6章 5










「エリーザベト…?」
 ヘフナーは傍らに目を落とした。彼らの先に立って歩いていた犬が館の方に まっすぐ鼻先を向けて低くうなり始めたのだ。もともとマクスじいさんの家で 猟に使っている犬である。獲物を追う本能は備えているはずだが。
「車の音だ!」
 森崎の耳にはまだ何も聞こえないうちにヘフナーがつぶやいた。犬はその声 を合図のようにダッと走り出す。
「待て、エリーザベト!」
 続いて追おうとした時、ライトが二すじ空を照らし出した。木立ちをぐるり と巡ってこちらに下りて来る。
「…あれが、そうか!」
 ゆっくりと坂に達しかけた黒い車に犬は突進した。ヘフナーと森崎も急いで 駆け出す。
「あれ、って、ヘフナーの村に来た車のこと?」
「見ろ、このタイヤの跡を」
 ヘフナーは走りながら足元を指した。月明かりに、雪の路面に残されたタイ ヤの模様がくっきりと浮かび上がる。見覚えのある跡だった。
「エリーザベト、やめろ!」
 突然視界に飛び込んできた白い影に驚いてか、アウディは急ハンドルを切っ た。反転した形で木立ちの間に停車し、乱暴にドアが開く。
「なんだ、おまえたちは!?」
 飛び出して来た専務の手には銃が光っていた。ヘフナーはようやく追いつい た犬の首をしっかりと抱き寄せる。3人が黙って向き合ったその時…。
 その場の空気がはっと凍りついたように緊張した。次の瞬間大地が大きく揺 れて、ものすごい勢いで足元の雪が噴き上がる。目の前は真っ白に閉ざされ、 沸き起こるつむじ風の衝撃が全身を打つ。まるで氷の滝に叩き込まれたようだ った。
「くそ…」
 ヘフナーは腕で顔をかばいながら周囲を見渡した。荒れ狂う雪のカーテンを 透かして建物の黒いシルエットがおぼろに見える。姿のない攻撃者のシュート レンジに既に入っていたのだ。
「う、わぁあああっ…!」
 専務が叫び声を上げた。恐怖に顔を歪め、明らかにパニックを起こしてい る。一度取り落としかけた銃を震える手で握り直し、いきなり乱射し始めた。 形のない白い魔に向けて。
「ヘフナー、危ない!!」
 森崎の必死な声がヘフナーに飛ぶ。専務の銃が誰に向けられているのかを見 て取った森崎は反対側から走り寄ろうとした。
「モリサキ、やめろ!」
 ヘフナーが制止するより先に、専務は森崎に気づいて向き直った。その姿が 何に見えたのか、専務は怯えた顔で銃を構え直すと闇雲に発砲した。
「わーっ!」
 森崎はとっさに地面に伏せる。雪に顔を突っ伏したその頭の上を銃弾はかろ うじて通り過ぎたようだった。その耳に犬のうなり声が聞こえ、顔を上げたと ころにヘフナーが専務に横から飛びかかったのが見えた。最後の銃声が鈍く響 き、二人はもつれ合って雪の上をごろごろと転がった。
 と、空気の流れが変化する。渦となって頭上高く吹き上がっていた雪の壁 が、空中で突然力を失ったようにゆっくりと崩れ始めたのだ。銀色の破片が明 るい月の光を浴びてスローモーションで降りかかってくる。それは幻想的で美 しく、そしてぞっとする光景だった。
「…ヘフナー!?」
「バカ野郎っ!」
 身を起こした森崎に、ヘフナーはいきなり怒鳴りつけた。
「何度言ってもわからないんだな、おまえは…!」
「ヘフナー?」
 あまりの剣幕に森崎はあっけに取られる。ヘフナーは専務をぎゅうぎゅうと 押さえつけておいて、その手の銃をむしり取った。
「俺は自分のことだけでいつも手一杯だ。他人のことなんぞ構う気は毛頭ない し、そんな余裕もない。俺には俺の守るべき場所があるし、他人のまで構って やれやしないんだ…」
 ヘフナーは押え込んだ専務が既に伸びているのに気づいて、放り出すように 体を離した。
「俺はおまえを見てると情けなくなるぜ」
 そう吐き捨ててヘフナーは立ち上がった。もう後も見ずに屋敷に向かって足 を早める。森崎は急いで後を追った。
「だいたい面倒見のいいキーパーなんぞいるものか。ワカバヤシがそうだとし たら、それはあいつがバカだからだ」
 坂を駆け上がっていくヘフナーの足が次第に遅くなるのを森崎は見た。はっ としてその足元に目をやる。だがヘフナーは挑むように前をにらんだまま、な おも走り続けていた。
「……ヘフナー!」
 また怒鳴られると思いつつも森崎は声をかけずにいられなかった。ヘフナー の踏んだ跡の雪に、点々と小さな血が見えたのだ。
「止まれよ! ケガしてるんじゃないのか?」
 速度は落ちていたがヘフナーは頑として進むのをやめなかった。歩きながら 無言で自分の足元を見る。
『バカとはずいぶん言ってくれるな、ヘフナー』
「…若林さん!?」
 突然の声に森崎が叫ぶと、ようやくヘフナーはその場に足を止めた。屋敷の すぐ正面である。
「俺が間違ってるとでも言いたいのか?」
『いやあ、おまえに言われると笑っちまうってことさ。森崎を大事に抱えて回 ってたのは誰だよ』
「あ、あのー」
 自分のことで言い争っているのが今イチわかっていないのか、森崎はそーっ とヘフナーに近寄って側にかがみ込んだ。
「ヘフナー、いいから足を見せてくれよ。手当てをしないと…」
