「気をつけろ、そこは川だ」
一面深い雪に覆われた山道である。多少の起伏はあってもその下にあるもの
の判別までは無理というものだった。雪の積もらない南葛に育った森崎だから
余計である。前を行くヘフナーの声に、ぎょっと足を引く。
「そら、見えてきたぞ」
ヘフナーの前髪がつん、と揺れた。針葉樹の森がその先で開けているのがわ
かる。
「…ここがヘフナーの家、か」
息を切らせてなんとか追いついた森崎が目を見はった。
「今は誰も住んでいないがな」
ヘフナーは何の感慨もないといったふうにまた歩を進め始めた。森崎もあわ
てて後を追う。
「農場なんだね。それとも牧場…?」
「乳牛と馬を少し飼っていた。ガチョウはけっこういたぞ。この裏手が池なん
だ」
村のほうへ流れる小川が続いていて、冬の間はスケートで楽に行き来ができ
た、とヘフナーは話した。
「でもシュナイダーが来たのは夏だったんだろ?」
「…ああ」
ヘフナーはスピードは緩めず、歩き続ける。
「夏の休暇に、あいつと妹のマリーを呼んだんだ。あいつの家がゴタゴタして
た時でな」
別に同情してのことではなかった。選抜チームで知り合ってまだ数ヶ月、親
しい、と言うにはあまりにそっけない仲ではあったが、誘ってみたら意外にも
シュナイダーはあっさりそれを受けた…、というだけだった。そしてそれはヘ
フナーにとっても、この家で過ごした最後の夏となった。
「へええ、シュナイダーの妹?」
妙なところに反応している。末っ子だからな。
「ん、これは…」
ヘフナーが足を止めた。農場の門に通じる道が左から合流している場所だ。
「タイヤの跡…?」
森崎は顔を上げてヘフナーと目を合わせた。ヘフナーも顎に手をやってうな
づく。
「ひと足遅かったかもしれんな」
「じゃ、シュナイダーはもう…?」
「…待て」
森崎の言葉をさえぎってヘフナーが振り向いた。人の気配だ。
建物の陰から数人の男たちががやがやと何かを言い交わしながら姿を現わし
た。向こうは向こうでこちらに気づいてぎょっとする。
「何だ、おまえらは!」
「さっきの仲間なのか!?」
いきなり怒鳴り始めた男たちには何の反応も示さず、ヘフナーは森崎を振り
返った。森崎のほうは言葉がわからないだけに彼らの怒りの表情に逃げ腰にな
っている。
「心配いらん。村のやつらだ」
ヘフナーは簡単にそう言ってからまた男たちに向き直り、一人ずつ指さして
説明し始めた。
「あれは教会裏のイェルク、隣が乾物屋のクンツ、そこの小さいのがハインリ
ヒで…」
「こいつ、何で俺たちを知ってるんだ!」
男たちが気味悪そうにどよめく。そしてさらに詰め寄ろうとするがヘフナー
は気にせず続ける。
「赤毛のおやじはハルトムート、そっちの若いのが橋向こうのヨーハン…」
「き、きさまぁ!!」
「おーい、何やっとるんじゃ」
「あ、じいさん」
雪をかき分けて木立ちの間から出て来たのは古びたハンチングをかぶった老
人だった。
「…で、あれがその祖父のマクスじいさんだ」
ヘフナーが最後に付け加えた時、老人がちょうどこちらに気がついた。
「聞いてくれ、じいさん。この妙なのが俺たちの名前を知ってて…」
「なんだ、誰かと思ったらちびのグスタフじゃないか」
老人は頑固そうな顔をちょっとほころばせた。ヘフナーも手を差し出す。
「ちびはないだろ、じいさん」
男たちは呆然と見ている。じいさんは黙ってその手を握り返した。側に寄る
と、ほとんど垂直に見上げることになる。
「なるほどのう、確かにもうちびではないわ」
「じ、じいさん、こいつは…?」
周囲の男たちに、老人はやっと目を向けた。
「何を言っておるんじゃ、アウグステの家にいたグスタフだろうが」
「えっ、この家に…?」
皆めいめいに首をかしげる。どちらにしろ8年も経っていればすぐわかるほ
うがどうかしている。
「覚えとらんのか。しかたないかもしれんな。この子はほとんど村には寄りつ
かんかったからの」
大伯母のアウグステは、朝早くから日が暮れるまで一人で森で過ごす彼をい
つも嘆いていたものだ。その愚痴を始終聞かされていたのがこのマクスじいさ
んだったのだ。
と、その時、向こうから犬の吠え声が聞こえた。皆振り返る。さっきマクス
じいさんが出て来た木立ちのあたりから駆け出して来たのは大きな白犬だっ
た。何か口にくわえてこちらに来る。
「エ、エリーザベト!? まさか…」
それを見てヘフナーの顔色が変わった。それを老人は優しい目で見やる。
「これはエリーザベトではない。あれの孫じゃ」
「…あ、ああ、そうだな。エリーザベトのはずはないんだ」
ヘフナーはちらりと右手の森に目をやった。彼が一番愛した、いや、彼を一
番愛した犬がそこに眠っている。
「よーしよし。何を持って来たんだ? お見せ」
犬はじいさんの前におとなしく座ってしっぽを振った。
「ん、これは腕時計じゃな」
「あ、それ…、さっきシュナイダーがしてたやつだ。間違いない!」
孫のヨーハンが叫んだ。ヘフナーは老人に向き直る。
「何があったんだ。シュナイダーはここで何をしてたんだ」
「わしの孫娘を助けてくれたんじゃ。わしらは一緒に村に戻るところだったの
に、そこへ見たことのない連中が現われてのう…」
「あいつを連れてったのか…?」
マクスじいさんはしかめ面でうなづいた。ヘフナーは腕時計を手に取り、じ
っと見つめる。犬も何か興味ありげにそんなヘフナーを見ていた。
「じいさん、頼みがあるんだが…」
ヘフナーが決心したように顔を上げる。老人はその話を黙って聞いていた
が、深くうなづいた。
「それなら早い方がよかろう。すぐ行きなさい」
「ありがとう」
ヘフナーがひゅっと口笛を吹くと犬は張り切った様子で立ち上がった。二人
の後をちゃんとついて来る。
「おーい、グスタフ!」
その背に声が飛んだ。
「大事な客人を横取りしたあの馬鹿者どもにな、わしからだと言って一発くら
わせてやってくれ。きっとじゃぞ!」
故郷は健在だった。おそらく、この律儀なしぶとさの中にだけは。ヘフナー
はちょっと困ったような顔をして森崎を見た。
「心配ない。この犬が先祖代々の鼻を受け継いでるなら確実にシュナイダーを
追跡できる。なにしろ俺の師匠だったんだからな、こいつのばあさんは」
「犬が、師匠…?」
なるほどそれなら、と森崎は思った。今さら常識を求めても無駄だというこ
とは彼にはよーくよーくわかっていた。
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