BITTERSWEET CRISIS                             第2章−3








3 ザ・ハッカー






 絵に描いたようなすれ違いであった。言われた通り鍵の開いていた玄関から堂々と三杉家に 入ってきた岬と反町は、2階の三杉の部屋まで来て立ち尽くしていた。
「…僕を避けてるとか」
 岬の言葉は聞こえなかったことにして、反町はテーブルの上の置き手紙をもう一度手に取っ た。いつもと変わらぬきちんとした文字で、三杉の短いメッセージが書かれている。

   『光は僕に任せて2人で好きにこの部屋を使ってください。
                            ―三杉』

「無理しちゃってさ」
「え?」
「淳らしいよな」
 反町は苦笑した。
「目一杯あわくって飛び出したに決まってんだ。なのに自分は平気ですってポーズだけは絶対 崩さないんだから」
 岬はその言葉の意味を量りかねて眉を寄せる。反町はそんな岬ににっこりと笑い返した。
「あいつ、つまりはナルシストなんだよ。ただし、自分の分身に対して、ね」
 予め電話で打ち合わせた上で、一緒にハッキング作戦に取り掛かるために三杉宅までやって きたはずだったが、岬と反町はその部屋の主がほんの数分の差で出て行った直後なのを発見し たというわけだった。
 いつも通りきちんと片付いた室内と、簡単な置き手紙…。しかしいったん約束しておきなが らそれを寸前にすっぽかしたというまさにそのことが、三杉の行動が尋常でないことを示して いる。
「え、自己愛って…? つまり松山に対して、愛、なわけ?」
「誤解しちゃいけないぜー。あいつら、あくまで律儀に双子やってんだから。親友でもなく、 まして恋人でもなく、さ」
「ふうん、意外」
 少しの間をおいて岬が言う。反町はキーボードから顔を上げて怪訝そうに振り返った。
「2人がどういう関係か、はともかく、あの三杉くんがそんなふうに他人を受け入れてるって ことがさ」
「だから他人じゃないんだって、あいつにとっては。言っとくけど光だけにじゃないぜ。俺も おまえも世間じゃあいつの兄弟ってことにされてんだから」
「最悪」
 無表情に、しかし最も簡潔な一言で岬は感想を述べた。そうやって話を終えておいて反町の 背後から手を伸ばし、キーボードに割り込む。指が慣れたタッチで動いて、ログインが完了し た。画面に表示された文字を見て、反町の頭はいささか混乱する。
「おまえの本拠地って、パリだったよな?」
「もちろんそうだよ。だけどこういう細工をするのに、正直に本名を書き残すわけないだ ろ?」
 本名ならぬサーバーの認識番号の「住所」は、パリではなく、ヨーロッパですらなく、ケニ アの首都ナイロビになっている。
「なーるほどね。ダミーのホストを間に置くわけか」
 さすがに反町も伊達にハッカーとしてのキャリアを積んでいない。岬は満足そうにうなづい た。世界の各地を結ぶ回線のありふれた一本が、ありふれたホストコンピュータに繋がって、 いつか岬の見えない手がそこに触れるのを待っているのだ。ネットワークでの動きを万一知ら れることがあっても、二重三重のトラップを経ることで逆探知の手はそこで断ち切られる。合 法、違法にかかわらず世界のネットワークを情報源として押さえる中で「研究調査」をしてい る岬としては、不可欠な防護策だった。
「さすがは岬クン。で、そろそろ教えてもらおっか、おまえの企業秘密の一つを」
「そうだね、君もこれで共犯者だ。『一部』だけ説明しておくよ」
 岬はポケットのメモを取り出した。
「防衛庁そのものに用はない、って言ったよね。でも、そこを経由して情報をやり取りしてい る人物がいるから、次にアクセスしてきた時にはシッポを押さえときたいんだ。待ち伏せトラ ップを仕込んでおいて、その落とし穴に誘い込もうってわけ」
「それが俺の仕事?」
「そう。あそこのメインシステムの中に使えそうなバグがあれば抜け道に便利なんだけど…。 どう?」
「んー、じゃ、ちょっと待っててくれる? 手持ちのを確認してみるから」
 どんなに細心に組まれたシステムでも、プログラム上の小さなミス、つまりバグが皆無とい うことは不可能である。ハッカーたちは侵入の足がかりとしてそういったバグを大いに活用す る。したがって、どこのシステムにどんなバグがあるか、役に立つ虫食い穴か……その知識が 彼らの貴重な実戦用の武器となる。反町は横の補助キーボードに向きを変えると、手早くファ イルのリストを並べ始めた。
「これ、俺と淳の共有フォルダね。めったに引っぱり出さないけど」
 岬が覗き込むと、妙なファイル名が次々と目に入って首をひねる。
――『進級試験過去問題』『シャンハイヨーコー出走全記録』『日銀経済政策と東証株価』 『2時間サスペンスサブタイトル集』『プロシア帝政年表』『電子レンジで簡単ケーキレシ ピ』…etc。
「…ふーん、三杉くんもずいぶん人間が変わったんだねえ。君たちとつるんでから?」
「俺や光のせいだけじゃないからな、一応」
「三杉くんがもともとこうだったって言うなら、ボクは人生観変えるしかないな」
「へ〜、人生観が左右されるような深い関係だったのかー、おまえと淳って」
「…冗談でとめとかないと、朝を迎えられないかもよ、反町」
「きゃ〜」
 などと軽口を叩きつつも頭と手は動き続けていたようで、画面上には必要なデータが全て揃 えられていた。
 反町はもう自分の世界に入って一人うなづきながら指でデスクをコンコンと叩く。彼の頭の 中で特有のリズムが響き始めたらしかった。岬はそんな様子を頼もしそうに見守る。やがて反 町の指が止まった。
「よーし、これで行けそうだ。ちょっと古い抜け道だけど、その分だけマークされずに来てる ってことだから」
「じゃ、このメモの通りに組み込んでくれる? パッチでちょこっと」
 パッチとはホストコンピュータの中枢部に外部から別のプログラムを部分的に移植する方法 の一つである。パッチワークのごとくシステムプログラムの一角に別のプログラムを巧妙に挿 入し、通常の処理の流れを不自然にならないように変えてしまう。ハッキングとしてはかなり 高度な技術を要するものである。
「ちょこっと、ってねえ」
 反町は難しい顔でそのメモに目を通した。
「淳がいてくれたらなー。俺一人じゃ苦しいよ。おまえ、代わりにナビゲーターってやってく れるの?」
「いいよ。ついでにタイムキーパーもやってあげる。なにせ残り時間が限られてるから」
「うわー、シビアなお言葉」
 反町は大げさに椅子の上でのけぞってみせた。
「淳もさ、それにしたって一体どこまで行っちまったんだ。光を追っかけてまっしぐら」
 夜明けまであと数時間――。主を失った部屋は、新たな主を2人迎えて今夜も眠らない。




















