち上がった管理 人はにっこりとうなづく。
「彼ならさぞかしそうでしょうなあ。35年のボトブニク戦あたりですか」
「いや、スルタン・ハンだ」
 会長は初めて相手をまっすぐ見た。ボトブニクはスルタン・ハンと共に、稀 代のチャンピオン、カパブランカと同時代の伝説の名人たちである。
「あんたもチェスを?」
「ヴォルフ様にチェスをお教えしたのはこのわしでしてな」
 髪の薄い初老の管理人は嬉しそうに答えた。ヴォルフとは今日ここに会長を 連れて来たヒンツ社専務である。
「私のはただの暇つぶしだよ」
 会長はちょっと寂しそうにつぶやくと、黒のキングを見つめた。
「こうして過去の名勝負を再現して駒を並べるのは楽しいものでね。いろいろ と考え事をしながらとか」
 白のナイトを取って前線に出す。牽制手である。
「…あるいは何も考えずに」
 それを防ぐ黒のポーンを動かして、会長はもう一度管理人に目を向けた。
「さっき下のほうで何か騒いでおったようだが…」
「ああ、ご心配いりませんよ。ヴォルフ様の部下の人たちが客人を連れて来ま してね。旦那様のお邪魔はしませんから」
 窓辺のカーテンを調え終えて、管理人は軽く会釈した。
「ではまた後ほど。カパブランカをうまくなだめてやってください」
「それも一仕事だな」
 ドアが閉まると会長はゆったりと椅子にもたれかかって息をついた。
「これでもしっかりなだめているつもりなんだが…」
 外は吹雪もやんだようだった。しかし今夜も冷え込むことだろう。この室内 は暖かく快適に保たれていたが。













「…森崎!」
 動こうとしたが、見えない何かに阻まれるように前に進めない。手を伸ばせ ば届きそうな所に森崎はいるのに、である。
「森崎!!」
「…わ、かしまづ、か?」
 ぼんやりと森崎がつぶやいた。同時に彼らの足元の白い堆積物が、風に煽ら れたかのようにごおっと舞い上がる。
「俺はここだ、森崎! 早くこっちへ!」
 風が、いよいよ強くなる。若島津は片腕で目をかばうようにしながら今度こ そ前へ、一歩踏み出した。
――この世界が崩れ始めている…?
「フリッツが…、フリッツがいないんだ!」
 若島津の両腕をぎゅっとつかんで森崎が苦しそうに訴えた。
「『あいつ』に逆らったから、命令を無視したから、フリッツは消されてしま ったんじゃ…!」
「おまえ…」
 若島津は眉を寄せた。彼の危惧は間違ってはいなかったのだ。この白い闇の 世界そのものが消えようとしている。何もない、と言った森崎のその言葉に従 うなら、何もないことそれ自体を含めた、すべてが。
「急げ! このままだと俺たちも巻き込まれちまう。早く帰るんだ!」
「…え、でも」
 一瞬森崎は信じられないことを聞いたかのようにぽかんとした。
「もうここにいたやつのことは構うな。おまえ自身の心配をしろ!」
 若島津は強引に腕をぐいっと引っぱった。森崎は目を見開いたが、言うべき 言葉を失ったというようにそのままじっと若島津の顔を見つめるばかりであ る。
「さあ!」
 もう上も下もわからなくなっていた。つむじ風にもまれながら、ふらふらと 体が浮き始める。
「雪、かな。冷たくはないけど」
 確かに、その光景は吹雪に似ていたかもしれない。どこから来るのか、ある いはどこへ落ちて行くのか…。雪の幻想は彼らを一つの方向へどんどん押し流 していた。
「…森崎?」
 腕の中で森崎が動いた。若島津の腕にしがみついていたはずの手はゆっくり と離れ始める。
「おいっ!!」
「…眠い、んだ。…とても……」
 ずるっ、と森崎の体が滑り落ちた。あわてて腕を取ろうとするが、若島津自 身、この状態では体のコントロールがきかない。
「森崎っ!!」
 また視界いっぱい白いものが押し寄せて来た。まるで雪の渦だ。叩きつける ように彼の動きを封じ込める。
「ちきしょう!」
 反転して腕を伸ばそうとするが、森崎の姿はもう白い渦にさえぎられて止め ようがなかった。
「森崎――っ!!」
 若島津は自分の体がくるくると宙に弾き出されたのに気づく。
――あれは森崎ではなかったのだ。宙に舞った小さな体、クラクションの連続 音…。そして彼に向かってくる白いボールの衝撃。
「…ちきしょう!!」
 幻が彼を呼ぶ。見慣れた表情、聞き慣れた声で。
「消えろ、早く…!」
 繰り返し訪れる記憶の中で、長い夢は続いていた。













「おい、ジュニア! こ、この日本人はどうなってるんだ!? まさか…!」
「――やばい」
 リヒャルト&ザ・カンパニーはラストチューンを終わり、そのままアンコー ルになだれ込んでいく。聴衆はさっきの飛び入りも呼び戻せとずいぶんねばっ ていたが、その当人はそんな声など聞こえている様子もなく、受話器を乱暴に 掛けるとコートをつかんでステージ横から消えた。
「あいつのことを忘れてた…」
 スナイパーの位置を察知して突入していったジノがその時森崎を伴ったはず はなく、とすればあのライティング・ルームの椅子に預けたきり、ということ になる。
 急な階段を一気に駆け上がると、ドアが先に開いた。顔を出したのはジノで ある。
「なんだ、おまえ、戻ってたのか…」
「あのね…」
 ヘフナーの言葉を手を上げてさえぎり、ジノは真剣な顔でささやいた。
「モリサキが戻りかけてるんだ」
「何だと…?」
 部屋に入ると、コンソールの前のルディとそのアシスタント・スタッフが気 味悪そうな顔でヘフナーと目を合わせた。が、ヘフナーはそちらはあくまで無 視して、隅の椅子にいる森崎に近づく。
「あの時の電熱器並みの熱さは別として、あの後も確かに体温を維持してい る。それに、ほら……」
 椅子の脇に膝をついて、ジノが顔を上げた。
「浅いけど、息をしてるんだ」
「………」
 ヘフナーは黙って目を細めた。それからゆっくりと手を伸ばして森崎の胸に 当てる。
「むろん、鼓動もだよ」
 代わりにジノがうなづく。ヘフナーは無表情のまま、ジノに目を移した。
「眠ってるのか? それとも――」
「よくはわからないな。でも…」
 ジノは困ったような笑顔でヘフナーを見返した。
「夢は、見てるみたいだね」
 鼓動が、足音のように、とくとくと近づいていた。






【第五章 おわり】









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