BITTERSWEET CRISIS                             第1章−2








2 ワン・ステップ・アウト





「で、なんだ、これ?」
「対岬用データベースだよ。ここ数年の彼の行動パタンを追ってある」
「ふうん、たったこれだけか。さすがのおまえにも手が出ない領域ってのがあるみたいだな」
 三杉は内心どきっとしたが、平静を装って画面をスクロールし続けた。この松山光はいわゆ る一言多いタイプかもしれないが、それが妙に核心を突くのもまた事実なのである。下手に邪 心や計算がないだけ真実への近道を本能的にかぎ分けているのかもしれない。ともあれ、その 歯に衣着せない言動は本人の意識しない所で周囲を震撼させることがしばしばあった。確かに その発想は牧歌的かもしれないが、頭の回転の速さだけは彼ら4人組の中でも負けてはいない ことを三杉も常々実感させられていた。
「去年10月にソルボンヌに入学する以前となるともうお手上げだね。もっともあそこで騒ぎ になってからも情報は相変わらず限られてるが…」
「でも岬にかけちゃ、世界中のどんな専門機関よりおまえのこれが情報量では上回ってると思 うがな、俺は」
「それはどうも」
「ま、身内だから当然か」
「身内でさえこれだ、って言ってほしいね」
 二人は画面の文字が尽きたのを見て首を振った。
「岬のあの研究論文が注目されたのが9ヶ月前か…。あいつのデータバンクを想像すると空恐 ろしいけどよ、俺にはあいつ自身の人間性のほうがよっぽど謎だな」
 三杉は無言で首を巡らし、背後に立つ松山と目を合わせる。それを受けて、松山はニッと笑 った。
「ああ、もちろんおまえのも、だぜ」
 彼らの不幸がこの国際レベルの天才と同じ顔に生まれついたことから始まったのは事実だ が、そのセンセーショナルな国際政治学研究者が常に大小1ダース以上のトラブルを抱えて彼 らの前に出没することがその不幸を拡大しているのも疑いの余地はなかった。
「――光栄だね」
 三杉の笑顔はいわば彼の鎧であり砦でもあった。もちろん、それが松山には通用しないこと は彼もよく承知している。
「俺、おまえのその強いとこが好きなんだ」
 捨て台詞にしてはやけに可愛い告白を残して、松山はドアの向こうに消えて行った。
「君こそ素敵だよ」
 遠慮知らずで、向こう見ずで、薄情なくせに熱くなりやすい――そんな厄介な人間がこんな にも自分の心に安息を与えてくれることに内心驚嘆しながら、三杉は閉じられたドアに向かっ て知らず微笑を投げていたのだった。












 198×年秋、パリ日本人学校中等部を卒業した岬太郎がその歳で大学入学資格であるバカ ロレアにあっさり通りパリ大学ソルボンヌ校に入った時には、日本の元チームメイトたちも思 わず嘆息したものの、そうセンセーショナルな騒ぎには至らなかった。まああいつならやりか ねん――という見方が大勢を占めていたし、何より彼らの思考回路は、一緒にプレイができさ えすればフィールド外のことは関知しない、という実におおらかな哲学に支えられていたから だ。
 しかしそのたった2ヵ月後、世界のトップニュースに彼の名を見出した時にはさすがの彼ら もあっけにとられたものだ。超大国による第三世界への武器供与の実態とその裏にある不法融 資の存在を様々なデータに基づいて実証してみせた一論文が文字通り世界を揺り動かしたので ある。国際監査機関の緊急調査によってその指摘が事実であったことが発表されるや、その論 文の主に世界中の視線が集まったのは当然と言えよう。大学側は人権上の配慮からその名を明 らかにすることを拒んだが、世界各地からの取材攻勢と一部政治上の圧力には勝てず、それが 弱冠16才の日本国籍の学生であることを明かし、その恐るべき事実はまさに世を震撼させた のである。
「でもよ、それであいつ、来年のオリンピック予選には顔出せるのか?」
