第六章 CHECK MATE
●
若島津と手が離れてまた白い空間の底に沈み始めた森崎は、微かに自分を呼
ぶ声を聞いたような気がした。だが、眠気が重くまとわりついて意識はどんど
ん薄れていく。
「若島津……」
あいつ、泣きそうな顔してた。
「ごめんな」
若島津が泣いたりするはずはないのだ。森崎はふとおかしくなる。自分がそ
う思ったことが。
「俺は帰りたくないわけじゃないんだ。俺だけがここを抜け出せても、それじ
ゃ何にもならない気がして…」
目の前の白さはもはや何の意味も持たない。目を開いていようと閉じていよ
うと同じなのだ。森崎の体はまたゆらり、と漂い始めた。これはフリッツの見
ている夢かもしれない。もしそうなら何という悪夢だろう。
フリッツは言ったではないか。誰かが一緒にいてくれるだけで嬉しいのだ
と。そして森崎はフリッツの悪夢を共有した。フリッツを封じ込めた悲しい記
憶を。
「ここは悲しい所だ。悲しみがどこにもない。フリッツはずっと一人で泣いて
いたんだ。誰かがフリッツの悲しみを見つけてくれるまで」
そして自分がその役割を果たせたのなら、と森崎は思った。元の現実の世界
に戻っても構わない。でも、フリッツはあれで救われたとは思えない。フリッ
ツは記憶を取り戻したことで、また悪夢に飲み込まれたのではないか…。それ
が森崎の不安だった。
眠い。体が溶けていくようだ。体も、考えも、この真っ白な悪夢の中に溶け
ていく。
「…モ…リサキ!」
「――誰?」
閉じかけていた目をぼんやりと開く。声が、彼を呼んでいた。
「フリッツ、フリッツなのか!?」
「……モリサキ!」
はっと意識が戻ると同時に、ずるずると落ち続けていた体も体勢を戻す。
「フリッツ!!」
呼んだと同時に、白い空間の向こうに遠く少年の姿が見えたように思った。
もがくようにその方向へ体を動かそうとする。
「待ってくれ、今、行くから…!」
伸ばした手が止まった。
「――えっ!?」
森崎は目を見張る。何か、強い力が突然彼の体を引っぱっている。それはま
ぎれもなく人間の手の感触だった。
「ま、待ってくれ、連れて行かないでくれ! あっちにフリッツが…!!」
が、その力は容赦なかった。まるで急流にのまれたかのように一瞬のうちに
すべてが、それとも空間が、すさまじい速さで遠ざかって行った。体じゅうが
音をたててきしむ。つかまれた腕のその部分だけに痛覚が集中したようにキリ
キリと痛みが走った。
「モリサキ!!」
飛び上がりそうになるほどの大声が耳元で弾けた。
「起きろ、モリサキ!」
まぶしさが目を射た。そして何か大きな、重い圧迫感。森崎はのろのろと腕
を伸ばして、それに手を掛ける。もしゃもしゃと毛だらけの感触だ。
「……あれ、何してるんだ?」
「おまえはな…」
そのもしゃもしゃが起き上がった。その下から目つきの悪い顔が現われる。
「人の頭を何だと思ってるんだ。モップみたいにしやがって!」
「…ヘフナー?」
わけがわからず、ただきょとんと見つめる。床に座り込んだヘフナーの横
で、ジノがこらえきれずに笑い出した。
「か、感動の再会だね、本当に…」
あとは笑いにむせんでなかなか声にならない。
「モリサキ、心配いらないよ。ヘフナーは決して君を押し倒してたわけじゃな
いから。心臓に耳を当ててただけなんだ」
「余計なことを言うな」
ヘフナーはじろりとジノを睨みながら立ち上がった。
「気分はどうだ。どこか痛むか」
訊かれて森崎は自分の左腕を見下ろした。さっきつかまれたはずの所をそっ
とさすってみるが、痛みは完全に消えていた。
「――夢、か?」
見回しても周囲はまるで知らない場所だ。狭い部屋、低い天井、そして大き
な機器類。
「どこも痛くない。でも…」
声がわずかにかすれる。ちょっと口ごもった森崎を、ヘフナーとジノが、
「?」と目で促す。
「俺、すごーく腹へった」
ヘフナーは思い切りムッとし、反対にジノはまたもや大爆笑したのだった。
|