「いらん! 俺は大丈夫だ!」
 ヘフナーは駄々っ子のように足を踏み鳴らした。森崎の顔がくしゃっとな る。
「ご、ごめんよ、ヘフナー。俺がドジったせいで…」
「あー、よせよ。俺が腹を立ててるのはおまえのドジにじゃないんだ」
 ヘフナーはどうしようもないというように大きく腕を振り上げた。
「いいか、モリサキ、おまえはな……おまえは俺なんかとても及ばないくらい の能力を持ってるんだ。おまえが自分で気づいてないだけなんだぞ…」
『ヘフナー!!』
 若林の非難するような声が頭の中で響くのも構わず、ヘフナーはさらに続け る。
「あとはおまえがそれを自覚して、使い方さえ覚えれば…」
 森崎はさっきからのヘフナーの勢いにぽかんと目を見開いていたが、やがて ふっと寂しそうに微笑した。
「ヘフナー、慰めてくれなくていいよ。俺、慣れてるから、こういうの」
「違うって、俺が言ってるのは…!」
「いいんだ」
 さらに言い募ろうとするヘフナーに森崎は手を伸ばし、その首を抱き寄せ た。
「おまえっていいヤツだな、ヘフナー」
「……おい」
 ヘフナーは目を見開いた。
「分をわきまえる、って言葉があるけど、俺、そんなのはやだっていつも思っ てるんだぜ。そうは見えないかもしんないけど」
 森崎は一人でくすっと笑った。
「身の程知らず、ってのが俺のモットーなんだ」
「モリサキ…」
「俺も行くから、一緒に」
 森崎は体を離してヘフナーとまっすぐ向き合った。
「いいだろ、ダメだって言ってもついてくからな」
 たっぷり数秒の間を置いてから、ヘフナーは大きな大きなため息をついた。
「勝手にしろ。ただし何がどうなっても俺は手を出さんぞ」
 ヘフナーは力任せに森崎の頭を押さえつけた。ぐりぐりやりながら若林に呼 びかける。
「聞いたろ、ワカバヤシ。おまえの幼なじみはこの通りロバ並みにガンコな野 郎だ。もうおまえの手は借りないって言ってるぞ」
「えっ、違うよ、ヘフナー。俺、そんなつもりは…」
「いいんだよ、森崎。そいつらはしょせんはただの親バカだ」
 館の玄関が突然開いて、二人はぎょっと振り返った。そこに姿を現わした若 島津が、片手に引きずっていた管理人を雪の上にぞんざいに投げ出す。
「こいつも仲間だ。さんざ俺たちの妨害をしてくれた、な」
 ヘフナーは反対側で車の脇にへたり込んでいる専務を見やった。ただ呆然と していた専務は、目の前に転がり出た管理人の姿にようやくはっと我に返った ようだった。
「ほう、そうか。そういうことなら正直に答えてもらうしかないな」
 大きな体格以上に、ヘフナーのその表情には言葉に尽くせない凄みがあっ た。管理人はにらみ返そうとして挫折する。
「シュ、シュナイダーはわしの山小屋だ。この上の尾根にあって、見張りをつ けてある。危害は加えとらん、本当だ!」
「…だとさ、ワカバヤシ」
 ヘフナーはそんな管理人にあっさりと背を向けて、若島津の立つ扉にゆっく りと歩み寄って行った。
「で、そっちはどうなってる。俺たちをここまで振り回してくれたじいさんっ てのは…?」
『ああ、ヤツはこの屋敷の奥で…』
 言葉はとぎれた。もう一度、それはとてつもなく激しい揺れだった。今度こ そ屋敷全体が壊れるかと思われるほどぎしぎしと不気味な音が縦横に走る。窓 のガラスはとうとう砕け落ち、部屋の家具なども次々と倒れていった。
「ワカバヤシ!!」
 会話の途中でぷっつり気配が消えた相手の名を叫びながらヘフナーが中に駆 け込もうとした。と、その体を背後から引っぱる手があった。
「待って…、待ってくれ!」
「モリサキ?」
「あの子なんだ! あの子が、ここにいるんだ!」
 必死な顔で自分の腕にしがみつく森崎をヘフナーは不審げに見下ろした。
「あの子って、おまえが一緒にいたっていう…?」
 若島津の声に、森崎はこくんとうなづいた。
「俺、ヘフナーみたいにレーダーやれる力はないけど、これだけはわかる。… あの子、確かにこの家の中にいる。攻撃しちゃダメだ!」
 ヘフナーは困惑した顔で森崎と、次いで若島津に視線を向けた。
「会長自身がESPの使い手なのは間違いない。だが、たとえ無理強いにせ よ、俺たちを攻撃してくるこの力をその子が担当しているなら…」
 若島津の言葉に、森崎は強情に首を振った。
「だ、ダメだ! 俺、約束したんだ、必ず助けるからって…、自由にしてあげ るって…!」
 屋敷は今や間断なく揺れ続けていた。ホールの片側にあった大時計がついに 狂ったのか、斜めにかしいだまま奇妙な響きで時を告げ始めた。
「だが、会長はどうする! シュナイダーを追いつめて、俺たちの命まで狙っ た黒幕だぞ。今引き下がるわけにはいかないんだ」
「フリッツのほうが大事だ!」
「モリサキ!」
 時計は10時を打ち、11時を打ち12時を打った。数える者もいないまま さらに13時を打ち14時を打ち、そのねじれた響きはどこまでも止まること はなかった。









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