BITTERSWEET CRISIS                             第2章−1






第2章
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1 東邦クラブハウス





 電話をすませた若島津が談話室に戻ると、そこには日向の姿はなくなっていた。畳敷きのそ の大部屋では、久々の下界行きとなった今日の遠征でめいめいに買い込んできた飲食物が散乱 し、既にその大半が各々の胃袋に納まってしまったところだった。飲料のほうにアルコールが 多少含まれていたことは間違いない。サッカー部の2年生部員を中心にした面々は、文字通り のどんちゃん騒ぎの果てに半分以上の者がつぶれてしまっている。若島津はその時自分の足元 に転がってきた高島を片手で吊り上げた。
「おい、日向さんはどこだ」
「ふあ…?」
 顔じゅうを真っ赤に染めた高島は、くるりと首を巡らせて目の前に迫るGKの顔をじいっと 見つめた。しらふの時ならばとてもそんな真似はできなかっただろうが、なにぶん今は血液中 のアルコール濃度が彼の味方だ。きっぱりと向かい合ったそのままのかっこうで、彼はいきな り噴き出した。
「だあっはっはっは! おもろい、おもろい、おもろい顔ぉーっ!」
 もともと笑い上戸の高島は、酔うと幼い頃まで住んでいた関西の言葉が噴出する癖があっ た。
 その奇声に、少し離れた所にいた古田が振り返った。そしてそこに仁王立ちになっている人 物を見た途端、顔色を変えてあとずさる。だが時既に遅く、視線がしっかり合ってしまった。 まだ笑い転げている高島をゆっくりと離し、若島津は今度は古田に向かって歩を踏み出した。
「し、知らんっ、日向さんのことなんぞ知らん! さっきまでそこで飲んでたけど、いつの間 にかいなくなってたんだ、信じてくれっ!」
 まだ何も言われないうちに古田は完全にパニックに陥っていた。隣で壁にもたれたまま寝入 っている松木の体を盾に身を隠そうとする。が、若島津は無表情にその顔を見つめながらさら に間をつめた。
「若島津…」
 その時、背後で声がした。若島津はぴくりと眉を動かして振り向く。それは両手にタオルや 水差しを抱えた島野だった。東邦一の宴会男と名高い反町を欠いた以上いつもの盛り上がりは 望むべくもなく、結局単に飲んでつぶれるだけの宴会になってしまった今夜の締めは当然この 男が請け負うことになったようだ。
「日向さんならさっき廊下で会ったぞ」
 言いながらさっそくかがんで、仰向けに伸びている小池の顔に濡れタオルをばさっと乗せ た。ひゃっと声を上げて飛び起きた小池からすぐ次の今井に移りながら、島野は顔も上げずに 言葉を継ぐ。
「赤い顔してたから、涼みに出たんじゃないのか」
「上か」
「たぶんね」
 若島津はそれだけ聞いてさっと身を翻す。ドアに向かって突進しながら島野とすれ違おうと したその時、島野が口を開いた。
「八つ当たりなら、相手が違うぞ。古田だって好きで日向さんの同室をやってるわけじゃない んだ」
 若島津は足を止めて島野をじろりとにらみ下ろした。
「誰が相手ならいいって言うんだ」
「さあね。たぶん、電話をしたのにいなかったような奴とか?」
 島野は淡々と作業を続けている。コップに水を汲んでは仲間に渡していくその背に、若島津 は鋭い視線を向けた。
 背後でドアを閉める音を聞いてから、島野はふと思いついたように手を止めた。
「諸悪の根源は、じゃあどこに行ったんだ? 自宅にいなかったのなら」
「え?」
 ちょうど水を受け取ろうとしていた川辺が、その独り言にきょとんとした。島野は顔を上げ てにっこり笑い返す。
「俺、さっきの賭け、ちょっと気が変わったんだけど」
「えーっ、困るよ。おまえだけなんだぞ、『帰る』に賭けてんの」
「違う、違う。『帰る』のまま、賭け金を倍にしたいんだ」
 川辺はぽかんと島野の顔を見つめた。それからコップを畳の上に置くと、ポケットから手帳 を取り出す。
「わかった。じゃ、『帰る』に倍額が2人…と」
「川辺?」
 今度は島野が怪訝な顔になる。川辺はメモをし終わると、手帳を閉じて片目をつぶって見せ た。
「もちろん、俺も付き合わせてもらうさ。ダンナの見立てなら間違いないもんね」












