BITTERSWEET CRISIS                             第2章−5








5 荷馬車






 辛い記憶だった。遠くで人々の歓声が波のようにさざめき、そして彼は一人だった。空は深 く、まぶしく、足元からは熱気が沸き立った。右から、左から、背後から、ドシンドシンと体 当たりする仲間の声が彼を囲み、もみくちゃにする。そのどの顔も歓喜にあふれ、そして彼は 一人だった。
 汗の匂い、土の匂いが入り混じり、全身に疲労がまとわりつく。しかし、神経がぴーんと緊 張し、声が思うように出ない。彼はそんな中で精一杯伸び上がって捜していた。
 捜していたのは、何だったのか。――記憶の波形がそこで大きくぶれる。確かに何かを捜し ていたのだ。身を切るようなその焦燥感だけが意識の底に残っている。
 一体、何を…? 翼は涙が頬を伝わって行くのを感じた。
――翼くん!
 聞こえる。だが声の主の姿がない。聞こえる気がしているだけなのか。風景がねじれてい く。体が重い。そして鈍い痛みが神経を刺激する。振動。小刻みな振動。その正体を見極めよ うと体を動かす。――と、白い光が目を射た。
――翼くん!
「ツバサ!」
 まず目に入ったのは深い悲しみの表情だった。次の瞬間、ゆっくりと世界がそれぞれの像を 結んだ。
「気がついたか!」
「――ああ、サンターナ…?」
 悲しそうに見えた表情が実は自分の身を案じるそれと気づいて、翼は微笑もうとした。が、 それは一瞬のケイレンにしかならなかったようだ。
「動くな、ツバサ。一通りの手当てはした。だが出血が多すぎた。それに下手をするとどこか 骨折してる可能性だってある」
「どこ、ここは…?」
 翼はごわごわとした麻袋を重ねた上に仰向けに寝かされていた。不規則な振動は、どうやら 荷馬車のそれのようだった。サンターナの肩越しに、首を振り立てながら歩を進めるロバの姿 が見える。空は妙にしんとして、まるで海の底にいるような色をしていた。
「市街から10キロかそこら離れた村に向かっているところだ。砲撃は今のところ収まってる ようだが、いつまたゲリラ戦がぶり返すかわからない。とにかくおまえを安全な所で休ませな いと…」
 ちょうど夜が明けようとしていた。空気が切れるように冷たく、それが心地よく翼の肌を刺 激した。サンターナが手を伸ばして翼の頬の涙を拭う。
「苦しいのか?」
「ううん、大丈夫」
「おまえ、うなされてた」
「そう?」 翼は目を閉じた。「ずっと昔の夢を見てたみたい。でも忘れちゃった」
「坊やは気がついたのかな?」
 翼はびっくりして目を開いた。もう一人の人間がいるとは思っていなかったのだ。だが、こ れが荷馬車なら当然御者がいるはずである。
「これ、ワインだ。飲ませてやりなさい」
「あ、どうも」
 サンターナが体をねじって手を伸ばした時、御者の男の顔がちらりと見えた。農民風の大き な帽子を目深にかぶり、黒々とあごひげをたくわえた中年の男である。ワインの小瓶を渡す 時、翼に視線を投げて微かに笑ったようだった。
「そら、ツバサ」
 サンターナの顔が近づいたかと思うと、唇に甘い味が伝わった。ひりついた喉に冷たいワイ ンが快かった。
「…ああ、ありがとう」
「もっと飲むか?」
「ワインは血になるよ。キリストの血だからね」
 男の歌うようなスペイン語に、サンターナはゆっくりと視線を投げた。
「でも取り返せない血はどうなる? 地面はいくら血を吸っても足りないんだ」
 サンターナの目に一瞬ではあったが暗い影が走った。以前ロベルトがちらっと口にしたこと があるサンターナの生い立ちを翼は思い出していた。確か彼の父親は中米のどこかの出身だっ たはずだ。そしてサンターナがまだ幼いうちに不慮の出来事で命を落としたと。
 男は前を向いたまま答えなかった。サンターナも思わず口にしてしまった言葉を悔いるよう にぷいっと向き直る。そしてまたワインを含むと翼の喉に流し込んだ。
「もう少し我慢しろ。その村に俺の知り合いの家がある。少なくとも横になるベッドくらいあ るはずだ」
「ねえ、それよりいつこの国に来てたの? 確か、今度の大会には来ないって…」
 見上げる翼の目をまっすぐ受け止めてサンターナは薄く笑った。
「おまえは運が良かったんだ、俺の不運のおかげで。こっちはやっとやりくりして取った休暇 だったんだがな」
 イタリアのクラブに移籍したばかりのサンターナは、もちろん今回の中南米クラブカップに は出場することはない。古巣のチームメイトだった翼にとっては、寂しい状況だったわけだ。
「じゃあ、ギリギリで見に来てくれたんだ、ミラノからわざわざ」
「えらい日に着いたもんさ。空港から市内に向かう途中で軍部のクーデターの第一報を聞い て、そのままバスは立ち往生。なんとかチームのいるホテルまで着いたが、おまえが一人で日 本大使館に向かったきり連絡が取れないって聞いてな…」
「そうだ、じゃあチームのみんなは…?」
 浮かされたようにつぶやく翼を見ながら、サンターナは数時間前のほとんど奇跡ともいえる 翼との遭遇を思い返していた。
 宿舎のホテルを飛び出して途中で何度も砲撃戦に阻まれながらようやくたどり着いた日本大 使館に既に人影はなく、再びさまよい出た街でサンターナは思いがけないものを見つけたのだ った。