 男の一人がベンツに駆け寄って行くのを視界の端にとらえながら、松山はさっと体を回して バールの直撃を避けた。
「…ヤローっ!」
 相手の男がバールを振り下ろした勢いによろめいたところに容赦なく松山のスライディング タックルが襲ってきた。あわてて体勢を立て直そうとしたのも間に合わず、男はフェンスに突 き当たって歩道側にどっと落ちる。
「このガキ!」
 逆方向からもう一人が飛びかかった。植え込みに押し倒された松山の鼻先に黒光りするリボ ルバー銃が突きつけられる。
「うっ――!」
 途端、男はのけぞって倒れる。背後に弥生が立っていた。
「こんな感じで、よかった?」
「まあな…」
 その手に握られた金属製のポールに目をやって松山が脱力しつつ応じる。駐車場の仕切りチ ェーンの支柱だったのだ。どうやって引き抜いて来たんだ…?
「ふざけんな!!」
 先にタックルを受けた男が飛び起きてバールを地面に叩きつける。
「いい加減に観念しろ!」
「どっちがだよ…」
 口の中でつぶやきつつ、松山は弥生に先に行くよう手で示した。入れ替わりに襲い掛かって きた男をさっとかわしてさっき地面に転がった拳銃に手を伸ばす。男も反転しながら足を踏ん 張った。松山と競り合ってもつれるように地面に転がる。
「兄ちゃん、邪魔すんなよ!」
 先に起き上がりかけた男のすねを下から思い切り蹴り上げる。とんと手をついて跳ね起きる が早いか、松山は得意のショルダーチャージを相手に食らわした。ユース代表のファイティン グ・ディフェンスの実力を身を持って知らされた兄ちゃんはあえなく地面に転がされる。もっ とも、あくまで部外者にすぎない彼はこれが実戦対応でなかっただけ幸運だっただろう。
「知らねえのか? こーゆーの持ってちゃいけねえんだぜ。危ないんだからな」
 銃を拾い上げた松山は口の端に冷笑を浮かべるや、肩越しにそれを放り投げた。背後の神田 川のコンクリートの川床で重く乾いた音が跳ね返った。
「野郎っ!」
 先にベンツに戻っていた3人目の男が走り出て来た。その腕にライフルを抱えているのを見 るや、松山はそのとことん違法な状況を見捨てて向かいのビルに駆け出した。
「早く、松山くん!」
 ビルの地下ガレージ入口にひそんでいた弥生が手招きする。
「今度は俺が運転するからな!」
 力強いエンジン音を確かめると松山はスロットルをぐっと握りしめた。
「そおら、撃つなら撃ってみろ! こんな街のど真ん中の狭いとこでライフルの照準が合わせ られるならな!」
 松山は笑い声まで上げながら街灯の真下でぐるりと向きを変え、ライフルの男に向かってま っすぐ突っ込んだ。男はそのまま撃つべきか、それとも自分の安全を優先させるか一瞬戸惑 い、おろおろと視線を左右に投げてからあわててベンツに駆け戻った。
 男が背を向けたそのわずかな隙に松山は車体をバンクさせると大きく円を描いて停まり、肩 越しに弥生に声をかけた。
「いいか、あのナンバーを淳に知らせるんだ。あいつならすぐに結びつけてくれるからな」
 いつかの乱暴な訪問者と。
「あなたは?」
「もう少しこいつの乗り心地を試させてもらう。ちょっとここんとこストレスがたまってるん でな」
 自分のヘルメットをとって差し出す弥生に手を振って断り、松山は再びエンジンをふかし た。
「じゃな、青葉」
「松山くん! 淳ならね、淳ならあなたよりもう少しだけ安全運転派よ!」
 聞こえたのか聞こえなかったのか、闇に白い歯がちらりと覗いたのだけが見えた。その背を ゆっくり見送る間もなく弥生は通りの方へと走った。中小印刷会社が固まっているこのエリア は、深夜ゴーストタウンのように静まり返っている。
 その角を曲がろうとした時、急ブレーキをきしらせてもう一台のベンツが現われた。はっと 足を止めた弥生の前を、そのまま突っ切ってさっきの場所へと向かって行く。
 弥生は向かおうとしていた街灯の下の電話ボックスにいったん目をやった。そして少しため らったのち、松山が残った場所に取って返して行ったのだった。











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