「眠いのか」
ヘフナーの声は優しかった。犬の首を抱きながら、目がこちらを見ている。
そのライト・グリーンのまなざしに射られて、森崎はちょっとドキッとした。
「いや、ちょっと考えごとしてたんだ」
ふーん、という顔をして、ヘフナーは犬の首筋を片手で撫で下ろした。犬が
こっちを見たので、森崎もつられて目を合わせてしまう。雪の上に寝そべる
と、この犬は見事なくらい保護色だ。
「月の出までまだ間がある。おまえも何か食っとくか?」
ヘフナーはさっき自分と犬とで食べたソーダクラッカーの包みを顎で指す。
「いいよ、会場(むこう)でいっぱい食べたから」
本当は熱い飲み物が一杯あれば最高だったが、森崎は口には出さなかった。
既に真っ暗になった山の中、ゼイタクは言っていられない。ピクニックに来た
わけではないのだから。
ドイツとスイスの国境から南へわずか15キロ、ライン河上流にあたるこの
山間部は、標高こそさほど高くないものの、真冬の今、夜間の冷え込みはやは
り厳しい。
彼らがたどって来た北からの山越えの道は、ドイツとチューリヒを結ぶ古く
からの街道筋にあたる。峠を過ぎて谷に入った後その街道から下へそれる一本
道があり、小さな橋を渡って谷の反対側に通じていた。かなり急な登り道が曲
がりくねりながら続き、その先に針葉樹の木立ちに囲まれた古い館があった。
谷に張り出すように建てられているその建物は、夜目にもかなり立派な造りだ
とわかる。
森崎は答えながら今度は自分たちの周囲を見回した。夕方まで降っていた雪
は既にやんでいる。闇に白く反射する雪の部分と背後に重く広がる黒い森林と
が奇妙なほど静かにコントラストを浮かび上がらせていた。時折遠くで風の渡
る音がするばかりである。彼らの前に深々と横たわっている渓谷は、この夜の
すべての物音を飲み込んで、森崎にあの闇の世界を思い出させた。
「ふん、こういう所に座り込んでると、自分がどこか違う時間にいる気がしち
まうな。俺はまだ小さいガキで、こいつは本物のエリーザベトで…」
頭を撫でられて、犬はちょっと耳を動かした。沈み込んだ顔でじっと谷向こ
うの灯を見つめている森崎をヘフナーはちらりと見やる。若林の痕跡をその鼻
でたどって来たヘフナーと、残された腕時計の匂いを頼りにシュナイダーを追
って来たエリーザベト3世、本当はオットーというこの犬と、ぴたりと意見が
一致したのだ。若林が伝えていた山荘とはあれに間違いない。そしてシュナイ
ダーもおそらく…。
「星が見えてるね」
「ああ、久しぶりに雲が切れてきたらしいな」
若林からの通信はあれから何度も中断していた。はっきり聞こえるかと思え
ば、雑音のような耳障りな感触しか伝わって来なかったりする。気をつけろ、
と若林は繰り返した。やつはおそらく俺たちの動きを監視している、と。
「あそこは何もなかったな、星さえも…」
膝を抱えて森崎がつぶやいた。谷からまっすぐ背後にそそり立つアルプスの
峰の連なりが、夜空を鋭く切り取っている。その上に小さな光の破片がいくつ
もまたたいていた。
「ヘフナー、おまえ、シュナイダーのシュートを最後に受けたのって、いつ
だ?」
「ええ?」
意外な質問を受けてヘフナーは思わず黙り込んだ。そして記憶をたどる。
「そうだな、練習や紅白戦なんかを除けばもうずっと昔になるな。確か10才
かそこらの。…そうだ、公式戦ではたった一度きりの対戦の時か」
言葉を切って、それが何だ、と目で問う。
「そうか、同じチームだったんだもんな、ヘフナーは」
森崎は独り言のように言ってからヘフナーを見つめた。
「俺は3年前だ。初めてのヨーロッパ遠征で、その第一戦がハンブルクだっ
た」
後半早々に若島津が負傷退場し、森崎は急遽投入された。ウォーミングアッ
プすらする暇はなかった。
「俺、国際試合はあれが初めてだったんだ。フィールドに足を踏み入れて…足
がガクガクした。目の前で、ヨーロッパの実力を、俺たち日本の前に高く立ち
はだかる世界の壁を見せつけられて、そして突然俺もその前に、その真正面に
立つことになった…」
森崎は肩を上げて大きく息をついた。
「対してみて初めてわかったよ。シュナイダーのシュートレンジは意外なほど
狭かった。その狭い一点に力がぎゅーっと絞り込まれるような感じなんだ。そ
の焦点の先に自分がさらされる。もうそれだけで射抜かれるような気になって
しまう…」
ヘフナーはうなづいた。もちろんその感覚はヘフナーの記憶にもくっきり残
っている。同じ条件でフィールドに立っている者にはきっとわからない、ゴー
ル前でそのシュートを阻止する役目を負う彼らだけが関知する、凝縮されたエ
ネルギーの感触だった。そしてシュナイダーは他のどんな選手とも異質な、言
わば完全に透明なエネルギーをその身の内に有している。
「日向も似てるけど――エネルギーの大きさって意味で、でも日向のはきっと
もう少し幅がある。エネルギーの向く先が自由って言うかさ」
一直線な男、とか、イノシシ並み、とまで言われる日向小次郎だが、そのプ
レイの裏に隠されている意外なほど柔軟な魂を森崎は理屈でなく感覚で知って
いた。伊達に何年もそのシュートに身をさらしてきたわけではないのだ。以前
は単にゴール前の障害物程度にしか見ていなかった彼を、あるきっかけから
『森崎』という一人の人格として認識するようになった日向は、森崎の側から
見ても単に殺人シュートを打ち込んでくるバケモノではなくなっている。若林
は最近それを「進歩だな」と笑って言ってくれたが、あまりありがたい進歩で
はないと森崎は思う。
「同じなんだ、今のこの感じ」
しばらくの沈黙の後、森崎が言った。ヘフナーがほう、と言うように目を上
げる。
「今度はもちろんボールが飛んでくるわけじゃないけどね」
森崎の笑顔に相応の緊張を読み取ったヘフナーは、もう一度力を込めてうな
づいた。
「じゃ、行くか。月が出る」
ヘフナーはまっすぐ前に顔を向けて、風の匂いを確かめているようだった。
それからグラブをきゅっと引っぱって、ひらりと雪洞を飛び出した。谷の向こ
うで、月が白い夜を照らし出したところだった。
|