BITTERSWEET CRISIS                             第1章−5








5 眠り猫





「ありがとう、もういいよ」
 岬はカップのホットミルクを半分飲んだところで葉月に手渡した。
「おい…」
 ちょうどその時、葉月の部屋のドアが開いて、反町がぬっと顔を突き出した。
「あ、気がついたのか。大丈夫か、岬」
「うん、もう平気だよ」
「駄目よ。貧血起こしたんだから、もう少し横になってないと」
 ベッドから降りようとする岬をあわてて止めながら、葉月は怖い顔を作ってみせた。
「それに寝不足。そうでしょ。母さんがいつもこうだもの、わかるわよ」
「岬、そのままでいいから聞いてくれ。今、淳と連絡がついた。あいつは家にいて無事だけ ど、光のやつが15分ほど前にどこかからの電話を受けて出て行ったそうだ」
 岬の目が大きく見開かれた。床に下ろしかけた片足が、その途中でぴたっと止まる。
「何でっ!」
「淳が言うには、あいつの代理のつもりであえて出てったに違いないって。でなければ淳に黙 って行くはずないよ」
 岬は頭を抱え込んだ。そのまま苦しげに首を振る。
「僕が、…僕が判断を誤ったんだ。翼くんも、松山まで危険に追い込んでしまうなんて…!」
「まあまあ、まだほんとにミスったかどうか結論は早いってば。とにかく淳と話してくれ。お まえがまだ起きられないと思って電話にしたから」
 言い置いていったん姿を消した反町は隣室から電話の子機を持ってきた。岬はまだ少し茫然 とした様子でそれを受け取る。
「うん、そう。今、反町の家に…。うん……」
 片手を額に添えたまま、岬はうつむいて受話器を握りしめていた。反町と葉月はベッドのわ きで心配そうにそれを見守っている。
「君のアカウントを偽装に使ったんだ。とりあえず連中の目が別方向に向くように…」
 次の瞬間、岬は顔をこわばらせた。
「――その通りだよ。先手を取って相手の動きを押さえるには、こちらも身を切らせるしかな かった…。たとえダミーでも。君たちはこうして東京にいる分、翼くんの安全を先に確保して からでも大丈夫だなんて思ったから…」
 岬の顔がどんどん蒼白になっていくのに気づいて、反町はあわててその手から子機を取り上 げた。
「代わったよ。で、どうする? できれば合流したいとこだけど、おまえ、まだ動かないほう がいいだろ。光の身代わりがどのくらい効果あるかもわからないからな。まだどんな危険があ るか…」
 反町は急き込んだ。
「待てってば! いいか、光がそもそもどこに向かったかさえわからないんだ。一緒にそれを 突き止めようって言ってんじゃん。無闇に動くほうがマズイって!」
 通話を切って、反町は深く嘆息した。一番足回りが早いはずの自分がなぜここまでなだめ役 に回らなければならないのか。反町は首を振り向けると、妹に向かって肩をすくめた。
「悪いけどさ、俺にも頼むよ、気付けのコーヒー。熱々のをね」
 こいつらはあまりに一つのこと、一人の人間に固執しすぎなんだ。だからその相手に何かあ ったとなると、途端に逆上しちまう…。
「その点俺は何にも縛られちゃいないし、誰にも執着してないぞ!」
 思わず吠えてしまったせいで、岬が驚いたように顔を上げた。反町もびっくり顔で岬と目を 合わす。
「あ、いや、こっちの話…」
 急いで言い訳をするが岬はそれには触れず、反町を正視したまま静かに口を開いた。
「君に、やってほしいことがある」
「へ?」
 岬の表情はさっきまでと打って変わって何ごとか心に決したような厳しい顔になっていた。
「あるシステムに侵入してほしいんだ」
「侵入、って…」
 只事ではない用語をさらりと口にする岬に、反町はごくりと唾を飲んだ。
「…ど、どこの?」
「防衛庁」
 反町はむせかえった。
「お、おまえなぁ! 俺にそんな真似できるわけ…!」
「できるさ。君のキャリアと技術をもってすればね。国際的ハッカーの間で『スリーピー』の 名を知らないのはモグリだって言われてるんだから」
 反町はその言葉を耳にしてぴくりと片眉を上げた。一瞬息をつめ、そしてはーっと大きく肩 を落とす。
「知ってたのか。なら余計わかるだろ。俺はシステム破りはしても改竄はしない。データ破壊 もドロボーもな。ただの『探検家』だ」
