BITTERSWEET CRISIS                             第2章−4








4 朝には朝食を






「兄さん、聞いてるの!」
 受話器の向こうの声がグサグサ耳に突き刺さる徹夜明けの朝であった。
「き、聞こえてるって。だからもっとゆっくりしゃべってくれ。こっちは思考が死んでるんだ から」
「ふざけてる場合じゃないの! 母さんが今朝早く電話してきたのよ。すぐ兄さんと連絡取り たいって」
「へえ…?」
 反町の表情がいくぶん引き締まった。
「あのね、岬さんのこと話したの。うちに訪ねて来たって。そしたら母さん、急に…」
「今どこだって、母さん」
「ニュース見てないの? 昨夜までは報道規制があったらしいけど、今朝はもう大騒ぎよ。母 さんは一晩中これに追われてたって」
 反町は電話を終えると岬を振り返った。
「参議院議員が一人行方不明になってて、防衛庁相手に脅迫状が届いてるそうだぞ。おい、ま さかおまえが犯人なんてこと、ないよな?」
「君も共犯でしょ、反町クン」
 一睡もしないで岬のご無体な注文の通りにコンピュータと格闘し、ようやく作業を終えた反 町がその一言で真っ白になってしまったとしても責められまい。誰とでもどんなチームとでも 合わせられる岬の脅威の順応性は、同時に相手選ばず自分のペースの巻き添えにしてしまう 『さすらいのハタ迷惑』でもあったのだ。
「だだだ誰がっ!!」
「仮に僕が主犯とすると、君が実行犯ね」
 三杉の私設キッチンで入れたコーヒーを差し出しながら岬はしゃあしゃあと言ってのける。 思わずよろけて椅子に体を預けた反町は呆然とそのマグカップを受け取った。ごくりと一口飲 んで、ようやく言葉を発する。
「俺はな、何か知らんがおまえや淳が危ない目に遭ってるのをなんとかしようってんでこうし て動き回ってんだぞ。それが…それがなんだって誘拐犯にされなきゃいけないんだっ!」
「やだなあ、ものの喩えだよ。仮に、って言ったじゃない」
「おまえが言うと喩えじゃ済まないのっ!」
「しっ、誰か来るよ」
 あわてて声をひそめて耳を澄ませると廊下に足音が近づいて止まり、続いて静かにノックの 音がした。返事も待たずにドアが開く。そこにいたのはばあやさんだった。
「坊ちゃまがた、またベッドでお休みにならなかったんですか。朝食の時間ですから、いらし てくださいまし」
 2人は声もなく立ちすくむ。ばあやさんは無表情にそれだけ言うとドアに手を掛けて閉めよ うとする。2人がほっと緊張をゆるめかけるとドアがまた開かれて、また2人をすくませた。
「そうそう、徹夜明けにブラックコーヒーは毒でございますよ。お若いうちから胃を荒らして はいけませんから」
 岬と反町は、足音が階下に下りていくのを確認してから顔を見合わせた。
「もしかして、俺たちを淳と光に間違えてたのか、あの人?」
「そうなんじゃない?」
 ――ため息。
「さしずめ俺が光でおまえが淳か…」
「やめてよ、ボクは三杉くんになんてなりたかないよ!」
「けど、間違えられちゃったものはしかたないじゃん」
 言いつつ、反町は振り返って時計を見た。
「でも変だなあ。今まだ6時前だぜー。あいつらいつもこんな早い時間に朝メシ食ってんのか …?」
「老夫婦じゃあるまいし」
「ぶっ…!」
 言葉の暴力とはこういうのを言うのだろうか。もっともこの岬と三杉の場合、それをぶつけ 合う当人同士よりその周囲の者たちがよりダメージを受ける点に特徴があるのだが。
「まあ、せっかくだから行こうよ。ボク、おなかが空いてきちゃった」
「バレた時が怖いって気がするけどなあ。だって、他人ならともかく、家族と顔を合わせたら 速攻アウトじゃないのか?」
 しかし反町とて育ち盛りの健康な少年である。どんな思考も空腹には勝てなかった。なにせ 24時間労働の直後である。2人はおそるおそる階下に下りた。
「卵はいかがなさいますか?」
 物音を頼りに入って行った部屋では、ばあやさんが一人無表情に食卓をセットしているとこ ろだった。
「僕はポーチドエッグね」
「ん、んーっと、俺はプレーンオムレツ」
