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「エリーザベト…?」
ヘフナーは傍らに目を落とした。彼らの先に立って歩いていた犬が館の方に
まっすぐ鼻先を向けて低くうなり始めたのだ。もともとマクスじいさんの家で
猟に使っている犬である。獲物を追う本能は備えているはずだが。
「車の音だ!」
森崎の耳にはまだ何も聞こえないうちにヘフナーがつぶやいた。犬はその声
を合図のようにダッと走り出す。
「待て、エリーザベト!」
続いて追おうとした時、ライトが二すじ空を照らし出した。木立ちをぐるり
と巡ってこちらに下りて来る。
「…あれが、そうか!」
ゆっくりと坂に達しかけた黒い車に犬は突進した。ヘフナーと森崎も急いで
駆け出す。
「あれ、って、ヘフナーの村に来た車のこと?」
「見ろ、このタイヤの跡を」
ヘフナーは走りながら足元を指した。月明かりに、雪の路面に残されたタイ
ヤの模様がくっきりと浮かび上がる。見覚えのある跡だった。
「エリーザベト、やめろ!」
突然視界に飛び込んできた白い影に驚いてか、アウディは急ハンドルを切っ
た。反転した形で木立ちの間に停車し、乱暴にドアが開く。
「なんだ、おまえたちは!?」
飛び出して来た専務の手には銃が光っていた。ヘフナーはようやく追いつい
た犬の首をしっかりと抱き寄せる。3人が黙って向き合ったその時…。
その場の空気がはっと凍りついたように緊張した。次の瞬間大地が大きく揺
れて、ものすごい勢いで足元の雪が噴き上がる。目の前は真っ白に閉ざされ、
沸き起こるつむじ風の衝撃が全身を打つ。まるで氷の滝に叩き込まれたようだ
った。
「くそ…」
ヘフナーは腕で顔をかばいながら周囲を見渡した。荒れ狂う雪のカーテンを
透かして建物の黒いシルエットがおぼろに見える。姿のない攻撃者のシュート
レンジに既に入っていたのだ。
「う、わぁあああっ…!」
専務が叫び声を上げた。恐怖に顔を歪め、明らかにパニックを起こしてい
る。一度取り落としかけた銃を震える手で握り直し、いきなり乱射し始めた。
形のない白い魔に向けて。
「ヘフナー、危ない!!」
森崎の必死な声がヘフナーに飛ぶ。専務の銃が誰に向けられているのかを見
て取った森崎は反対側から走り寄ろうとした。
「モリサキ、やめろ!」
ヘフナーが制止するより先に、専務は森崎に気づいて向き直った。その姿が
何に見えたのか、専務は怯えた顔で銃を構え直すと闇雲に発砲した。
「わーっ!」
森崎はとっさに地面に伏せる。雪に顔を突っ伏したその頭の上を銃弾はかろ
うじて通り過ぎたようだった。その耳に犬のうなり声が聞こえ、顔を上げたと
ころにヘフナーが専務に横から飛びかかったのが見えた。最後の銃声が鈍く響
き、二人はもつれ合って雪の上をごろごろと転がった。
と、空気の流れが変化する。渦となって頭上高く吹き上がっていた雪の壁
が、空中で突然力を失ったようにゆっくりと崩れ始めたのだ。銀色の破片が明
るい月の光を浴びてスローモーションで降りかかってくる。それは幻想的で美
しく、そしてぞっとする光景だった。
「…ヘフナー!?」
「バカ野郎っ!」
身を起こした森崎に、ヘフナーはいきなり怒鳴りつけた。
「何度言ってもわからないんだな、おまえは…!」
「ヘフナー?」
あまりの剣幕に森崎はあっけに取られる。ヘフナーは専務をぎゅうぎゅうと
押さえつけておいて、その手の銃をむしり取った。
「俺は自分のことだけでいつも手一杯だ。他人のことなんぞ構う気は毛頭ない
し、そんな余裕もない。俺には俺の守るべき場所があるし、他人のまで構って
やれやしないんだ…」
ヘフナーは押え込んだ専務が既に伸びているのに気づいて、放り出すように
体を離した。
「俺はおまえを見てると情けなくなるぜ」
そう吐き捨ててヘフナーは立ち上がった。もう後も見ずに屋敷に向かって足
を早める。森崎は急いで後を追った。
「だいたい面倒見のいいキーパーなんぞいるものか。ワカバヤシがそうだとし
たら、それはあいつがバカだからだ」
坂を駆け上がっていくヘフナーの足が次第に遅くなるのを森崎は見た。はっ
としてその足元に目をやる。だがヘフナーは挑むように前をにらんだまま、な
おも走り続けていた。
「……ヘフナー!」
また怒鳴られると思いつつも森崎は声をかけずにいられなかった。ヘフナー
の踏んだ跡の雪に、点々と小さな血が見えたのだ。
「止まれよ! ケガしてるんじゃないのか?」
速度は落ちていたがヘフナーは頑として進むのをやめなかった。歩きながら
無言で自分の足元を見る。
『バカとはずいぶん言ってくれるな、ヘフナー』
「…若林さん!?」
突然の声に森崎が叫ぶと、ようやくヘフナーはその場に足を止めた。屋敷の
すぐ正面である。
「俺が間違ってるとでも言いたいのか?」
『いやあ、おまえに言われると笑っちまうってことさ。森崎を大事に抱えて回
ってたのは誰だよ』
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