「旦那様、何か飲み物でもご用意いたしましょうか」
「あ、ああ」
老会長は指し終えた駒から手を離して振り返った。気がつかないうちに、管
理人がドアを後ろに立っていた。
「私は酒はやらんのだ。後でコーヒーをもらおうか。夕食の時のコーヒーは旨
かった」
「かしこまりました。女房が喜びます」
どうやら管理人はもっぱら酒のほうらしかった。
「でもあまり夜更かしなさらんほうがお体にはよろしいですよ」
管理人は暖炉の前にかがんで薪を足しながら言った。
「いつもそんなにチェスに根をつめられるんで?」
「いや、私がでなくて、カパブランカが意地を張るのでな」
会長は傍らに広げられた本の棋譜にちらりと目をやった。立ち上がった管理
人はにっこりとうなづく。
「彼ならさぞかしそうでしょうなあ。35年のボトブニク戦あたりですか」
「いや、スルタン・ハンだ」
会長は初めて相手をまっすぐ見た。ボトブニクはスルタン・ハンと共に、稀
代のチャンピオン、カパブランカと同時代の伝説の名人たちである。
「あんたもチェスを?」
「ヴォルフ様にチェスをお教えしたのはこのわしでしてな」
髪の薄い初老の管理人は嬉しそうに答えた。ヴォルフとは今日ここに会長を
連れて来たヒンツ社専務である。
「私のはただの暇つぶしだよ」
会長はちょっと寂しそうにつぶやくと、黒のキングを見つめた。
「こうして過去の名勝負を再現して駒を並べるのは楽しいものでね。いろいろ
と考え事をしながらとか」
白のナイトを取って前線に出す。牽制手である。
「…あるいは何も考えずに」
それを防ぐ黒のポーンを動かして、会長はもう一度管理人に目を向けた。
「さっき下のほうで何か騒いでおったようだが…」
「ああ、ご心配いりませんよ。ヴォルフ様の部下の人たちが客人を連れて来ま
してね。旦那様のお邪魔はしませんから」
窓辺のカーテンを調え終えて、管理人は軽く会釈した。
「ではまた後ほど。カパブランカをうまくなだめてやってください」
「それも一仕事だな」
ドアが閉まると会長はゆったりと椅子にもたれかかって息をついた。
「これでもしっかりなだめているつもりなんだが…」
外は吹雪もやんだようだった。しかし今夜も冷え込むことだろう。この室内
は暖かく快適に保たれていたが。
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