 席につくと岬はさっさとコーヒーポットを取り、自分と反町のカップに注いだ。反町のほう はきょろきょろ部屋を見回してTVに目を留めると、急いで歩み寄ってスイッチを入れる。ち ょうど6時のニュースが始まるところだった。
「ベーコンでよろしかったですか?」
「あ、ありがとう」
 ばあやさんの運んで来た皿を見て、岬は目を丸くしながらなんとかうなづいた。
 卵の他にベーコンと温野菜、それに果物も別に一盛りにされている。スポーツマンとしては もともと食の細いほうに入る岬には、予想外の内容だった。
「三杉くんてすごい大食漢? ほんとに病人なの」
「そうかぁ? おまえが少ないんだろ」
 反町は目をTVに釘付けにしたまま手を伸ばしてコーンフレークスにミルクをかけた。そし てそのままもう片方の手でオムレツの皿を引き寄せる。
「それに淳はここんとこかなりいいみたいだぜ。もちろんフルタイム出場は控えてるとしても な。おかげで俺たちはいい迷惑してんだから」
「ふうん、そうなんだ」
 それでも岬は並べられた朝食をほとんど平らげた。実はエールフランスの機内食以来だった りするから当然かもしれない。しかもこれがなかなか美味だったのも確かで、岬はしぶしぶな がらそれを認めないわけにいかなかった。
「おい?」
 岬の分のトーストにまで手を出していた反町が、何杯目かのコーヒーをすすりながら小声で ささやきかけた。
「議員の誘拐事件、それとN国のクーデターが、どうつながるわけ? …俺たちと、さ」
 ニュースを見る限りでは、当然のことながらこの2つが関連あるものと見られている様子は なかった。クーデターについてはまだ第一報の段階で、「現地の日本人関係者の安否を確認 中」程度にとどまっていたし、一方、誘拐事件のほうは緊迫感に満ちてかなりセンセーショナ ルに報じている。
 2日前の閣議の後、いったん後援会事務所に向かったはずのT議員が夜になっても事務所に 姿を見せず、結局車と運転手ごと行方が知れなくなってしまったというのだ。その直後に防衛 庁に不審な文書が届けられ、T議員の身柄と引き換えにある条件を示してきたため、昨晩は報 道規制をしいて極秘のうちに捜査が進められていたらしい。
「まあ、こっちのほうは大した事件ってわけじゃないけどね」
 岬は気のない様子で、議員が最後に目撃されたという永田町の党本部の画面を眺めている。
「そこまで言い切る? まるで真犯人のセリフだな…」
「それより、君のお母さんに電話を入れるんじゃなかった?」
「あ、ああ、そうだったっけ…」
 反町はさっき通った時に玄関ホールにも電話があったのを思い出してダイニングを出た。新 聞社のデスク直通電話の番号を押す。
「やあ、夜遊び母さん、俺に用って?」
『何言ってんのよ、そっちこそ学校にも戻らずに下界にいるくせに。その上昨夜は三杉さん家 に転がり込んだんですって?』
「まあまあ、それはいいから、父さんのほう、その後どう? 何か新しい情報は入ってる?」
『ニュースで言ってること以上はこっちもわからないの。どこの通信社も現地の通信網と遮断 されてるって』
 電話の向こうでは怒号のように呼び交わす声やけたたましいベルの音が響き、報道現場のあ わただしさが伝わってくる。
『それより、岬くんよ! 一樹、一緒なんですって?』
「そだよ。昨日パリから着いたばかりだってさ」
『昨日…』
「岬がどうかしたわけ?」
 母親は何か迷っている様子だった。
『ねえ、岬くん、普通?』
「普通って何だよぉ。元気って意味ならピンピンしてるぜ。口も相変わらず減らないし」
『あんたじゃあるまいし…』
 一瞬失笑しかけた母親はすぐ真面目な口調に戻った。
『あのね、岬くんの名前が妙なところで出て来てるの。…例の誘拐されたT議員の事務所に岬 くんに宛てた電報の控えが見つかったのよ。――「商談あり。面会請う」って…』
「で、電報? 岬宛て!?」
「それはアリバイのための偽装だよ。僕が実際に受け取ったのは5日前だからね」
「岬っ!?」
 突然耳元で声がして反町は飛び上がりかけた。
「お母さんに伝えてくれる? 僕と彼の関係は何もないから。だからこそ迷惑してるんだ」