 3階建てのクラブハウスは1階が運動部の設備と寄宿寮としての共有スペース、そして2、 3階が生徒たちの居室という構造になっている。もちろん女子とは別棟になっているから、こ こはまさにむさくるしい男どもの巣であった。消灯直後のこの時間、まだどの部屋からも騒々 しい声が響き、廊下をどかどかと行き来する足音も絶えることはない。
 若島津はそんな騒ぎの真ん中を砕氷船のように押し分けながらゆっくりと廊下を進んでい た。クラブハウスの屋上に出るには北側の非常階段を使うしかない。若島津はその非常階段を 上に向かう一角が日向のお気に入りの場所であることを知っていた。
 廊下の突き当たりの扉を開けると、9月にしては冷たい空気が若島津を包んだ。微かな風が 長い髪をなぶる。その位置から見上げると、3階への踊り場に白いトレーニングシャツ姿の日 向がぼうっと浮かび上がっているのが目に入った。こちらに背を向け、手すりにひじをついて もたれかかっている。
 そんな若島津の視線を感じたのか、その時、日向がゆっくりと振り向いた。そこに若島津が 現われたことには何の疑問も持たないのか、驚く様子はない。
「反町は帰ってきたか?」
「…いえ、まだです」
 さっき阿佐ヶ谷の自宅に電話を入れたばかりだということはおくびにも出さず、短く答え る。電話に出た反町の妹の思いがけない報告に絶句したなどということももちろん口には出さ ない。
――あの岬が帰国していたとは。しかも、反町の家に現われて、二人で一緒に出かけた…!?
「そうか、しょうのない奴だな」
 それが2年生レギュラー全員の間で賭けの対象にされていることなど一切知らされていない 日向は、たいして気のない様子でそれだけ言うと、また背を向けて校舎の向こう側に広がる 黒々とした山並みに視線を戻した。
 しばらくその横顔を眺めて、このまま部屋に戻るか、それとも何か声を掛けるべきか若島津 が迷っているうちに、日向がぽつりと口を開いた。
「あっちは今頃何時かな」
 若島津の眉がわずかに動いた。日向は返事は期待していない様子で、一人指を折り始める。 若島津は一瞬ためらってから低く声を掛けた。
「地球の真後ろなんですから数える必要はありませんよ。午後と午前を入れ替えるだけでいい んです」
「ああ、そうか。…じゃ、今は真っ昼間だな」
 呑気そうに言ってからぱっと振り向く。
「おまえ、何怒ってんだ?」
 顔と声に感情を表わさないことにかけては定評のある若島津をつかまえてこれだけ言い切っ てしまう。けっこう抜けているくせに、こういうところだけ変に鋭い男なのだ。これがいわゆ る動物的カンなのだろう。
「三杉が、約束を破ったことをですよ」
「ほぉ…」
 どんな、とか、何を、などと問い詰めたりしないのが日向小次郎であった。自分に関係ない ことは気に留めないし、自分自身のことには頓着しない。若島津の煮詰まりが自分のせいだと はまったく考えていない様子だった。
――そのこと自体は別に構わない…。
 心の中で若島津は密かに毒づく。
――問題は、日向さんが未だ呪文から解かれていないってことなんだ。
 5年前の夏の日、日向小次郎は一人の少年と出会って、その時以来解かれぬ呪縛の中にあっ た。自身はそれと知らずに百年の深い眠りについた彼を、若島津はただ黙って見守ってきた。 自分がその呪いを解く役目でないことを思い知りながらも、若島津はその側から離れられずに いる。
 そして1年半前に大空翼が日本の地を発った時、それを機に日向が呪文から解放されること を密かに期待しなかったと言えば嘘になる。しかし一方で、心のどこかでは彼もまたそんな日 向の眠りに魅せられていたのかもしれない。
――あんた、何を知ってるんだ。何を隠してるんだ。あいつの呪いの効力はそんなに強いのか …!
 若島津は今日の三杉とのやりとりを思い返していた。この1ヵ月、日向をいらだたせていた ものに若島津は薄々ながらも気づいてはいたのだ。問題は日向自身がそれをはっきりと自覚し ていなかったという点である。
 三杉と反町、それに松山。連中がつるんで何かを追っている。それが日向のいらだちとどこ かで繋がっていることを若島津は感じ取っていた。だがここに岬の影まで見えてきたとなる と、事は単純な話ではすまなくなってきたわけだ。若島津はそんな非常事態の匂いをかぎなが らまだ肝心なところで自分が部外者であることにどうしようもなく腹を立てているのだった。
「俺はな、昔から夢なんてものは見たことなかった」
 突然日向が口を開いた。若島津ははっとして視線を戻す。
「けどよ、あいつがああやって全身全霊をこめて夢を見てるのをずっと見続けているうちに、 俺たちもいつのまにかその夢に引き込まれちまったんだろうな」
 若島津は自分の心の中を覗かれていたかのような錯覚に身を硬くした。日向は向こうを向い たまま言葉を続ける。
「あいつ、はたから見てると夢を見るために自分の身をすり減らしてるみたいでよ…。本人が あんなに嬉しそうにしてる分だけ、なんか、悲壮じゃねえか…」
「夢が象徴しているものは、それを見ている本人だけが解けるんだそうですよ」
 若島津は慰めともはぐらかしともつかない言葉を口にした。おそらく、自分自身に言い訳を するための。
「そうだな」
 気が抜けるほどあっさりと日向はうなづいた。いつものように、何も考えていないのか、あ るいは思考がすべて脳の右半分で処理されているのか。若島津はこっそりため息をつく。
「あいつがブラジルに発った時には、これがあいつの夢なんだから、って思ってたけど、今思 うと、俺たちが自分の夢のためにあいつを人質に出してるんじゃないかって…」
 日向は顔だけこちらに向けて、若島津のいつもの無表情な顔を見やった。それから足元に視 線を落とす。
「わかってはいるんだ。もしそうだとしても、あいつはそれを喜んでるってな。でもそんなふ うに夢を見て幸せでいるあいつが――俺はひどく」
 日向はそこで言葉を途切らせた。その顔を見て、若島津の胸がどきりと鳴る。日向の表情 が、夜目にもわかるほどに辛そうに歪んでいたのだ。
「…ひどく、可哀想になるんだ」
 可哀想に。
 その言葉が若島津の中で幾重にも輪を広げ、エコーとなって響き続け、それは一晩中消える ことはなかった。











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