6章 1




第六章 CHECK MATE










 若島津と手が離れてまた白い空間の底に沈み始めた森崎は、微かに自分を呼 ぶ声を聞いたような気がした。だが、眠気が重くまとわりついて意識はどんど ん薄れていく。
「若島津……」
 あいつ、泣きそうな顔してた。
「ごめんな」
 若島津が泣いたりするはずはないのだ。森崎はふとおかしくなる。自分がそ う思ったことが。
「俺は帰りたくないわけじゃないんだ。俺だけがここを抜け出せても、それじ ゃ何にもならない気がして…」
 目の前の白さはもはや何の意味も持たない。目を開いていようと閉じていよ うと同じなのだ。森崎の体はまたゆらり、と漂い始めた。これはフリッツの見 ている夢かもしれない。もしそうなら何という悪夢だろう。
 フリッツは言ったではないか。誰かが一緒にいてくれるだけで嬉しいのだ と。そして森崎はフリッツの悪夢を共有した。フリッツを封じ込めた悲しい記 憶を。
「ここは悲しい所だ。悲しみがどこにもない。フリッツはずっと一人で泣いて いたんだ。誰かがフリッツの悲しみを見つけてくれるまで」
 そして自分がその役割を果たせたのなら、と森崎は思った。元の現実の世界 に戻っても構わない。でも、フリッツはあれで救われたとは思えない。フリッ ツは記憶を取り戻したことで、また悪夢に飲み込まれたのではないか…。それ が森崎の不安だった。
 眠い。体が溶けていくようだ。体も、考えも、この真っ白な悪夢の中に溶け ていく。
「…モ…リサキ!」
「――誰?」
 閉じかけていた目をぼんやりと開く。声が、彼を呼んでいた。
「フリッツ、フリッツなのか!?」
「……モリサキ!」
 はっと意識が戻ると同時に、ずるずると落ち続けていた体も体勢を戻す。
「フリッツ!!」
 呼んだと同時に、白い空間の向こうに遠く少年の姿が見えたように思った。 もがくようにその方向へ体を動かそうとする。
「待ってくれ、今、行くから…!」
 伸ばした手が止まった。
「――えっ!?」
 森崎は目を見張る。何か、強い力が突然彼の体を引っぱっている。それはま ぎれもなく人間の手の感触だった。
「ま、待ってくれ、連れて行かないでくれ! あっちにフリッツが…!!」
 が、その力は容赦なかった。まるで急流にのまれたかのように一瞬のうちに すべてが、それとも空間が、すさまじい速さで遠ざかって行った。体じゅうが 音をたててきしむ。つかまれた腕のその部分だけに痛覚が集中したようにキリ キリと痛みが走った。
「モリサキ!!」
 飛び上がりそうになるほどの大声が耳元で弾けた。
「起きろ、モリサキ!」
 まぶしさが目を射た。そして何か大きな、重い圧迫感。森崎はのろのろと腕 を伸ばして、それに手を掛ける。もしゃもしゃと毛だらけの感触だ。
「……あれ、何してるんだ?」
「おまえはな…」
 そのもしゃもしゃが起き上がった。その下から目つきの悪い顔が現われる。
「人の頭を何だと思ってるんだ。モップみたいにしやがって!」
「…ヘフナー?」
 わけがわからず、ただきょとんと見つめる。床に座り込んだヘフナーの横 で、ジノがこらえきれずに笑い出した。
「か、感動の再会だね、本当に…」
 あとは笑いにむせんでなかなか声にならない。
「モリサキ、心配いらないよ。ヘフナーは決して君を押し倒してたわけじゃな いから。心臓に耳を当ててただけなんだ」
「余計なことを言うな」
 ヘフナーはじろりとジノを睨みながら立ち上がった。
「気分はどうだ。どこか痛むか」
 訊かれて森崎は自分の左腕を見下ろした。さっきつかまれたはずの所をそっ とさすってみるが、痛みは完全に消えていた。
「――夢、か?」
 見回しても周囲はまるで知らない場所だ。狭い部屋、低い天井、そして大き な機器類。
「どこも痛くない。でも…」
 声がわずかにかすれる。ちょっと口ごもった森崎を、ヘフナーとジノが、 「?」と目で促す。
「俺、すごーく腹へった」
 ヘフナーは思い切りムッとし、反対にジノはまたもや大爆笑したのだった。
