『…岬くん、岬くんもそこにいるのね!?』
「自分で言ってやってくれよ」
 反町は受話器を岬に差し出した。
「俺じゃ全然状況わかんないもん」
「おはようございます」
 電話を代わった岬は丁寧に言った。
「一つ先に言っておきますけど、あの事務所が提供する情報は当てになりませんよ。すべてそ の場しのぎの証拠隠しですから」
『岬くん? はじめまして。…ああ、こんなこと言ってる場合じゃないのよね。電報の件は警 察はさほど重視していないみたいで今すぐあなたにどうこうってことはないみたい。でも、ウ チの社でもう一つ見過ごせない情報があるの。あなた、昨日T議員の第一秘書の自宅を訪ねた わよね』
 岬は初めて表情をわずかに変えた。が、声の調子はそのままで答える。
「ええ。でも留守でした」
『どういう用だったの? いえ、プライベートってことなら仕方ないけれど、こんな時にあな たのような人が姿を見せること自体が既にニュースなのよね』
「自分ではそうは思いませんけど…」
 岬はにっこりする。
「でも、そうだ、いいことがある。今からこちらへいらっしゃいませんか。ヘリなんかいいな あ。空から面白いものが見られるかもしれません」
「お、おい、岬…。何の話だよ〜!」
 心配そうにそばに立っていた反町はあわてて岬の袖を引っぱる。岬は短く二言三言付け加え てから電話を置いた。それから反町を振り返って笑いかける。
「それより、さっきわかったんだけど、三杉くんの早起きのわけ。朝練だって。がんばるよね え」
「じゃなくてぇ!」
「だから今から登校しようよ。ばあやさんの話では車で送ってくれるそうだから」
「ヘリって、何のことだよ! 母さん、何て言ったんだ?」
 反町に食い下がられながら岬が階段に足を掛けたその時、目の前のドアが開いて、そこに三 杉家の女主人が現われた。
「あら、朝から元気だこと。おはよう、2人とも」
「あっ、あ…、おはようございます!」
 思わず直立不動の姿勢になって反町があいさつした。岬はその陰に身を隠すようにして無言 で会釈する。三杉の母はにっこり微笑み返してダイニングの方に消えた。
「ば、ばれなかった…」
「…ボク、もう絶望的だ」
 岬にとっては死刑宣告にも等しかっただろう。実の母親にまで三杉と取り違えられたのだか ら。
「もしかしておまえ、淳を目の敵にしてたのって、自分と似すぎてるから、だったりして?」
「うん…、そうかも。ボク自身気づいていなかったけど。きっとそうだ……」
 ついさっきまで自信に満ちあふれていた岬がこういうことになるとすっかり気落ちしてしま うのだからわからないものである。岬の意外な弱点かもしれない。肉親をも惑わせるくらいの そっくりさとなると、顔の造作などの外見だけではないということになる。
――似た者同士ってのは案外ぶつかり合うって言うけど…。
 反射的に反町が思い浮かべたのは松山と日向小次郎だったりする。ついニヤニヤ笑いが出て しまった。
――か、かわいーじゃん、こいつってば…。
「どうぞ、坊ちゃまがた」
 背後で突然声がした。びくっと振り向いた二人の目にばあやさんが無表情にスポーツバッグ を差し出しているのが映る。
「お車の用意ができております。行ってらっしゃいませ」
 深々とお辞儀されて多少の良心の呵責を感じながら2人は家を出た。
「今、お見送りいたしました、奥さま」
「ねえ、幸さん、日本橋のいつもの外商の方を呼んでくださいな」
 ダイニングに戻ったばあやさんに、三杉の母が嬉しそうに声をかける。
「いいえ、やっぱり私が自分で行くわ、日本橋まで。幸さん、用意をお願いね」
「承知いたしました。それで何の御用向きですか?」
「買い物よ。子供たちのお洋服」
 三杉の母はゆったりとティーカップを口に運ぶと、夢見るように視線を上げて微笑んだ。
「嬉しいわ、本当に。何もしないで一度に4人の子持ちになれるなんて幸せ。うふふ、張り切 ってしまうわね」
 ばあやさんは真面目な顔でお辞儀をすると音もなく部屋を出て行った。











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