5 荷馬車
◆
辛い記憶だった。遠くで人々の歓声が波のようにさざめき、そして彼は一人だった。空は深
く、まぶしく、足元からは熱気が沸き立った。右から、左から、背後から、ドシンドシンと体
当たりする仲間の声が彼を囲み、もみくちゃにする。そのどの顔も歓喜にあふれ、そして彼は
一人だった。
汗の匂い、土の匂いが入り混じり、全身に疲労がまとわりつく。しかし、神経がぴーんと緊
張し、声が思うように出ない。彼はそんな中で精一杯伸び上がって捜していた。
捜していたのは、何だったのか。――記憶の波形がそこで大きくぶれる。確かに何かを捜し
ていたのだ。身を切るようなその焦燥感だけが意識の底に残っている。
一体、何を…? 翼は涙が頬を伝わって行くのを感じた。
――翼くん!
聞こえる。だが声の主の姿がない。聞こえる気がしているだけなのか。風景がねじれてい
く。体が重い。そして鈍い痛みが神経を刺激する。振動。小刻みな振動。その正体を見極めよ
うと体を動かす。――と、白い光が目を射た。
――翼くん!
「ツバサ!」
まず目に入ったのは深い悲しみの表情だった。次の瞬間、ゆっくりと世界がそれぞれの像を
結んだ。
「気がついたか!」
「――ああ、サンターナ…?」
悲しそうに見えた表情が実は自分の身を案じるそれと気づいて、翼は微笑もうとした。が、
それは一瞬のケイレンにしかならなかったようだ。
「動くな、ツバサ。一通りの手当てはした。だが出血が多すぎた。それに下手をするとどこか
骨折してる可能性だってある」
「どこ、ここは…?」
翼はごわごわとした麻袋を重ねた上に仰向けに寝かされていた。不規則な振動は、どうやら
荷馬車のそれのようだった。サンターナの肩越しに、首を振り立てながら歩を進めるロバの姿
が見える。空は妙にしんとして、まるで海の底にいるような色をしていた。
「市街から10キロかそこら離れた村に向かっているところだ。砲撃は今のところ収まってる
ようだが、いつまたゲリラ戦がぶり返すかわからない。とにかくおまえを安全な所で休ませな
いと…」
ちょうど夜が明けようとしていた。空気が切れるように冷たく、それが心地よく翼の肌を刺
激した。サンターナが手を伸ばして翼の頬の涙を拭う。
「苦しいのか?」
「ううん、大丈夫」
「おまえ、うなされてた」
「そう?」 翼は目を閉じた。「ずっと昔の夢を見てたみたい。でも忘れちゃった」
「坊やは気がついたのかな?」
翼はびっくりして目を開いた。もう一人の人間がいるとは思っていなかったのだ。だが、こ
れが荷馬車なら当然御者がいるはずである。
「これ、ワインだ。飲ませてやりなさい」
「あ、どうも」
サンターナが体をねじって手を伸ばした時、御者の男の顔がちらりと見えた。農民風の大き
な帽子を目深にかぶり、黒々とあごひげをたくわえた中年の男である。ワインの小瓶を渡す
時、翼に視線を投げて微かに笑ったようだった。
「そら、ツバサ」
サンターナの顔が近づいたかと思うと、唇に甘い味が伝わった。ひりついた喉に冷たいワイ
ンが快かった。
「…ああ、ありがとう」
「もっと飲むか?」
「ワインは血になるよ。キリストの血だからね」
男の歌うようなスペイン語に、サンターナはゆっくりと視線を投げた。
「でも取り返せない血はどうなる? 地面はいくら血を吸っても足りないんだ」
サンターナの目に一瞬ではあったが暗い影が走った。以前ロベルトがちらっと口にしたこと
があるサンターナの生い立ちを翼は思い出していた。確か彼の父親は中米のどこかの出身だっ
たはずだ。そしてサンターナがまだ幼いうちに不慮の出来事で命を落としたと。
男は前を向いたまま答えなかった。サンターナも思わず口にしてしまった言葉を悔いるよう
にぷいっと向き直る。そしてまたワインを含むと翼の喉に流し込んだ。
「もう少し我慢しろ。その村に俺の知り合いの家がある。少なくとも横になるベッドくらいあ
るはずだ」
「ねえ、それよりいつこの国に来てたの? 確か、今度の大会には来ないって…」
見上げる翼の目をまっすぐ受け止めてサンターナは薄く笑った。
「おまえは運が良かったんだ、俺の不運のおかげで。こっちはやっとやりくりして取った休暇
だったんだがな」
イタリアのクラブに移籍したばかりのサンターナは、もちろん今回の中南米クラブカップに
は出場することはない。古巣のチームメイトだった翼にとっては、寂しい状況だったわけだ。
「じゃあ、ギリギリで見に来てくれたんだ、ミラノからわざわざ」
「えらい日に着いたもんさ。空港から市内に向かう途中で軍部のクーデターの第一報を聞い
て、そのままバスは立ち往生。なんとかチームのいるホテルまで着いたが、おまえが一人で日
本大使館に向かったきり連絡が取れないって聞いてな…」
「そうだ、じゃあチームのみんなは…?」
浮かされたようにつぶやく翼を見ながら、サンターナは数時間前のほとんど奇跡ともいえる
翼との遭遇を思い返していた。
宿舎のホテルを飛び出して途中で何度も砲撃戦に阻まれながらようやくたどり着いた日本大
使館に既に人影はなく、再びさまよい出た街でサンターナは思いがけないものを見つけたのだ
った。
もっとも爆撃の被害の大きかった地区で、ガレキの山と化した市街にまるでそこだけ時間が
止まったかのように白いサッカーボールが転がっていたのだ。何の傷も受けずに。そのすぐ側
に翼の名の入ったバッグを見つけたサンターナは必死にその周囲を捜し回り、崩れた建物の脇
で倒れていた翼を見つけ出したというわけだった。
「スタジアム方面は割合被害が少なかったらしい。チームの連中は早めに避難できたはずだ」
|