5章 3












「気をつけろ、そこは川だ」
 一面深い雪に覆われた山道である。多少の起伏はあってもその下にあるもの の判別までは無理というものだった。雪の積もらない南葛に育った森崎だから 余計である。前を行くヘフナーの声に、ぎょっと足を引く。
「そら、見えてきたぞ」
 ヘフナーの前髪がつん、と揺れた。針葉樹の森がその先で開けているのがわ かる。
「…ここがヘフナーの家、か」
 息を切らせてなんとか追いついた森崎が目を見はった。
「今は誰も住んでいないがな」
 ヘフナーは何の感慨もないといったふうにまた歩を進め始めた。森崎もあわ てて後を追う。
「農場なんだね。それとも牧場…?」
「乳牛と馬を少し飼っていた。ガチョウはけっこういたぞ。この裏手が池なん だ」
 村のほうへ流れる小川が続いていて、冬の間はスケートで楽に行き来ができ た、とヘフナーは話した。
「でもシュナイダーが来たのは夏だったんだろ?」
「…ああ」
 ヘフナーはスピードは緩めず、歩き続ける。
「夏の休暇に、あいつと妹のマリーを呼んだんだ。あいつの家がゴタゴタして た時でな」
 別に同情してのことではなかった。選抜チームで知り合ってまだ数ヶ月、親 しい、と言うにはあまりにそっけない仲ではあったが、誘ってみたら意外にも シュナイダーはあっさりそれを受けた…、というだけだった。そしてそれはヘ フナーにとっても、この家で過ごした最後の夏となった。
「へええ、シュナイダーの妹?」
 妙なところに反応している。末っ子だからな。
「ん、これは…」
 ヘフナーが足を止めた。農場の門に通じる道が左から合流している場所だ。
「タイヤの跡…?」
 森崎は顔を上げてヘフナーと目を合わせた。ヘフナーも顎に手をやってうな づく。
「ひと足遅かったかもしれんな」
「じゃ、シュナイダーはもう…?」
「…待て」
 森崎の言葉をさえぎってヘフナーが振り向いた。人の気配だ。
 建物の陰から数人の男たちががやがやと何かを言い交わしながら姿を現わし た。向こうは向こうでこちらに気づいてぎょっとする。
「何だ、おまえらは!」
「さっきの仲間なのか!?」
 いきなり怒鳴り始めた男たちには何の反応も示さず、ヘフナーは森崎を振り 返った。森崎のほうは言葉がわからないだけに彼らの怒りの表情に逃げ腰にな っている。
「心配いらん。村のやつらだ」
 ヘフナーは簡単にそう言ってからまた男たちに向き直り、一人ずつ指さして 説明し始めた。
「あれは教会裏のイェルク、隣が乾物屋のクンツ、そこの小さいのがハインリ ヒで…」
「こいつ、何で俺たちを知ってるんだ!」
 男たちが気味悪そうにどよめく。そしてさらに詰め寄ろうとするがヘフナー は気にせず続ける。
「赤毛のおやじはハルトムート、そっちの若いのが橋向こうのヨーハン…」
「き、きさまぁ!!」
「おーい、何やっとるんじゃ」
「あ、じいさん」
 雪をかき分けて木立ちの間から出て来たのは古びたハンチングをかぶった老 人だった。
「…で、あれがその祖父のマクスじいさんだ」
 ヘフナーが最後に付け加えた時、老人がちょうどこちらに気がついた。
「聞いてくれ、じいさん。この妙なのが俺たちの名前を知ってて…」
「なんだ、誰かと思ったらちびのグスタフじゃないか」
 老人は頑固そうな顔をちょっとほころばせた。ヘフナーも手を差し出す。
「ちびはないだろ、じいさん」
 男たちは呆然と見ている。じいさんは黙ってその手を握り返した。側に寄る と、ほとんど垂直に見上げることになる。
「なるほどのう、確かにもうちびではないわ」
「じ、じいさん、こいつは…?」
 周囲の男たちに、老人はやっと目を向けた。
