シーツに散った長い髪にそっと触れてみる。思っていたより柔らかい。そう
いえば以前一度触ってみようとして殴られたことがあったっけか。
若林は少し眉を寄せ、青白い若島津の寝顔をまじまじと見た。髪からその冷
たい頬に手を移動させ、再び顔を寄せる。さっきより長く。
「――こ、のっ!!」
いきなり腹に強い衝撃を受けて、さすがに若林も派手に弾け飛んだ。
「きさま、よくも…!」
目を開いた途端の過激な挨拶であった。若林は床の上からにやりとそれに応
える。その手には栓を抜いたオレンジキュラソーの瓶が握られていた。
「ああ、ようやく眠り姫のお目覚めか」
若林は床の上に座り直し、手元も見ずにポンと栓を叩き込む。体を起こした
若島津は、それを見て自分の口をぐいっと乱暴にぬぐった。
「おまえは酒には強いくせにこういう甘口のはからっきし駄目なんだってな」
「誰がそういう余計な情報を流したんだ」
「森崎」
「……あの野郎」
無表情に怒りをたぎらせる若島津をよそに、若林はベッドの脇のダッシュボ
ードに歩み寄ってキュラソーの瓶を棚に戻した。
「感謝こそされ、そんなに凄まれる筋合いはないと思うぞ」
「何だと!」
「おまえは重いんだ。俺はヘフナーじゃないからな。おまえをかついで楽々逃
げ回るなんて芸当はできん」
若島津は表情を変えず部屋を見渡した。今自分がいるベッドと、一人掛けソ
ファーが2つ。窓はない。火の入っていない小さな暖炉やさっきのダッシュボ
ードを見てもホテルではなさそうだ。今は一体何時なのか…。
「どこだ、ここは」
「おまえが眠ってるうちにお迎えが来てな。俺たちを車に押し込んでここまで
連れて来た。俺は目隠しをされちまったが、もちろんそんなものは無駄だ」
若林はちょっと言葉を切ってソファーに腰掛けた。
「ここはチューリヒから北西に行った山の中だ。どうやら例の会社所有の別荘
のようだな」
「するとあの秘書の言ってた…」
若林は真面目な顔に戻る。
「だな。俺の『力』が使えんとこを見ると」
「使えない…?」
「そうだ。たぶん、やつの『力』が妨害電波代わりになってるんだろう。さっ
きからヘフナーたちと連絡を取ろうとしてるんだが…」
若島津はベッドから両足をゆっくりと下ろした。靴ははいたままだ。若林に
は脱がそうという気は働かなかったらしい。若島津は今さらと思いつつも黙っ
てショートブーツを脱いだ。ソックスも脱いで素足になる。全身が妙に強張っ
ていたが、足先からリラックスしてきた気分になるから不思議だ。幼い頃から
の習慣もあって、若島津はむしろ素足に慣れている。
「俺はどれくらい眠っていた」
「そうだな。ざっと4時間」
若林の答えにちょっと眉を上げる。心ならずも若林の足手まといになってい
た時間である。あるいはこの密室で――当然ここには監禁されているのだろう
――若林と二人きりでいた時間、ということになる。
「森崎を、連れて帰れなかった…」
若島津は怒ったように横を向いた。
「もう少しのところだったのに…。手が、離れちまったんだ」
若林は黙っている。若島津は自分の片手に目を落としたまましばらく無言で
いたが、やがてその手をぐっと握りしめた。
「…あそこはひどい所だったんだ」
微かに顔をしかめる。
「何もない白さが重苦しくて…、何より人の感情をどこまでも引きずり落とし
ていくような嫌な空気が充満してるんだ。思い出したくないことまで思い出さ
せるような…」
「で……」
若林はそこでゆっくり口を開いた。
「おまえも、か?」
「え?」
若島津ははっと顔を上げる。
「うわごとでおまえ、日向だの森崎だのずいぶん呼んでたからな」
「…かも、しれん」
記憶の中を探るように、若島津は少し間を置いた。
「俺がこんな力を持つようになった頃のことをな、思い出してた…。サッカー
を続けるかどうか、迷ってた時だ」
「あの交通事故か」
彼らが初めて対戦した小学生最後の夏、準決勝の日まで若島津が現われなか
った事情は若林も一応耳にしている。