「それはわかってる。でも、やらないってのと出来ないってのは別だからね」
 ハッカーのプライドについてもよく理解しているらしい岬だった。
 ハッカーと言えば不法にコンピュータを荒らすコンピュータ犯罪者として昔から考えられて いるが、ネットワークの黎明期には、新しいオモチャを前にあれこれいじくって遊びたがる子 供のような感覚でちょっとしたイタズラを仕掛ける程度のものがほとんどだったと言える。
 それが時代と共により現実社会と結びついて、舞台をネットワークやコンピュータの次元に 移した新手の犯罪として拡大していった形となり、億単位の金銭詐取や公的機関のシステムの 破壊テロ、また他人の個人情報を密かに入手してさらに別の犯罪へと流用する…といった犯罪 のための犯罪へと変貌してきた経緯がある。
 そもそもは学生を中心にしたマニア的ハッカーが、自分の知識を試したいとか、新しい技術 を自分で見てみたいなどという知的好奇心の対象にしていたコンピュータ世界である。より複 雑でより困難な相手が現われればさらにその好奇心は刺激されることになる。
 まだネットワークが国際的にはりめぐらされる前から、小さな子供のうちからこの趣味に目 覚めた反町は、文句なく後者の部類に属していた。
「俺はハッカーだとしても犯罪者にはなりたくないからな」
 ぶつぶつぼやきながら、それでも状況を考えて岬の話に耳を貸すことにしたらしい。
「だから、防衛庁のメインシステムをいじる必要はないんだ。あそこのラインを経由してどこ かにつながってる一人が当面の相手だから。でも、そいつに気づかれないようにこちらから動 きを監視するには、あそこのオペレーティング・セキュリティを突破する必要がある」
 反町はそこまで聞くと、胸の前で手を組んで天井を見上げた。
「ハッカーの神様、お許しください。俺は心ならずもあなたに背きます。悪魔のささやきに勝 てなかった俺をどうかお見捨てになりませんよう…」
 とうとう悪魔にされてしまった岬は知らん顔で反町への指示らしきチャートを書き止め始め た。反町も言うだけ言うとくるりと岬に視線を戻す。
「でもさ、問題はここじゃそういう作業はできないってこと。俺の本拠地(ホーム)に戻らな いと…」
「東邦だね…?」
「そ」
「困ったな、一刻を争うんだけど」
「今から車を飛ばしたとしても1時間じゃきかないな。しかも夜道となるとその倍は見ておか ないと」
 それは学校自慢? もちろん岬はそんなことで感動はしない。
「うーん、朝一でオペレーターが『仕事』に入る前にどうしても仕掛けを済ませておかないと いけないし…」
 そこで反町がぱっと顔を輝かせた。
「そうだ、淳がいるじゃん!」
「彼はハッカー向きじゃないよ。そのハッカーを食い止めるセキュリティ側ならともかく…」
「だから、それ」
 反町はたたみかける。
「矛と盾は同じだろ? あいつが頭脳で俺が手足なら、どう?」
「そうか」
 岬もうなづいた。
「その組み合わせなら理想的だ。三杉くんのコンピュータって、触ったことあるの?」
「直接はないけど、俺たちいろいろと共有してるサーバがあるんだ。あいつの自作のプログラ ムにもいくつか世話になってるし。そのへんは慣れてるって言えるね」
 既に駆け出しながらの会話になっている。階段を降りたところでトレイを持った葉月に突き 当たりそうになった。
「ちょ、ちょっと、兄さん!」
「あ、悪い! 俺たち出てくるからな」
 すれ違いざまそのカップをさらってコーヒーを一口すする。
「ダメって言ったでしょ、岬さんをすぐに連れ回すなんて!」
 しかし反町は耳を貸すことなくカップをトレイに戻すとひらりと玄関に飛び降りた。
「母さんによろしくな!」
「ん、もうっ!」
 葉月が一歩踏み出そうとした時には、二人の姿はもうそこにはなかった。
 葉月は悔しそうに目を落とすと、反町が飲み残していったコーヒーをぞんざいに取り上げ、 ごくりと飲んだ。そして大きく息をつく。
「ふー、おいし。私の腕もなかなかのもんね。放蕩者の両親に、極道な兄を持ってながら、よ くぞまっとうに育ったもんだわ」
 そうしてめげない少女は鼻歌交じりに台所へと戻って行ったのだった。











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