「何を言っておるんじゃ、アウグステの家にいたグスタフだろうが」
「えっ、この家に…?」
 皆めいめいに首をかしげる。どちらにしろ8年も経っていればすぐわかるほ うがどうかしている。
「覚えとらんのか。しかたないかもしれんな。この子はほとんど村には寄りつ かんかったからの」
 大伯母のアウグステは、朝早くから日が暮れるまで一人で森で過ごす彼をい つも嘆いていたものだ。その愚痴を始終聞かされていたのがこのマクスじいさ んだったのだ。
 と、その時、向こうから犬の吠え声が聞こえた。皆振り返る。さっきマクス じいさんが出て来た木立ちのあたりから駆け出して来たのは大きな白犬だっ た。何か口にくわえてこちらに来る。
「エ、エリーザベト!? まさか…」
 それを見てヘフナーの顔色が変わった。それを老人は優しい目で見やる。
「これはエリーザベトではない。あれの孫じゃ」
「…あ、ああ、そうだな。エリーザベトのはずはないんだ」
 ヘフナーはちらりと右手の森に目をやった。彼が一番愛した、いや、彼を一 番愛した犬がそこに眠っている。
「よーしよし。何を持って来たんだ? お見せ」
 犬はじいさんの前におとなしく座ってしっぽを振った。
「ん、これは腕時計じゃな」
「あ、それ…、さっきシュナイダーがしてたやつだ。間違いない!」
 孫のヨーハンが叫んだ。ヘフナーは老人に向き直る。
「何があったんだ。シュナイダーはここで何をしてたんだ」
「わしの孫娘を助けてくれたんじゃ。わしらは一緒に村に戻るところだったの に、そこへ見たことのない連中が現われてのう…」
「あいつを連れてったのか…?」
 マクスじいさんはしかめ面でうなづいた。ヘフナーは腕時計を手に取り、じ っと見つめる。犬も何か興味ありげにそんなヘフナーを見ていた。
「じいさん、頼みがあるんだが…」
 ヘフナーが決心したように顔を上げる。老人はその話を黙って聞いていた が、深くうなづいた。
「それなら早い方がよかろう。すぐ行きなさい」
「ありがとう」
 ヘフナーがひゅっと口笛を吹くと犬は張り切った様子で立ち上がった。二人 の後をちゃんとついて来る。
「おーい、グスタフ!」
 その背に声が飛んだ。
「大事な客人を横取りしたあの馬鹿者どもにな、わしからだと言って一発くら わせてやってくれ。きっとじゃぞ!」
 故郷は健在だった。おそらく、この律儀なしぶとさの中にだけは。ヘフナー はちょっと困ったような顔をして森崎を見た。
「心配ない。この犬が先祖代々の鼻を受け継いでるなら確実にシュナイダーを 追跡できる。なにしろ俺の師匠だったんだからな、こいつのばあさんは」
「犬が、師匠…?」
 なるほどそれなら、と森崎は思った。今さら常識を求めても無駄だというこ とは彼にはよーくよーくわかっていた。











「おや、もうお目覚めのようだな。よく眠れたかね」
 部屋に入ってきた大柄な男は、若島津と目を合わせると愛想よく笑顔を見せ た。が、若島津の表情はぴくとも動かない。
「――ワカバヤシ、君の友人はドイツ語がわからないのかね」
 せっかくの笑顔が空振りに終わったので、専務はちょっと気がそがれたよう だった。今度は若林に向き直る。
「さてね。場合によるだろうな」
 日本語で迫っても通じなかったのだ。人のことなど知るか。
「それより俺たちをさんざん退屈させておいて、今度はどうする気なんだ?」
「いや、待たせたのは悪かった。私のほうも色々と準備があったのでね。幸い 切り札も手に入ったし、これでいよいよ交渉に入れるわけだ」
「…切り札」
 若林は眉を寄せた。あの女秘書も使っていた言葉だ。するとこいつが手に入 れたっていうのは…。
