BITTERSWEET CRISIS                             第1章−1






第1章
9月第4日曜日



1 練習試合





「恨むぜぇ、淳…」
 フィールドにへたり込んだまま反町は上目遣いに三杉をにらみつけた。その三杉は松山を引 っぱり起こしながら笑顔を返す。
「いや、悪かったよ。これほどまで盛り上がるとは予想していなかったものでね」
「…ったくもう、言っただろ。日向さんはこのところずっと荒れてるんだってば」
 その反町が命がけで引き離した東邦のエースストライカーは既に屈強なOBコーチたちに引 き渡されて、ずるずるとベンチ方面へ連行されて行くところだった。
「あの野郎、思い切り蹴り入れやがって…」
 一方の松山もユニフォームをパンパンはたきながらその後ろ姿をにらみつけている。
「あれが本当に思い切りだったら、今頃おまえ病院行きだぞ。そういや先週うちの大学部の先 輩が一人入院させられたばかりだな…」
 いつの間にそばに来ていたのだろう。反対側のゴールにいたはずの若島津健が至近距離から 突然話に加わっていたりする。慣れているはずの反町までが思わず飛び上がりそうになった。
「い、いきなり物騒な話持ち出すなよー。あれはさ…」
「ああ、あっちから先に手を出したのは確かだ。それにしてもだ、今のは日向さんらしからぬ 手加減だったな。何か特別に手心を加えるような関係だとか…」
「こら! 勝手に話をねじ曲げんじゃねえ!」
 日向の最後のシュートチャンスに飛び込んで阻止した松山に、タイムアップの笛と同時に日 向の蹴りが入ったのだ。もちろん松山もそれで黙っているはずがなく、周囲があっけにとられ るほどの乱闘が武蔵ゴール前で繰り広げられたのだった。
 止めようとして巻き添えを食った者数名も既に安全圏に運び去られていた。1−1のタイス コア。今年数回目かの武蔵対東邦の練習試合は結局引き分けに終わったのである。
「そうだね、確かに今のは日向らしからぬ醜態ではあったね。いくら光に久しぶりに会えて心 躍っていたとは言え…」
「おい、淳! おまえまで!」
 松山の抗議は放っておいて、三杉はゆっくりと若島津の方に向き直った。
「荒れていたっていうのは一体いつ頃からだい?」
「ああ、インターハイが終わってまもなくの頃だが。正確に言うなら――先月17日からだ」
 日向小次郎専用データベースを内蔵していると評判の若島津はちょっと間をおいただけです ぐに検索してみせた。反町も手を打つ。
「あ、そうそう、日向さんの誕生日! うん、あの日からだったよな、確かに」
「日向の誕生日、ね。…一樹、東邦のバスが出るまでに日向とちょっと話せるかな」
「時間的には余裕あると思うけど。…ん、淳が直々に取り調べ? これはコワイんじゃありま せん〜?」
 事態に何か含みを感じ取った反町はわざと軽い調子でおどけてみせたが、一人若島津だけは 無表情のまま、立ち去ろうとする三杉を呼び止めた。
「三杉、寝た子を起こすな、だぞ」
「大丈夫だよ」
三杉はいつもの笑顔を若島津に向けた。
「もし起こしてしまったら、また僕が寝かしつけておくからね」












