2 首都高速
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「…っきしょ、痛てえな!」
松山はヘルメットを乱暴に脱いで、両手で頭をはさむように抱えた。別に壊れている様子は
ない。そのまま目をやると彼の自慢のCBRは分離帯沿いにスライドして、はるか先にその姿
を沈ませていた。
「何すんだよ、おっさん! 痛えだろうが!!」
怒鳴りつつすっくと立ち上がって大股で分離帯の植え込みを乗り越える。怒鳴っている先
は、10mほど背後に停車しているダークグリーンのベンツであった。
「痛い…?」
車内の3人は絶句している。この事態を「痛い」の一言で定義するとはどういう言語感覚
を、いや、神経をしているのだろう。第一、今眼前で起こった事故はちょっとした接触事故な
どというものではない。現にバイクのほうはシートから後ろが完全にひしゃげ、フロント周り
がフレーム部分に押しつけられた上にカウルは吹っ飛んでしまっている。側壁に激突した時に
時速120kmはゆうに越えていたはずだからそれも当然だった。当然でないのは、投げ出さ
れたライダーの体に何の損傷もないらしいその様子である。
「くっそー! どうしてくれるんだよ、俺のバイク! グチャグチャじゃねえかよ!」
分離帯の上から自分のバイクを振り返ると、松山は野太い声でまたがなり立てた。
「なんて柄の悪い社長令息だ」
「柄だけの問題かよ。あれでピンピンしてられるって、どうなってんだ…!」
ベンツは小さくバックしておいて急発進した。深夜といっても首都高に車両の絶えることは
ない。事故と見てトレーラーがスピードを緩めては通り過ぎて行く。中央管理センターに事故
の通報が行くのは時間の問題だった。
「グズグズするな、やつを引っぱり込め!」
追いつきざま後部ドアが開いて腕が伸びた。分離帯の上にいた松山は反射的に身を引く。途
端に体がふわっと宙に浮いた。
「まだ気がつかないの? 彼らはあなたを狙ってるのよ」
腕をつかまれてそれを振り払おうとした拍子に反対側の車線に落ちかけた彼は、突然上から
掛けられた聞き覚えのある声にはっとして目を上げた。聞き覚えはあっても、今、この場所で
耳にする心当たりはまったくなかったのだ。
「青葉…!?」
「あなたあれがただの事故だと思ってるの? あのベンツ、わざと接触して来てたのに」
そこにいたのは、赤に蛍光オレンジのラインの入った革ツナギ姿の青葉弥生であった。また
がっているマシンはマニアならよだれを流しそうなハーレーのビンテージものである。だが、
あっけにとられている暇はなかった。
「狙う? まさか俺なんかを……いや、淳をか!?」
弥生の差し出したタンデム用ヘルメットを頭に叩き込むと、松山はバックシートに飛び乗っ
た。
「連中、きっとまだ追ってくるわ。どちらなのか確認してる暇はなさそうね」
発進と同時に襲ってきた強引な加速度に、松山は一瞬夢心地になりそうになった。
「…っきしょう、俺が運転したかったな」
そうでなくても自分よりふたまわりは小さい女性にしがみついている図ははっきり言ってあ
まりいいカッコと言えるものではない。
――それにしても青葉にこんな趣味があるとは知らなかったな…。
ヘルメットからなびかせている長い髪を見下ろしながら、松山は心の中で嘆息した。
世間的には弟の婚約者、という扱いをされているようだが、この青葉弥生は実のところ正式
に何らかの約束を交わしているわけではない。しかし既に6年になろうかという彼女と三杉と
の確固としたコンビネーションはそういった形式がどうのという次元を超えて貫禄さえ漂わせ
ている。心臓病と戦いながらフィールドへの夢を追い続けてきた三杉の、彼女は言わば戦友で
もあったのだ。
高速を下りてすぐに弥生は脇へ寄せた。エンジンはそのままに背後を確かめる。振り返って
松山と目が合うと、弥生はにっこりと応えた。
「さっきね、私ちょうど見かけたのよ。あなたのCBRとベンツがすごい勢いで追いかけっこ
してるの。淳が言ってたのとは話が違うなとは思ったんだけど、確かめに戻ってよかったわ」
「おい、まさか淳に何か言われてわざわざ来てくれたのか、この救援活動は?」
弥生は、小さく首をすくめてふふっと笑った。
「ちょうど遊びに来てたの。そこに淳から夜遊びはほどほどにしたら、って連絡が来たものだ
から」
「へ〜え?」
松山は疑わしげに目を細める。
「イイトコのお嬢さまにしちゃ、ずいぶん珍しい夜遊びじゃねえのか? 今の運転ぶり見ても
けっこうなキャリアだと思うぜ」
「ありがとう。でも、あなただってイイトコのお坊ちゃまでしょ。ライダー仲間で噂になって
るわよ。環七あたりを信じられないスピードで飛ばし回ってる一匹狼がいるって」
「知らんな、俺は」
その通り、松山に自覚はなかった。彼は単に北海道の道路での感覚をそのままこっちに持ち
込んでいただけなのだ。
「それより、今のは誰だったの? 淳とあなたを間違える程度のお知り合いってことかしら
…?」
「さあてね。俺のほうには心当たりはないんだが、あの執着ぶりから見るとあいつらにとって
はかなりの知り合いなのかもしれないな」
松山は眉を寄せた。人違いには慣れているものの、今回名指しされたのは岬ではないのだ。
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