「かけたまえ、ワカバヤシ」
 専務は先にソファーに腰を下ろした。一人あぶれた若島津はベッドの脇に立 ってやはり無表情のまま二人のやり取りを見ている。
「名乗るのが遅れたが、私は君たちが昨夜侵入した会社の者でね」
 専務は膝の上で両手を組んで、まっすぐ若林を見た。ヒンツ社を二分する勢 力の一つ副社長派を出し抜くべくシュナイダーを証拠物件として押さえたの が、その対抗勢力のトップであるこの男というわけだ。
「まあ今さら事情を隠しても無駄なようだから、単刀直入に言ってしまうと、 君たちの行動は私には非常に助けとなったのだ」
「そりゃ良かったな」
 若林はわざと天井に視線を向けながらぼりぼりと頭をかいた。
「あんたに有益だろうが有害だろうが俺たちは知ったこっちゃない。俺たちが 考えてるのは一つだけだ。――シュナイダーを取り戻すこと。俺たちのフィー ルドにな」
「気持ちはわかるよ、ワカバヤシ。彼が我が国に欠くべからざるスタープレー ヤーであることも承知している。だが言ったろう? 彼は我々にとっても切り 札なのだ」
「なんでだ。あんたらがヤツに係わっちまったのは単なる偶然だったんだろ う? 今さらヤツ個人にこだわるこたねえんだろが」
 わざと乱暴に応じる若林に、専務は穏やかに笑って対した。
「そう簡単なことではないんだよ、ワカバヤシ」
 専務はソファーのアームをとんとん指で叩いた。
「君たちはね、私のライバルの秘密を握っている貴重な証人だということだ。 君たちが私に協力する気があるというなら、シュナイダーの現在の窮地を救っ てあげることもできる」
 若林はゆっくりと脚を組み直し、黙ったまま相手を見すえた。虚勢でなくこ のふてぶてしい態度が身についているらしい若者に、専務はちょっと肩をすぼ めて苦笑してみせる。
「私にもこれは願ってもないチャンスなんだ。一度は遠のきかけたものが手元 に転がり込んで来た。君たちにとっても悪い取引ではないと思うがね」
「この状況を見る限り、取引と言うよりは脅迫に近いと思うがな」
「そうとってもらっても別に構わないよ」
 専務は立ち上がった。ドアの外に合図する。
「ここは居心地のいい場所だが、長くいると退屈するだろう。かと言って退屈 しのぎに暴れてもらっても困るからね」
「……!」
 部屋に入ってきた数人の男たちがザイルを手にしているのを見て若林はがば っと席を立つ。だが男たちは有無を言わせず二人を背中合わせにして、後ろ手 にしっかりと縛り上げた。
「…協力者に対してずいぶんな真似をするもんだな」
 その状態でザイルを暖炉の釣り鉤に回して、絞るように二人をずるずる引き 寄せる。若林が下からキッと睨み上げた。
「本当に協力する気になってくれたら、そう言ってくれたまえ。丁重におもて なしする用意はちゃんとしてある。シュナイダー同様にね」
「何だと!? どういう意味だ。やつをどうした!」
「すべての取引が完了するまで教えるわけにはいかんな」
 部下たちが二人のキーパーを暖炉前にしっかりと縛りつけたのを満足そうに 確認して、専務はドアノブに手を掛けた。そうしてもう一度振り返り、睨みつ けている若林と目を合わせる。
「ともあれ、いい返事を待っているよ」
「一つ、聞きたい」
 窮屈な体勢から体をねじ曲げるようにして若林が言った。
「昨夜、あんたがやったチェスの対局、あんたは白だったのか、それとも黒だ ったのか?」
 唐突な話題に専務は片眉を上げる。
「…白だが。それがどうかしたのか?」
「いや、どっちが勝ったのかちょっと興味があっただけだ」
「ほう、私の負けだったのならどうだと言うのかね」
「別に。ただの好奇心だ」
