4 メッセージ ―警告―
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「またか…」
三杉は実行キーを押した指を宙に浮かせたままつぶやいた。
「ここになら手がかりがあると思ったんだが…」
パソコンのモニターには「該当項目なし」の表示が出ていた。三杉はそのまましばらくそれ
を凝視し、手だけを横に伸ばしてコーヒーカップを取った。
「岬くんが帰国しているのは100%間違いはない。なのに、どうしてどこにも足取りがない
んだ。あのオフィスと接触した形跡さえないというのは…」
既に冷めてしまったコーヒーを一口含んで、三杉は眉を寄せた。先程から今回の件を巡る
様々なキーワードを試して岬につながるルートを探ろうとしていた彼だが、前日の襲撃者たち
が残した電話番号を含む新たなデータを色々な組み合わせて岬の行動シミュレーションを試し
てはその度に壁にぶつかっていた。
「もしかして、今回岬くんの向いている先は外部の敵じゃないとでも?」
当初大学当局が懸念した通り、岬の研究には学術的な価値とは別の、非常に政治的な影響力
が付随することになった。研究に対して、また岬自身に対して、干渉、圧力、時には危害さえ
加えかねない状況が現実に存在する。今回の岬の帰国が何を目的とするものかを問う前に、既
に起こりつつある不穏な流れがその原因なのかあるいは結果なのかを考えねばならないのだ。
三杉は頭を一振りして立ち上がった。部屋を斜めに横切ってコーヒーポットの乗っている保
温プレートに歩み寄る。深夜、家人を煩わせるのを厭って自室に持ち込み揃えていった一式
は、既に簡易キッチンと言ってもいいほどの充実ぶりで、いつか松山が笑って言った、
「まるでマッドサイエンティストの実験室だな」
という言葉とは裏腹に、コンピュータシステムと書棚一杯のファイル群や資料で埋もれたこの
実用一点張りの部屋の中で唯一人間的な温もりを与えているとも言えた。もっとも三杉にとっ
てはこれも「実用」の一つに他ならないのだったが。
新しくコーヒーを入れ直してその場で口に運びかけた三杉は、目の前のカーテンが一瞬ライ
トに照らし出されたのを見てぎくりと身を硬くした。窓越しに響いたのは確かにバイクの排気
音だったのだ。
「おいっ、まさか…!」
窓に駆け寄って片手で乱暴にカーテンを払い、外を窺う。門扉を抜けて消えていったテール
ランプは紛れもなく松山の愛車、ホンダCBR400RRのものだった。
「おや、淳ぼっちゃま…」
珍しく大きな音を立てて階段を駆け下りてきた三杉を見上げて、住み込みのばあやさんが驚
いた顔をした。
「いかがなさいました。こんな時間に騒がしくなど」
「今、光が出て行ったろう!」
珍しいと言えば、三杉がここまであわてているところを見せること自体めったにないのを知
っているばあやさんは、少しいぶかしげに答えを返した。
「はい、先程お電話がありまして、それでお友達のところへ出かけると、今しがた…」
「友達って、誰だ!?」
「そこまではうかがっておりませんが」
ばあやさんは玄関ホールを横切って、反対側の壁にあるパネルを操作した。ガレージの扉の
開閉をするスイッチである。
「今夜は帰らないと言ったのか?」
「さようでございます。淳ぼっちゃんに知らせる必要はないから、とのことでしたが。ご存知
ではなかったんですか?」
ばあやさんは淡々とそう答えながら三杉家の戸締りを全て済ませると、また三杉の前に戻っ
て来た。この義理の双子の常日頃の行動パタンは、たとえ突拍子もないものであったとしても
三杉家の者たちにとっては文字通り日常茶飯事のことであり、高校生がこんな時間にバイクで
出かけて行ってもとりたてて心配する様子はない。これが家風というものなのかどうかはとも
かく、かつては心臓を患う息子の身を何かと案じていた母親も、1年半前に息子がもう一人家
族に加わって以来、打って変わった余裕ぶりを見せていた。よもや「一人に何かあってもまだ
スペアがある」などと考えているわけはないだろうが。
「そうか、わかったよ。驚かせて悪かった。じゃ、おやすみ」
あえてさりげなく、しかし足早に三杉は自室に戻った。松山がこんな時間に出て行くとすれ
ば原因は一つしか考えられない。岬の一件である。だが、なぜ一人で行かねばならなかったの
か…?
「僕に黙っていろだって? どういうつもりだ、一体」
三杉は後ろ手にドアを閉めてそのまま大きく息を吐いた。そしてゆっくりとデスクに視線を
投げたところではっとモニターに釘付けになる。
先ほどそのままにして席を立っていた間に、新着メッセージが来たというウィンドウが出て
いた。三杉は急いで駆け寄ると、そのメッセージを開く。
『淳、気をつけろ。どんな挑発にも乗るんじゃないぞ。コロサレルゾ!』
――殺されるぞ!?
三杉の頭の中でその言葉が螺旋状にくるくると舞った。
「殺される…?」
口に出して、改めて絶句する。目だけが機械的にその先を読んでいった。それは反町からの
緊急の連絡だった。
『――岬は今俺の自宅にいる。それと、翼がクーデターに巻き込まれたらしいって情報が親父
の会社から入って、今こちらで続報を追ってるところだ。すぐ連絡をくれ。ただし家から一歩
も出てはダメだ!』
「岬くんが? それに翼くんがクーデターにって――何なんだ、一体!」
この時間帯なら三杉がコンピュータに向かっている確率は高いと見たのだろう。それに岬と
事件の情報を追っているなら電話よりも自分もパソコンから離れずにいたほうが都合がいいは
ずだ。
三杉は急いでキーボードを叩いた。
『僕だ。一体どうしたんだ。事情を説明してくれ』
チャット回線に切り換えてすぐに「会話」に入る。
『ああ、やっとつかまった。なかなか出ないからどうしようかと思ってたよ。無事でよかっ
た』
高速回線でもオンラインの「筆談」のわずかなタイムラグは避けられず、あせりが募る。
『翼くんがどうしたって? それに僕が殺されるとはどういうことだ』
『岬が言ったんだ。おまえが狙われてるって。動き出すのを待ち構えてどうにかするつもりで
いるらしいから、自重しててくれよ』
三杉の背を冷たいものが走った。では、さっき出て行った光は…!
『光が、つい今しがた僕に無断で出て行ったんだ。どこかからの電話を受けて。君からじゃあ
ないんだな!?』
『ほんとか! 違う、電話は俺たちじゃないぞ。まさか光、おまえの代理で出てったんじゃな
いよな…』
反射的に三杉は先ほどライトが横切った窓に目をやった。ほんの1時間ほど前、最後に聞い
た松山の言葉が耳に蘇る。
――おまえのその強いとこが好きなんだ。…スキナンダ。
「――!!」
開けたままの窓からわずかに入る風がカーテンを揺らし続けている。その外は深夜0時を回
った静寂の闇だった。
三杉は知らず椅子を倒して部屋の中に棒立ちになっていた。
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