「何だ。説教なら今両耳とも満パイ状態だからこれ以上詰め込むスペースはないぞ」
 日向は医務室のベッドで仰向けに寝かされていた。顔の上には濡れタオルがかけてある。三 杉はそばのスツールに腰を下ろした。
「安心したまえ、君の耳には用はない。ちょっと先月のことを思い出してほしいんだ」
「先月?」
 日向は左手でタオルを持ち上げた。眉の上が少し切れて血がにじんでいる。が、その眼光の 鋭さは猛虎と呼び習わされる彼のいつものそれとはまた別種の殺気をはらんでいるように三杉 には感じられた。
「先月17日。君の誕生日さ。あの日、君はあの電話になんと答えたんだい?」
「三杉…!?」
 日向はがばっと起き上がった。乗せていたタオルが宙に舞う。
「お、おまえ、どうしてそれを!」
 三杉はそんな日向の顔を冷静に眺めてわずかに間をおいてから再び口を切った。
「電話などというものはいつ誰が聞いているかわからないってことを肝に銘じておくんだね」
「若島津か? いや、あいつは知らんはずだ。なら、一体…」
「そんなことは問題じゃないよ。僕の質問に答えてもらおうか」
 日向は探るように三杉の顔を窺った。ここであくまでしらを切り通せるだけの技術と気力、 それが三杉に対抗しうるものかを秤にかけているようだ。もちろん、答えは明白である。日向 はあっさりギブアップした。
「馬鹿なこと言うんじゃねえ、って言ったさ。理由がどうあれ、あいつがこんな半端なとこで 帰国なんかしてみろ、俺たちが今までやってたことは何だったんだ。とにかく結論を急ぐな、 って言ってやったんだ」
 三杉の顔色がここで初めて変わった。
「何だって! 翼くんだったのか、君に電話してきたのは」
「…なんだと! 三杉、おまえひょっとしてカマかけやがったな。電話のことなんか知りゃし なかったんじゃねえか!」
 三杉の誘導尋問にあっさりかかってしまったことにようやく気づいた日向は文字通り牙をむ いてうなった。もちろん既に手遅れであったが。
「電話、ってところまでは僕の当て推量だったが、やっぱりそうか。…しかし翼くんが帰国う んぬんって、そんな大事な話を君だけに打ち明けるとは一体どういうことなのかな」
「おまえにゃ金輪際教えてやらん」
 そっぽを向いた日向にいったん鋭い視線を向けた三杉は、しかしすぐいつもの穏やかな表情 に戻った。そのままあっさり立ち上がる。
「いいだろう。君たち二人のプライベートには口は出さないよ。だが、独占する気ならそれな りの責任も負うってことは覚えておいてくれたまえ」
「三杉…!」
 日向の顔がさっと紅潮した。図星だったに違いない。それこそが彼がずっと苛立っていた理 由だったのだろう。自分自身に対する歯がゆさを持て余した結果が今日の一件だと言われれ ば、否定することはできなかったはずだ。
「あいつは、自分で言ったんだ。助けはいらない、と」
 だからこそ助けてやりたい…。語られないがゆえに、その言葉は三杉の胸にもまっすぐに響 いた。苦しげに視線をそらす日向をじっと見つめた三杉は、そのまま向きを変えてドアに向か う。
「…三杉?」
「わかったよ。君の気の済むようにすればいい。翼くんのことだ、何か理由があってのことだ ろう。今は君に任せよう」
 そっぽをむいていた日向がここでふと顔を振り向けた。少しためらってから口を開く。
「おまえ、岬のこと何か知らねえか? 今、どこにいるかとか」
 見えない何かに突き当たったかのように三杉が足を止めた。
「岬くん、を…?」
「ああ、翼のやつがえらく気にしてたんだが…」
「翼くんが…」
 三杉の顔から一瞬表情が消えた。逆にぽかんとしたのは日向のほうだった。