 若林は再びそっぽを向き、知らん顔をしている。専務は微かに笑みを浮かべ た。
「ま、好奇心はほどほどにしておくんだな。若いうちは時にはそれが命取りに なるものだ。今の君たちのようにね」
 ドアは閉まり、重いロックの音が響いた。廊下を足音が遠ざかる。
「若島津、やつは違う」
 それを確かめてから、若林は切り出した。
「あれは会社の実権が欲しくてジタバタしているただの欲張りオヤジだ。ESPの 匂いもない」
「の、ようだな。そいつを隠して演技をしているつもりなら、こんな原始的な 監禁方法はとらんだろう」
 落ち着いた声で返事が返って来た。顔は見えないが、どうせいつものポーカ ーフェイスは崩していないに違いない。
「聞いたろ。やつは『白』だったんだ。つまり…」
 若林は口を結んだ。
「あの対局をリードしていたのは『黒』だ。しかもチェックに持って行くまで もなく勝負を決めている。俺たちがあそこに行くことを予測し、ワナを張って いたのは『黒』だったんだ」
「演技は病気のじいさんのほうだったわけか」
「ああ、俺たちだけじゃない。会社のやつらも、業界すべて、じいさんにだま くらかされて来たんだ。何を企んでるのかは知らんがな」
「それがわかったなら早くしろ」
 突然言われて、若林はぽかんとする。
「早く、って…、おい」
 無理に体を動かそうとしたので、ザイルが余計手に食い込んでしまった。
「不愉快だ、と言ってるんだ。俺はおまえといつまでも仲良くくっついている 趣味はない」
「あのな、若島津…」
 どうも怒りの次元がズレている。
「なんだって俺が責められなきゃならんのだ。俺だって被害者だぞ」
「それならさっさとおまえの便利な『力』を使ったらどうだ」
「いや、それがどうも、さっぱりでなぁ」
 何がさっぱりかはさておき、どうやらさっきの意趣返しのつもりはあるらし い。若島津は黙り込んだ。
「…おい?」
 背後で何やら不穏な気配がするのに気づく。若林は首を伸ばそうとしたが、 鋭い声に制止された。
「動くな、邪魔だ」
 ぎょっとした若林の耳に、次の瞬間鈍い音が響いた。体の自由が突然戻って くる。
「ふん、これで縛りつけたつもりか」
 何が怖いって、こういう真似をこのどこまでも無表情な女顔でやられるほど 怖いものはない。若林は頭上からばらばらと落ちてくる煉瓦の破片に顔をしか めながらごろんと向きを変えた。ねじ上げるように後ろに回されていた手がな んとか楽なかっこうになる。
「…おまえ、また一段と人間離れしてきたな。どういう修行をしてたんだ」
 繋ぎ止められていた暖炉の鉤をそのまま引き抜いてザイルを外した若島津 は、2、3回腕を振って結び目を払い落とし、さっさと若林から離れた。
「あいにく空手はとんと縁がないままだ。家のほうは姉貴に任せっきりだし な」
 空手の技よりその性格に問題を抱えているとしか思えない相手はこの際放っ ておいて、若林はあぐらをかいて座り直した。そしてザイルのからまった両手 首にじっと視線を止める。僅かな間をおいてボッと透明な炎がザイルを包み、 次の瞬間には下に落ちた。見ていた若島津がそら見ろという顔をする。
「誰が人間離れだって?」
「俺は地道にサッカーをやってたぞ」
「どうだか」
 むすっと答えて、若島津がドアにぴたりと張りついた。まあ暖炉をあれだけ 派手に壊したのだから、それなりの騒音は届いたはずだ。数人の足音があわた だしく近づいてくる。
「せーの、だぞ」
 若林も真面目な顔つきで立ち上がった。









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