6章 4












「眠いのか」
 ヘフナーの声は優しかった。犬の首を抱きながら、目がこちらを見ている。 そのライト・グリーンのまなざしに射られて、森崎はちょっとドキッとした。
「いや、ちょっと考えごとしてたんだ」
 ふーん、という顔をして、ヘフナーは犬の首筋を片手で撫で下ろした。犬が こっちを見たので、森崎もつられて目を合わせてしまう。雪の上に寝そべる と、この犬は見事なくらい保護色だ。
「月の出までまだ間がある。おまえも何か食っとくか?」
 ヘフナーはさっき自分と犬とで食べたソーダクラッカーの包みを顎で指す。
「いいよ、会場(むこう)でいっぱい食べたから」
 本当は熱い飲み物が一杯あれば最高だったが、森崎は口には出さなかった。 既に真っ暗になった山の中、ゼイタクは言っていられない。ピクニックに来た わけではないのだから。
 ドイツとスイスの国境から南へわずか15キロ、ライン河上流にあたるこの 山間部は、標高こそさほど高くないものの、真冬の今、夜間の冷え込みはやは り厳しい。
 彼らがたどって来た北からの山越えの道は、ドイツとチューリヒを結ぶ古く からの街道筋にあたる。峠を過ぎて谷に入った後その街道から下へそれる一本 道があり、小さな橋を渡って谷の反対側に通じていた。かなり急な登り道が曲 がりくねりながら続き、その先に針葉樹の木立ちに囲まれた古い館があった。 谷に張り出すように建てられているその建物は、夜目にもかなり立派な造りだ とわかる。
 森崎は答えながら今度は自分たちの周囲を見回した。夕方まで降っていた雪 は既にやんでいる。闇に白く反射する雪の部分と背後に重く広がる黒い森林と が奇妙なほど静かにコントラストを浮かび上がらせていた。時折遠くで風の渡 る音がするばかりである。彼らの前に深々と横たわっている渓谷は、この夜の すべての物音を飲み込んで、森崎にあの闇の世界を思い出させた。
「ふん、こういう所に座り込んでると、自分がどこか違う時間にいる気がしち まうな。俺はまだ小さいガキで、こいつは本物のエリーザベトで…」
 頭を撫でられて、犬はちょっと耳を動かした。沈み込んだ顔でじっと谷向こ うの灯を見つめている森崎をヘフナーはちらりと見やる。若林の痕跡をその鼻 でたどって来たヘフナーと、残された腕時計の匂いを頼りにシュナイダーを追 って来たエリーザベト3世、本当はオットーというこの犬と、ぴたりと意見が 一致したのだ。若林が伝えていた山荘とはあれに間違いない。そしてシュナイ ダーもおそらく…。
「星が見えてるね」
「ああ、久しぶりに雲が切れてきたらしいな」
 若林からの通信はあれから何度も中断していた。はっきり聞こえるかと思え ば、雑音のような耳障りな感触しか伝わって来なかったりする。気をつけろ、 と若林は繰り返した。やつはおそらく俺たちの動きを監視している、と。
「あそこは何もなかったな、星さえも…」
 膝を抱えて森崎がつぶやいた。谷からまっすぐ背後にそそり立つアルプスの 峰の連なりが、夜空を鋭く切り取っている。その上に小さな光の破片がいくつ もまたたいていた。
「ヘフナー、おまえ、シュナイダーのシュートを最後に受けたのって、いつ だ?」
「ええ?」
 意外な質問を受けてヘフナーは思わず黙り込んだ。そして記憶をたどる。
「そうだな、練習や紅白戦なんかを除けばもうずっと昔になるな。確か10才 かそこらの。…そうだ、公式戦ではたった一度きりの対戦の時か」
 言葉を切って、それが何だ、と目で問う。
「そうか、同じチームだったんだもんな、ヘフナーは」
 森崎は独り言のように言ってからヘフナーを見つめた。
「俺は3年前だ。初めてのヨーロッパ遠征で、その第一戦がハンブルクだっ た」
 後半早々に若島津が負傷退場し、森崎は急遽投入された。ウォーミングアッ プすらする暇はなかった。
「俺、国際試合はあれが初めてだったんだ。フィールドに足を踏み入れて…足 がガクガクした。目の前で、ヨーロッパの実力を、俺たち日本の前に高く立ち はだかる世界の壁を見せつけられて、そして突然俺もその前に、その真正面に 立つことになった…」