 もっとも爆撃の被害の大きかった地区で、ガレキの山と化した市街にまるでそこだけ時間が 止まったかのように白いサッカーボールが転がっていたのだ。何の傷も受けずに。そのすぐ側 に翼の名の入ったバッグを見つけたサンターナは必死にその周囲を捜し回り、崩れた建物の脇 で倒れていた翼を見つけ出したというわけだった。
「スタジアム方面は割合被害が少なかったらしい。チームの連中は早めに避難できたはずだ」
「そう、よかった…」
「なあ、ツバサ」
 サンターナは少しためらってから翼に尋ねた。
「なんだってあんな時に大使館になんか行ったんだ。しかも荷造りまでして」
「うん…」 翼はゆっくりまばたきをする。「今度の大会の間、身柄を保護してもらおうと思 って。大会が終わったらそのまま日本に送り返してもらえるようにね」
「なんだって!!」
 思わず大きい声を出してしまったサンターナはあわてて御者台の男に目をやってから声を低 める。
「どういうことだ、それは。シーズンは始まったばかりだっていうのに。それは、ブラジルで のプレイをやめるってことか!?」
 翼はしばらく黙ったままだった。それから苦しそうに言葉を絞り出す。
「俺…、俺がブラジルにいると――駄目なんだ」
「えっ、なんだって?」
 わけがわからずにサンターナが訊き返す。翼は唇を噛んで深く息を継いだ。
「岬くんが、俺のために危険な目に遭ってるんだ。俺をブラジルにいさせるために岬くんは自 分自身をエサにして賭けに出てる。先月最後に話した時、岬くんは心配ないからって笑ってく れたけど、あいつらはもう時間の問題だって言ってよこしてたし…」
「あいつら?」
「よくわかんない。岬くんのこと狙ってるやつら。最初は岬くんを買収しようとしたんだっ て。でもそれを断ったらすぐに危ない手に出始めたらしいよ。岬くんははっきり言わなかった けど、命まで狙うような。あいつら、それでもダメで今度は俺にもイヤガラセを始めたんだ。 わざと怖い情報を流したりして」
 サンターナは考え込んだ。岬のことは以前から翼を通じてあれこれ事情を聞かされていた。 16才にして名門大学への入学を果たし、今や国際政治学の最前線でセンセーショナルな活躍 を続けている謎の少年。
 だが、サッカーだけに明け暮れる彼にとって、いくらそういう能書きを並べられても、やは り浮かぶのは数年前に一度だけ対戦した時の選手としての印象ばかりだ。ましてやこの翼まで もそういう裏の世界の陰謀に巻き込まれていたとは、彼には想像すらできないことだった。
「おまえ、そんな素振りはまったく見せなかったな。一人で抱え込んでいたのか、俺がチーム にいた頃からずっと…」
「だって、周りの人たちにはとても言えやしないよ。逆に危険な目に遭わせかねないもの」
 翼はちょっと辛そうに体の向きを変えた。サンターナとまっすぐ向き合うかっこうになる。
「あいつらが先月、最後通牒だって言ってきた時に俺は気づいたんだ。岬くんは俺を人質に取 られてるようなもんだって。だから、もう後は俺がブラジルを出るしかなかった。そう決めて 日向くんに――日本に電話して相談したんだけど…」
「ヒュウガに…?」
 予想外の名前を聞かされて、サンターナは一瞬虚を突かれる。
「うん、でも人選を誤ったかも。日向くんは俺のワガママに優しすぎるから」
 翼はそれだけ言うと目を閉じた。サンターナははっとする。翼にしゃべらせすぎたことに気 づいたのだ。翼の顔色は夜明けの淡い光の中でもどきりとするほど青かった。応急処置の包帯 代わりの白布は新しい出血をにじませて重く貼りついている。サンターナは大きな手を翼の額 に乗せて静かに声をかけた。
「ツバサ、しばらく眠れ。何も心配はいらないから」
 翼は目を閉じたまま小さくうなづき、程なく本当に寝入ってしまったようだった。サンター ナは馬車の行く手に目を転じた。
「ミゲルは今も蹄鉄作ってるかい?」
 サンターナと翼のポルトガル語の会話がわかっていたのかいないのか、その時御者の男がお っとりと話しかけてきた。
「えっ?」
「もう9年も行ってないからなあ、あの村には…」
「あんたはあの村の人じゃなかったのか?」
 翼を抱えて途方に暮れながらさまよっていたサンターナが偶然出会ったこの荷馬車の男は、 彼がビセンテの村に行きたいと言うと、自分もちょうど向かうところだからと二つ返事で乗せ てくれたのだが、慣れた感じで村への裏道をたどっていくその様子を見ても、その男が村の者 なのは間違いないとサンターナは信じていたのだ。
「独立戦争の時に友人たちと一緒に逃げ込んで以来だよ、ビセンテに行くのは。ミゲルにはそ の時本当によくしてもらった。君はミゲルの孫だろう?」
「えっ!?」
「ブラジルに移住した一人息子の思い出話をずいぶん聞かされたっけ。君は瓜二つだね、亡く なった君の父親に」
「あ、あんたは…!」
 サンターナは目をいっぱいに見開いた。
「君とその坊やの活躍ぶりも知ってるよ。私はこれでもサッカー好きのラテンの血を引いてる んだ」
 登ったばかりの朝日が、道の小石の一つ一つに影を作っていた。首都の地獄図が信じられな いほどのどかな田舎道を荷馬車はカラカラと進んで行く。
 本当なら1週間後の中南米カップの大会開会式で開会宣言をするはずだった人物を目の前に して、サンターナは完全に凍りついていた。











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