 第一報を耳にして松山が言ったのんきな一言はその場に集まっていた元Jrユース代表選手 たちを呆れさせたものだったが、実のところ内心では誰もがそう変わらないことを考えていた はずである。多少規約が緩くなったとは言え、アマチュアスポーツの祭典であるオリンピック なだけに、既に外国でプロとして活躍している翼と若林の参加資格問題が彼らの当面の悩みの 種となっていた時だったから、これに加えて岬までが参加を危ぶまれるとなると大きな痛手と なるのは間違いなかったのだ。
 しかしその危機は長くは続かなかった。チームの面々が集まっているちょうどその場に国際 電話が入り、話題の中心人物から直々に参加の意思が表明されたのだ。いわく――、
「ボクは出るからね。どんな妨害があったとしても」
 短いその言葉の中に、全員が彼の真意を聞き取った。つまり、『翼くんのためなら…』であ る。それは心強い宣言であると同時に一つの脅しでもあった。翼くんが出なければボクも出な い…。翌日、彼の言葉をさっそくサッカー協会にそのまま報告した彼らの根性もなかなか見上 げたものである。もしそういう事態になれば岬は自分ばかりかドイツ方面にもそれなりに手を 回すことは明らかで、この無言の圧力ならぬ笑顔の圧力のおかげで、10代ばかりの代表チー ムなどという恐ろしい事態を目の前に動き渋っていた協会も、あわててオリンピック委員会に 走ることになったのだった。
 だが、それを最後に、岬の消息は彼らはもちろん世界各地のどんな人物にもどんな組織にも 定かにつかむことはできなくなった。
 いつものように大学の講義には顔を出し、サッカーのトレーニングも欠かすことはなく、プ ライベートな友人たちとの付き合いも続け――つまり必要最小限の「日常生活」パタンを変え ることなく、なおかつ行方不明であり続けるという離れ技をやってのけたのだ。
 大学進学を機に父のアパートを出て既に独立していた彼は、事件の後すぐまたどこへともな く居を移し、それきりどこに住んでいるのか知る者はない。主な出没スポットをあらかじめ押 さえていても、そうすると必ず裏をかかれるという具合で、要するに完全な神出鬼没というわ けだった。
「こんちは」
「やあ」
 一人ぽつんとバス停にたたずんでいた岬は、特に驚いた様子もなく振り返ってそう応えた。
「どしたの、こんなとこで」
 隣に立った反町も、ごくさりげなく質問する。
「うん、人に会いに来たんだけど、留守だったから帰るとこ」
「ふうん…」
 バスの時刻表に一緒に目をやりながら、反町は頭の後ろで手を組んだ。
「昨日さ、俺たちおまえと間違えられて、お客さんの相手したんだよね」
「うん、知ってる」
 反町はぱっと振り向いて岬の顔を見た。岬はうつむき加減に少し首を傾け、宙を見つめてい る。直接こうして会うのは実に1年ぶりになるこの少年は、相変わらずきゃしゃで小柄で、と てもあの国際指名手配並みの有名人とは見えない。ここまで一般社会の普通の風景に普通に溶 け込んでしまえるというのは、ある種の才能かもしれなかった。そして今の岬にはそれが何よ りの必須アイテムなのだ。
「へぇ〜、千里眼」
「ごめんね」
「おまえのせいじゃないさ。どうやら人違いを装って俺たち自身を狙ったってふしもあるし」
 岬は大きく目を見開いて反町をまっすぐ見上げた。
「三杉くんがそう言ったの?」
「ああ」
 また何やら考え込んでしまった岬をじっと見てから、反町はぐーんと伸びをして空を仰い だ。
「じゃあ、あれもそのクチかな」
「…そうみたいだね」
 お互いのんびりと空を見上げながら言葉を交わす。
「でも成田までくっついて来てたのとは違う顔だ」
「…おまえもたいがいカタギじゃないよなー」
「認識の差じゃないの」
「どこがー!」
「しっ、来るよ」
 二人が同時に振り向くと、早足で歩み寄ってきたその男たちはギョッとして足を止めかけ た。無理もない。これではムジナ並みである。
 その一瞬のスキを突いて二人はくるっと向きを変え、脱兎のごとく駆け出した。バス通りと 細い脇道が放射状に交わる6差路が目の前にある。そのすぐ手前に間口の非常に狭い本屋があ るのを見て、二人は迷わず飛び込んだ。
「くそっ!」