 森崎は肩を上げて大きく息をついた。
「対してみて初めてわかったよ。シュナイダーのシュートレンジは意外なほど 狭かった。その狭い一点に力がぎゅーっと絞り込まれるような感じなんだ。そ の焦点の先に自分がさらされる。もうそれだけで射抜かれるような気になって しまう…」
 ヘフナーはうなづいた。もちろんその感覚はヘフナーの記憶にもくっきり残 っている。同じ条件でフィールドに立っている者にはきっとわからない、ゴー ル前でそのシュートを阻止する役目を負う彼らだけが関知する、凝縮されたエ ネルギーの感触だった。そしてシュナイダーは他のどんな選手とも異質な、言 わば完全に透明なエネルギーをその身の内に有している。
「日向も似てるけど――エネルギーの大きさって意味で、でも日向のはきっと もう少し幅がある。エネルギーの向く先が自由って言うかさ」
 一直線な男、とか、イノシシ並み、とまで言われる日向小次郎だが、そのプ レイの裏に隠されている意外なほど柔軟な魂を森崎は理屈でなく感覚で知って いた。伊達に何年もそのシュートに身をさらしてきたわけではないのだ。以前 は単にゴール前の障害物程度にしか見ていなかった彼を、あるきっかけから 『森崎』という一人の人格として認識するようになった日向は、森崎の側から 見ても単に殺人シュートを打ち込んでくるバケモノではなくなっている。若林 は最近それを「進歩だな」と笑って言ってくれたが、あまりありがたい進歩で はないと森崎は思う。
「同じなんだ、今のこの感じ」
 しばらくの沈黙の後、森崎が言った。ヘフナーがほう、と言うように目を上 げる。
「今度はもちろんボールが飛んでくるわけじゃないけどね」
 森崎の笑顔に相応の緊張を読み取ったヘフナーは、もう一度力を込めてうな づいた。
「じゃ、行くか。月が出る」
 ヘフナーはまっすぐ前に顔を向けて、風の匂いを確かめているようだった。 それからグラブをきゅっと引っぱって、ひらりと雪洞を飛び出した。谷の向こ うで、月が白い夜を照らし出したところだった。










 ドアを開いた途端にソファーが投げ飛ばされて来たのだから――たとえ一人 掛けでも決して軽いものではない――男たちが度肝を抜かれたのは当然だっ た。ドアノブに手を掛けていた先頭の男は何が起きたのかもわからないまま廊 下に弾け飛んだ。
「野郎ーっ!!」
 丸腰だからと言って安心できる相手ではないのを彼らは今イチ理解しつくし ていなかったようだ。そして理解した時には既に遅かった。部屋の中の惨状を 目に止める前に、若林のタックルと若島津の蹴りをくらってまとめてなぎ倒さ れる。
「その階段だ!」
 言われなくてもわかる、という顔で、若島津は薄暗い廊下から突き当たりの 狭いはしご段を駆け上がる。なにしろここしか進む先はないのだ。
「地下室だったのか…」
 階段を上り切った所にはドアがあった。そっと押し開けると出た場所は玄関 ホールの階段室だった。堂々たる木造りの階段がさらに階上に続いている。
「どっちへ行くんだ?」
 低く若島津がつぶやいた。その肩越しに若林も伸び上がる。
「まったく、シュナイダーの無味無臭にも困ったもんだ…」
 若林のテレパシー能力も万能というわけではない。相手が精神的透明人間な らなおさらである。
「しっ!」
 若島津にひじでこづかれて若林ははっと目をこらした。人影だ。
「さっきのオヤジか!」
 若林は素早く周囲を見渡して、背後の小さなドアに目を止めた。階段の真下 である。
「…本当にお一人でよろしいんですか」
「雪もやんだし大丈夫だ。部下たちも夜中のドライブより、ここでのんびりカ ードでもやっているほうがいいだろうさ」
 それは管理人と専務だった。低く会話をしながらホールに入って来る。
『カードより廊下で寝てるほうがいいんじゃないのか』
 さっき地下で出会った男たちを思い出して若林が一人にやりとする。闇の中 でその若林と額をくっつけるようにしながら若島津がにらみつけた。
