BITTERSWEET CRISIS                             第1章−3








3 天使の右手





 ドアを開けたその鼻先で、ショートヘアーの少女が大きな目を見開いていた。
「あ、あら! あらあら。山に戻ったんじゃなかったの、兄さん」
「え…と、あの…」
 さしもの岬も見事な先制攻撃に言葉が出ないようだった。その背後からぬっと身を乗り出し た反町が怖い顔を作ってみせる。
「こら、葉月! たった一人の兄の顔を忘れるな!」
「あらー、そっちが本物なの? なあんだ。めったに山を降りてこないんじゃ忘れられても文 句は言えないんじゃない?」
「こいつ、知ってて言ってたな…!」
 喧嘩なのかじゃれあいなのかわからない二人の様子を、岬は当惑顔で眺める。
「さ、上がんなよ、岬。遠慮はいらないからさ」
「うん、じゃ…」
 実は玄関に置く花を活けていた最中だったらしい反町の妹は、残骸と道具を手早く片付けて 二人の後を追ってきた。
「ねーねーねー、兄さんってば! いつの間に増殖したの?」
 追いついてちゃっかり岬の横に並ぶと、その顔を興味深そうに覗き込む。その無邪気なしぐ さは確かに反町家の血筋だった。外見的には反町とあまり似ていないものの、よく動く大きな 目が可愛いその少女がすぐ目の前に顔を寄せてくるのに閉口して、岬はただ笑顔を返すしかな い。
「おい、岬が困ってるだろ。失礼だぞ、初対面の相手に」
「初・対・面ー?」
 葉月はいきなり大きな声を上げると力いっぱい笑いこけた。
「言わせてもらいますけど、私、この顔とは生まれた時から付き合ってるんですからね。初対 面だなんて、思えっていうのが無理!」
 反町もさすがにあきれた顔で妹と岬の顔を交互に見やり、肩をすくめた。
「そんなに似てるかなぁ。俺たちはそこまで自覚ないんだけど…」
「第三者からはそうなのかもしれないね…」
 岬は淡々と答えながら、反町に続いて居間に足を踏み入れた。
「どうぞ、兄さんのドッペルゲンガーさん。…それとも兄さんがあなたのドッペルゲンガーな のかしら?」
 なんという素早さなのだろうか。葉月は居間のテーブルに白いティーセットを並べてにっこ り見上げている。その笑顔は確かに特上の可愛さなのだが、言葉がいちいち鋭い。相手が岬で なければこの時点で刺し傷だらけになっていたことだろう。
「ありがとう。自己紹介が遅れたけど、僕は岬太郎といって君の兄さんとはオリンピック代表 チームで一緒させてもらう予定です。よろしく」
 そつのない岬の挨拶に、葉月の目がまたくるくるっと動いた。
「あなた、フランス語なまりがあるのね。あちらにいたの?」
 岬は苦笑を浮かべて反町を振り返る。それを受けて反町は片目をつぶって見せた。
「あまり相手にするなよ。こいつってば野性のカンだけで生きてるんだから」
「君とそっくりだよ。前置きもなしに急所を突いていきなり致命傷を負わせるんだ」
 反町の口元にまたいたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「おまえがそう簡単に自分の急所を明かすとは思えないけどね。…でも、ま、おホメの言葉と とらせてもらうかな」
 熱い紅茶を一口すすって、反町は今度は妹に声をかけた。
「母さんはまた泊まり?」
「そうよ。急な事件らしくて政治部の人手が足りないって、駆けつけてったわ」
「永田町?」
「ううん、編集局のほう。ただし今はどこか知らない。夕方電話があったけど、本社じゃなか ったみたい」
「ふーん」
 反町はちょっと考え込むようなしぐさをしたかと思うと、ぱっと顔を上げ、意味ありげに岬 を見た。
「そりゃ残念だ。母さん感激したろーにな、あのミサキがうちに来たとなりゃ」
「あの、って?」
「反町、それはいいから」
 あわてて岬がさえぎるが反町は耳を貸さない。
「おまえは知らんだろーがな、こいつはソルボンヌですっごい研究してる有名人なんだぜ」
「反町!」
「えー? うっそー!」
 葉月は目を丸くした。
「ふーん、人は顔で判断しちゃいけないのねぇ…」
「こら、どーゆー意味だ、それ!」
「さっきの取り消すわ。兄さんと岬さんて似てない! 知性ってしっかり顔に出るもんねー」
「おいっ、葉月!」
 反町がなぐりかかる真似をした時、居間の電話がけたたましく鳴り始めた。玄関にあった家 庭用のほうではなく、黒い旧式の電話である。兄妹の顔がさっと引き締まった。
「兄さん…」
「ああ」
 反町はさっと席を立ち、受話器を取った。先程までの軽い表情とはうって変わった緊張した 面持ちで先方の言葉に耳を傾けている。
「…じゃ、最後に連絡があったのが今朝だったんですね。…はい、わかりました。何かわかっ たらまたよろしく」
 受話器を置いた反町に、葉月がぱたぱたと駆け寄った。
「何だったの? 父さんに何か?」
 反町は目で制すると、さっと岬に視線を向けた。
「岬、おまえのメインコンピュータにすぐアクセスできるか? 緊急に分析してほしいことが できたんだ」
「回線があるなら…」
 うなづいた反町は岬を引っぱるように2階へ駆け上がった。
「ねえ、君のお父さんって確か通信社の中米担当特派員だったよね。…じゃ、まさか!」
「そうだ」
 パソコンに電源を入れる手がぴくっと揺れる。岬のトーンが跳ね上がった。
「N国にクーデターが起きたんだね、軍部の!」
 電話を聞いていなかった岬がなぜそれを断言するのか、それを追及する意味のないことを反 町は知っていた。
「まだ政府内部の武力衝突の段階で情報が途絶えてるそうだ。大統領の消息はつかめない。親 父は今朝、日本の本社にそこまで連絡入れた後、一人でN国に向かっちまったって言うんだ」
「待ってよ、今…!」
 岬の声がかすれる。
「今、翼くんがいるんだ、あの国に! 大使館に保護を求めてってるはずなんだ…!」
 反町はぎくりと立ちすくんだ。そしておろおろと周囲を見回す。
「淳に、淳たちにも知らせなくちゃ! すぐ来るように連絡しよう!」
 反町はそう叫んで部屋を出て行こうとしたが、岬は振り向きざまその腕にしがみついて止め た。その顔は既に真っ青である。
「ダメだ! 今、三杉くんが動いちゃいけない! 彼は…彼は命を狙われてる!!」
「なん…だって?」
 反町は思わず耳を疑った。
「僕の、せいなんだ…」
 そして、岬は崩れ落ちた。












 どこかで鐘の音が聞こえる。あれはアンジェラスの鐘(夕方の祈りの鐘)だろうか…。カト リックの国に暮らして1年半になろうとする翼は、もうろうとした頭でそう考えていた。
「助けに来て、岬くん――」
 また意識が遠のきかける。夢と現実の境で、翼は岬の声を聞いていた。
「…ねえ、何て言ってるの? 俺、よく聞こえない……」
 壁にもたせ掛けていた右腕がずるりと下に落ちた。口の中の血の味が翼の意識を最後のとこ ろでとどめているのかもしれなかった。またわずかに顔を上げる。
「…あれ? 岬くんじゃないの? 誰…?」
 薄れる視界の先に人影が動いていた。ガレキを手で注意深く取り除き、少しずつこちらに向 かって進んで来る。
「…ツバサ!」
 聞き覚えのある声だった。しかし、記憶をたぐり寄せようとする前に、翼の意識は遠のいて 行った。









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