「ねっ、健ちゃん。これやるからさ」
 差し出されたものはすぐに反町の手から弾け飛んだ。バスの床に落ちた怪しげな雑誌をチー ムメイトたちが醜く奪い合うのは放っておいて、反町は無表情なGKにさらになつきかける。
「…機嫌直しなよ、なっ?」
「うるさい、ペンギン!」
 延々とつきまとわれ続け、ついに切れた若島津は一声吐き捨てた。反町はぱっと身を引く や、口に手を当てて空涙を浮かべてみせる。
「ひどいっ、人がこんなに心配してるのに…。ペンギンだなんて、それは言わない約束でし ょ?」
「――あ〜、二人とも、いい加減にしておけよ?」
 目に留めてもらえないことに慣らされてしまった3年生のキャプテンがもごもごと仲裁に入 る。
「とにかく日向は無事だったんだし…」
「キャプテン、問題はそこじゃないと思うんですが」
 島野がしれっと口をはさんだ。反町と丸2年同室を続けているご立派な根性の持ち主だけは ある。
「プライドがかかってますからね、あいつらも…」
「え?」
 怪訝そうに問い返すキャプテンにはさっさと背を向け、島野は最後部の座席を独り占めして 長々と寝入っている日向小次郎に毛布を掛け直してやる。
「よく眠ってるなあ」
「さすがは日向さん…
 ギャラリーたちのほのぼのとした視線に囲まれて、日向はひたすら深い眠りの中に埋没して いた。いつでもどこでも眠れるというのが彼のサッカー以外の数少ない特技の一つなのであ る。
「俺がペンギンならフィールドプレーヤー全員ペンギンだってばー。東邦のユニフォームがペ ンギン色なのは俺のせいじゃないんだから…。くすんくすん」
「ええい、うっとおしい! 泣き真似はやめろ!」
「……紅白まんじゅう…」
 顔を伏せたまま指の間からぼそっともらした言葉に、若島津はがばっと腕を伸ばし、嘘泣き 少年の首を思い切り締め上げようとする。もちろん周囲からいちはやく人命救助の手が差し伸 べられたが。
「俺が好きで着ていると思うのか!」
 もちろん、彼らは自分のチームのユニフォーム論議で先程からずっともめていたわけではな い。が、直面する問題がシビアになればなるほど、論点がそこからどんどん外れて行ってしま う典型的A型の2人であった。
「あっ、ちょっと、山本先生! 停めてください!」
 若島津の怒気を肩越しにひょいと外して反町が叫んだ。本日病欠の担当運転手の代役に駆り 出された東邦学園のスカウト氏は、このチームにかかわるとろくなことはないとて、帰途につ く彼らの騒ぎには一切耳をふさいで運転に専念していたのだが、反町の鋭い声に反射的にブレ ーキを踏んでしまう。青梅街道を逸れて五日市街道に入り、さらに中央線を越えるべく左折し てまもなくのあたり、緑の多い住宅地の中であった。
「こ、こら、反町! どうする気だ…」
 存在感のない先輩がおろおろと声をかける。
「あ、すいません、キャプテン。ちょっと寄り道…」
 下車した反町は既にバスの進行方向とは逆に向かおうとしている。
「寄り道って、おまえ…!」
「いいですぅ! 自力で帰りますからー!」
 叫び声だけを残して既にその姿は角を曲がって行った後だった。キャプテンはため息をつい て窓から顔を引っ込め、運転席の山本氏と力なく視線を合わせた。
「じゃ、すみません。出してください」
 一人で帰れると言うのなら帰れるのだろう。東邦学園は東京都の秘境中の秘境と呼ばれる山 中にあって、スクールバス以外の公共交通機関はそのふもとまで利用できるのみ、だったとし ても。
 ちなみに今日は日曜日。明日の朝にはいつも通りの授業が行なわれるはずである。
「500円」
「ケチ。俺は1000円だぞ」
「俺は明日の昼メシだ」
 さっそく賭けの対象にして盛り上がり始めた2年生レギュラーたちに肩をすぼめて席につこ うとした気の毒なキャプテンは、ふと目をやった若島津の表情に凍りついてしまった。普段表 情をめったに変化させないこの正GKが、見たことのないような厳しい顔で窓の外をにらみつ けていたのだ。
「反町、覚えてろよ。日向さんのことで俺に隠し事をしようなんて根性は絶対に許せん! た とえ三杉たちとつるんでいたとしてもだ!」
 釘を刺しておいたにもかかわらず、三杉は日向小次郎を起こしてしまった。医務室から戻っ て来た時の彼の様子を一目見て、若島津はそれを察した。しかも反町も間違いなく一枚かんで いる。
 もともと独占しきれる人間でないことは覚悟の上でついてきている若島津だが、そのくせそ れを他人から思い知らされるのは我慢ならないという困った性格なのだった。
 武蔵野の果てに日が傾いていく。窓から斜めに差し込む光に目を細めながら、若島津はおど ろ線をまとわりつかせてただただ沈黙し続けていた。









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