「でも彼にはびっくりさせられたよ、今日は」
「――ふーん?」
 ホール内のスタンド・バーでとりあえずかき集めてきた食料を前に森崎は奮 戦中である。半日ぶりに元の体に戻った意識が、何より先に空腹感を訴えるの だからこれは仕方がない。
「さっきだって君を呼び戻すのにすごい声を出したんだ。消防車のサイレンみ たいにさ」
 ジノはテーブルの反対側から森崎の食べっぷりを満足そうに眺めていた。森 崎はソーセージをフォークで口に押し込みながら、右手のナイフで自分の腕を 指した。
「うん、痛かったよ。あれ、ヘフナーだったんだね、引っぱったの」
「彼にありがとうを言っちゃだめだよ、怒るから」
 森崎はうなづいた。ヘフナーにそういう部分があることは彼も感じている。
「いやいやそうじゃない」
 しかしジノはもったいぶって首を振った。
「自分の父性愛を思い知らされるのが嫌なんだと思うな」
「何の話だ…?」
 突然現われたヘフナーに森崎はフライドポテトを喉に詰めそうになった。 が、ジノはにこやかに顔を上げる。
「君はいい父親になれそうだってことさ」
 ヘフナーは片手を腰に当て、ふん、と鼻先であしらった。
「そりゃまあ俺だっていつかは父親になるだろうさ」
「でもギュンターは君の年にはとっくに父親だったんだよね」
「…人のトラウマをつつくなと言うんだ!」
 つかみかかろうとした時には素早く席を立っている。さっと森崎の背に回っ たジノは、後ろからその両肩をぽんぽんと叩いた。
「じゃ、君たち親子水入らずの邪魔はやめて、僕は消えるよ」
「え、ジノ…?」
 ナイフとフォークを握ったまま、森崎が振り向く。
「僕は今からミュンヘンに飛ぶよ。バイエルンに直談判にね」
 手の封筒をひらひらさせて、ジノはウインクした。
「お偉方の気が変われば警察もシュナイダー捜しに加わってくれるさ」
「…まだ、危険だな」
 ヘフナーは顔をしかめる。
「また移動中を狙われてみろ。今度は空だから着地は難しいぞ」
 それに森崎もいないし、と付け加える。言われた当人はきょとんとしていた が。
「まあ、幸運を祈っててくれ」
「ヘルナンデス!」
 ドアに向かおうとするジノをヘフナーが語気強く呼び止める。が、ジノは笑 って手を振っただけだった。
「叔父さんの言うことはきくもんだよ、グスタフ」
「バ……!!」
 カ、と続ける前にドアは閉まり、ヘフナーはびっくり顔の森崎と向き合うこ とになってしまった。
「え、叔父さん、って…?」
「気にするな、メシ食ってろ」
「……?」
 ヘフナーは反対側の椅子を引いてどしん、と座る。
「世の中には信じたくないことが色々あるもんさ」
 足元のバッグからシュナイダーのクリスマスカードを出して目の前にかざ す。
「たとえば天才的な方向音痴のくせにわざわざどこかへ出かけてくヤツとかな …」
「一度行った場所でも迷うのかな」
 それを方向音痴と言うんだよ、森崎くん。
「かえって初めての場所のほうがちゃんと行けたりしてな…」
 言いかけて、ヘフナーがゆっくりと指を額に当てた。目が宙を見ている。
「…もしかして、あいつ」
「え?」
 森崎は皿から顔を上げた。
「俺の田舎に行く気だったのか…?」
 自分の言葉で我に返ったヘフナーは、がばっとバッグに飛びついて今朝買っ た新聞を引っぱり出す。ヘフナーの育ったシュヴァルツヴァルトの小さい村は 記事にある村とは隔たっているものの、ボーデン湖畔の町から見れば同じバス の路線だ。
「馬鹿か、ヤツは!」
 椅子から勢いよく立ち上がる。
「俺がずっと追いかけてる時に、その俺の田舎に向かってたってのか…!?」
「ヘフナー?」
 ヘフナーはテーブルに新聞をたたきつけた。
「そしてこの俺はもっと馬鹿だったんだ!」










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