「皮肉な話だ。やめる決心をした矢先に事故に遭って、それで逆に気が変わっ
ちまった…」
「……」
その時の傷は今も若島津の肩にある。時折彼の悩みの種となりながら…。
若林は黙ってその肩のあたりを見つめた。さっき触れた長い髪がまだ少し乱
れ加減に掛かっている。
「何だ」
若島津が顔を上げて、そんな若林を睨み返した。
「じろじろ見るな」
「落ち込んでるおまえも悪くないぜ」
若林は頬杖をついたままニッと笑顔を見せた。
「おまえを喜ばせるために落ち込んでるわけじゃない」
「ふーん」
そのかみつき方がいつになく可愛い、とこっそり考えつつ、若林はソファー
にまっすぐ座り直した。
「おまえってさ、いつも感情を表に出さないだろ。四六時中その仏頂面だもの
な。中でどんなに落ち込んでても、ズタボロになってても」
「ズタボロで悪かったな」
そっぽを向いたまま、ますますその目つきが悪くなる。しかし若林はまるで
たじろぐ様子もなく、ゆっくりと立ち上がった。
「……日向と森崎にだけ、見せるのか?」
「な、んだよ…」
目の前にぬっと立ちはだかってきた若林に一瞬ひるむ。
「ちょっと、妬けるな」
「なに考えてんだ、きさまは!!」
「さっきの続き、やろう」
強引な眼差しがまっすぐ若島津をとらえた。
「さっきは反応がなくて楽しくなかった…」
「……まだ死に足りないらしいな、若林」
下から相手の襟首をぐっと取る。はた目には立派に見つめ合いの図である。
「若島津…」
二人の視線が、それぞれに食い違ったまま火花を散らし合ったその時だっ
た。
『わっかばやしさん――!!』
なんと元気いっぱいの屈託のない声だったろう。そう、この場のムードを瞬
時にぶち壊すほどの。
「………」
ベッドカバーの上に頭から突っ込んだ若林をよそに、若島津はさっと床に飛
び降りる。
「森崎か…!?」
『…若島津、無事だったんだな!』
まったくどっちの台詞だか。それが森崎らしいと言えばらしいのだが。若島
津は思わず苦笑した。
「おまえこそ、迷子にならずにすんだみたいだな」
『二人とも、急に消えて一体どうしたんだ』
今度はヘフナーである。ベッドの上でようやく若林が復活した。
「いやまあ、手っ取り早く目指す相手のところに来られたのはいいんだが」
『…例の、か』
「例の、だ…」
頭をさすりながら、まだ未練がましく若島津を見上げている。もちろん完全
に無視されていたが。
「でも、さっきまでおまえらには通じなかったぞ。俺だって呼んでたのに」
『みたいだな。…こいつが起きたせいかな』
向こう側で頭でもこづいているのだろう。少し間が空く。
『それとも、フリッツに何かあったか、です…』
元気な声が少し低くなったのを若林が聞きとがめた。
「なんだ、そいつは」
『俺たちを襲ってるあの敵が、フリッツの能力を利用してるらしいんです』
記憶を失って一人閉じ込められていた小さな少年の存在を、森崎は説明し
た。さらにヘフナーも新情報を伝える。
『ワカバヤシ、俺たちはこれからシュナイダーをつかまえに行く。あいつの居
場所がわかったんだ』
「本当か!?」
『ああ』
ヘフナーは少しためらった。
『もう一度国境越えだ。シュバルツバルトの――俺の家まで』
「おまえの家だぁ?」
父親のことさえ初耳だった若林が、その生い立ちの事情まで知るはずがな
い。すっとんきょうに問い返す。
『もっと早くきづくべきだった。あいつ、ケルンの…俺の現住所を知らなかっ
たらしくて、それで実家を目指したらしい』
「んな無茶な! そりゃ自殺行為だ」
説明を聞いて、若林は髪を乱暴にかき混ぜた。
「昔一度行ったきりの所へ記憶だけを頼りに、だなんて…」
「…しっ!」
若島津が手を上げて会話をさえぎった。若林ははっとドアを振り返る。廊下
に人の気配。そして、ノックの音がゆっくりと2回聞こえた。
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