『きさま…、いい加減にしろよ!』
『まあ、狭いのは認めるが』
 とっさに隠れたのは階段下の小さな物入れだったのだ。真っ暗でかび臭いそ こは、はっきり言って大きな体の二人が潜むには相当無理があった。
『わざとだな!』
『しょうがねえだろ』
 向き合う格好からなんとか逃れようと体を動かしかけた若島津を、若林は親 切に抱え直してやる。
『それとも出てってあのオヤジにこんばんはを言うか?』
「ヴォルフ様がご自分でいらっしゃらずとも、もう少しすればわしが行きます のに」
「いや、私は自分で彼と話をしておきたいのだ。ここにいては様子もわからな いし、必要があればまた移動させねばならん」
『――彼? シュナイダーのことか?』
 不毛なおしくらまんじゅうをやっていた二人のGKは、外の会話にさっと耳を 澄ませた。
『やつはこの屋敷にいないって言うのか?』
『くっそー、なんてこった』
「君は会長の相手をしてやっててくれ。チェスのことしか頭にないようだから な」
 扉の開く音が響いた。
「わかりました。ではお気をつけて」
 専務の乗った黒のアウディが敷地を出て行くのを見送って、管理人は扉を閉 めようとした。と、背後の気配にはっと振り向く。
「よう、オジサン。ちょっと聞きたいんだが」
 階段の下で若林が腕を組んで立っていた。隣で不機嫌な顔の若島津がこきこ きと首を回している。縛りつけて閉じ込めてあったはずの二人を目の前にし て、管理人は唖然とした。
「お、おまえら…!?」
「シュナイダーを捜してるんだ。いい加減連れて帰らないとな」
 若林はにやりと笑ってみせる。
「で、どこへ迎えに行けばいいんだ?」
 管理人は扉の脇に掛けてあった猟銃に飛びついた。振り向きざま若林たちに 銃を向ける。若林は肩をすくめた。
「そういう返事が欲しいんじゃないんだ。さっきのオヤジさんの行き先をだな …」
「黙れ!」
 管理人は脅すように銃口を振ってみせた。
「あくまで逆らうなら始末しろと言われておる。口を封じるには一番手っ取り 早いからな」
「シュナイダーと違って、俺たちは問題外ってわけか」
 若林はせせら笑う。管理人はキッと険しい顔になって引き金に指を掛けた。
 その時である。
 ぐらり、と足元が大きく揺れた。思わず足を踏みしめて体を支えなくてはな らないほどの揺れだった。
 若林ははっと顔を上げる。余韻のように屋敷じゅうのガラスがびりびりと震 え、その中で目に見えない……気配が動いていた。
「来やがったな…」
 注意深く周囲を見回しながら若林は口の中でつぶやいた。銃を天井に向けた まま呆然としている管理人が目に入ったが、そのまま視線を流して正面の階段 に目を止める。
 カタン、コトン、と小さな音が階段を落ちて来た。3人の目が一斉に注がれ る。それは、チェスの駒だった。
「……!」
 黒のキングが一段ずつ転がりながら床に達したその瞬間、激しいスパークが ホールいっぱいに弾けた。ガラスの破片が頭上から降りそそぐ。
「うわ―っ!」
 管理人は悲鳴を上げて壁に張りつく。ホールは、いや、屋敷中が一瞬のうち に真っ暗になった。照明の電球がすべて砕け散ってしまったらしかった。四方 の窓から外の月明かりが差し込んでこの室内を別世界のように見せている。
『……チェックメイト。王手、だな』
 若林は床のキングを手に取り、ぎゅっと握りしめた。これは明らかに挑発 だ。
 彼らを監視してきた一つの目。ワナを用意し、彼らがそこに導かれるのを、 おそらくほくそ笑みながら見つめてきたその敵が目前にいる。
「若林…」
 肩に手が置かれた。振り仰ぐと、若島津がうなづく。
「ここは俺が片づける。おまえは早く行け」
「…すまん」
 わずかに頬を緩め、そして若林は勢いよく立ち上がった。
 来いと言うなら行ってやる。若林は大きく息を吸うと、弾みをつけて階段を 駆け上がって行った。









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