 続いて駆け込んだ男たちは舌打ちをした。この店は裏側の路地にも間口を開けていてそのま ま通り抜けができる造りになっていたのだ。それに気づいてそのまま飛び出して行く。
「これこれ坊やたち、立ち読みはいけないよ」
 店番のおばあさんが、足元の書棚にしゃがんでいる二人に声をかけた。
「はあい、ごめんなさい」
 坊や扱いされたのが嬉しかったのだろうか、岬はそうして店を出てからもクスクス笑いをな かなかやめなかった。
「知ってる? 向こうじゃ僕、いつも20代くらいに思われてるんだよ」
「えーっ、嘘だろ!! 日本人は若く見られるってのが普通じゃん?」
 永遠のベビーフェイスとさえ言われる岬は、実は4つ子カルテットの中でも一番早い生まれ だ。反町とは3ヶ月近い差があるはずである。
「裏を読みすぎなんだ。日本人は見かけよりずっと若い、って話を信じてるもんだから、逆に 見たままの歳に加算しすぎちゃうわけ」
「…ああ、ま、そりゃおまえ相手だからさ。あの現代版預言者が16、7だなんて誰も信じた くないからな」
「うん、たぶんね」
 二人は追っ手がまだこのあたりにいることを考慮して道路から少し入ったクヌギ林に入り込 み、並んで仰向けに寝そべっているところだった。夕方の静かな風が心地よく顔をなでて行 く。
「まだドングリにゃ早いかな」
「いいね、日本は。一瞬一瞬が季節なんだもの」
 岬は落ちてきたクヌギの葉を一枚、目の前にかざした。反町は横目でそんな岬を見やる。
「時々さ、俺、疑っちゃうんだよね。おまえが本物の岬太郎なのか」
「なに、それ」
「誰も本当のところのおまえを知らない。なら今ここに岬太郎の姿をして岬太郎を名乗ってい るこの男が本当の岬だって誰が言える?」
「案外本人も自信なかったりしてね」
 岬は片目をつぶって意外にあっさり受け流す。
「周囲(まわり)からあんまりあれこれ言われてると他人の定義と自分の定義が離れすぎちゃ ってね。――だけど、これが岬太郎だってきちんと鑑定してくれる人物が世界にただ一人いて くれるんだ。…信じる?」
「おまえがそう信じているってことだけはね」
 岬は今度は真面目な顔になって反町の顔を覗き込んだ。
「そう、僕は信じたいんだ。いや、信じていなければいけないんだ、いつだって…」
 二人の胸に、真っ青な空のイメージが広がる。その幻の空の下でとびっきりの笑顔を見せて いる少年の姿は、しかしなぜかぽつんと孤独であった。
「僕は僕を信じない。だけどたった一人でも誰かを信じることで、どんな状況にいても確かに 生きて行けるんだ」
「うーん、既に信仰だね」
 反町はつぶやいてからがばっと身を起こした。
「知ってるか? この俺も実は反町一樹の皮をかぶってるだけだってこと」
「そう? まさか虎の威を借る狐…とか言うんじゃないだろうね」
「まさか、日向さんがそんなもん貸してくれるもんか。自分の分だって持て余してんだから」
 くすっと笑いをもらす岬であった。
「そ、か。小次郎らしいね」
「あのな、俺にこう言ったヤツがいたんだ」
 反町は声を低めて岬ににじり寄り、くだんの島野正の口真似をするべく大きく息を吸った。
『おまえ、ほんとは反町一樹じゃないな! 反町の皮をかぶった好奇心だろう!』
 一瞬あっけにとられた顔で反町を見つめてしまった岬は、すぐ笑い崩れた。
「いい友達がいるんだね。目がよくて、その上正直だ」
「うん、俺もそう思うよ」
 幸せな表情で二人は立ち上がった。服についた草を払ってあたりを見回す。さすがに暮れ始 めると早い。
「じゃ、とりあえずはうちに来る?」
 くるっと向きを変えて反町は言った。
「そうだね。迷惑でないなら…」
 反町は意味ありげにニヤッと笑うと先に立って歩き始めた。その後をゆっくりと岬がついて いく。
「嬉しいね、おまえにも迷惑の概念があるってわかって…」
「うん、日本語って難しいよね」
 この二人に関して言えば、口が減るということには縁がなさそうだった。









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